対人間における平等と自由と祝福と十全さの対比関係

平等とはなんだろう。人間社会にとって真なる平等の関係とは、いったいどんな様子なのだろうか。
辞書には、かたよりや差別がなく、全てのものが一様で等しいこと、と定義されている。
一様で等しい人間関係とはなんだろうか。
また一様で等しい人間関係は人生の幸福にどのように役に立つだろうか。

事自分の人生において、平等と口にする人間の思想が洗練されたものであるケースはひとつも見られなかった。(サンプルが少ないとはいえ)
平等を求める人間は自らにとって重要な要素の提供を強く求めるときにいびつなパワーバランスを
人質に取り自らにとって好ましい形の”平等”を求める傾向にある。
その多く場合において内面に抱える不誠実が自らのみが得をする現実の形に平等を投影し、相手よりも
権力的であると信ずるケースにおいて、いわゆる”平等”が顔を出す。
平等は大義名分であり、本質は他社の権力を奪い、コントロールするために使われることが多いと感じる。

では、誠実さを伴う真の平等の形とはなんだろう。
かたより、差別のない形とはある程度想像できるだろう。同義として等しいことも想像できる。
家賃を折半することや労働内容を一律にすることなどで等しい状態を作ることができるだろう。

しかし一様であること。
これはどうだろうか。

人間関係において一様であるなどということはあり得ない。何にストレスを感じるか、何に快感を覚えるか
は一様ではなく、そこに生じる報酬も明確に可視化されない場合が多々あるからだ。
ランナーが42km走ることはヘルニアを抱える人間が42km走ることとは違う。
八時間の労働で二万円もらえる人間と一万円しかもらえない人間とでは違う。
また報酬が同じでも、人間関係が円滑ではない職場と円滑な職場でも広義における報酬(内的喜び、称賛、自己肯定感など)は違ってくる。

目に見えるものだけで一律を計るのは一見正当性があるように思える。
実生活においては一定の効力もあるだろう、しかしそこに平等というベクトルがあるという主張には
壊滅的なものを感じる。

平等とは人間権利に準ずるものであり、権利のない平等など正義に悖る。

真の平等を目指すことは、実はあまり尊い行為ではないように思える。
権利とは耳障りのいい美徳ばかりが持て囃され、潜在的なものに思わるが、潜在的な(概念的な)権利には何の価値もない。
権利とは実行的、実在的でなければ、ならないのだ。
国連が定めた権利がどれほど美句で飾られていようとも、実質権利が守られていない場合においては
人間権利は存在しない。

広義におけるあらゆる権利を寇掠することができるのは権力である。
逸脱した権力が他者の権利を寇掠する一方で、実はたびたび、我々は望んで権力に権利を奪われるよう意図し、盲従することもある。

権力者と被権力者との間において重要なファクターは、自己肯定感と自尊心、そしてストレスとストレス耐性の関係であると思われる。

人間の精神は主に幼少期において形成され、理性や意識が発達するにつれて変化に寛容になるが、変化を起こせず一生幼少期のままの人もいる。

幼少期に相対した大人(権力者)が対象者の自尊心を潰すことになんら機微のない場合、被権力者は
どこかで自尊心を取り戻すリベンジの機会を迎えることになる。
弱者はいつだって強者の不誠実に振り回される。
しかし弱者においても、強者を取り込む力を持つため、十全な被害者というものも存在しないように
思える。

人はみな、自分とは関係ない外から来た何かのバイアスを受ける。
悪しきであれば呪いと呼ばれ、善きであれば祝福と呼ばれる。

しかしそれらすべてを人生の先に持ち込んではいけない。自らのデザインは必ず自分でしなけらば
ならないからだ。
祝福すら持ち込んではいけない、と言いたいわけではない。
他者から持ち込まれた祝福は、熱力学第二法則に従い、必ず低下鎮静の影響を受ける。
つまり自分で自分を祝福することに比べれば、それは祝福ではないのだと、後になって気が付く。

『自分を祝福するのに値する自分以上の存在など、存在しないのだ。』

自己祝福とは、スピ的な場面においては創造主のつながりといってもいいだろうが、今日は精神構造と
それに伴うエネルギー秩序の話に集中することにする。

定義する。
この文脈における祝福とは、自己の矮小さという幻想から覚める性質をもつすべての事柄、行為を指す。
そして矮小さは束縛とも定義される。
束縛とはできない、という幻想、仮定である。
自分ではない、という仮定を指す。

『私は、私。それだけで十分である』

有名な霊的指導者がそう口にするようにと教えた文言のひとつである。
これには仮定を書き換えるちからがある。
十全という真実に気が付くための示唆が含まれている。

祝福と平等との関係は強くも、濃くもない。平等であることを十全である自己は求めることがない。
平等の性質はゆがんだ固執から出発している場合がほとんでありその正体は真実からの隔離であり、
束縛であり、二極に分けた場合、呪いの側の性質を持つ。

平等性というものは十全性とは相いれない。程度の多寡であり、限られた視点に依存した
好みの押し付けでしかないからだ。
十全な自己が真に成したいと思えることは一つである、”相手にも同じように十全であってほしい”
という祈り。
他者に対して行う行為はそれに準拠する。そうしないでいられないからだ。
ベクトルは平等ではなく、同一である。十全な私と、十全なあなた。その関係を祝福は求める。

これはスピ的な話が下地にあることを自覚しているが、真の幸福な人間関係に思いを馳せたとき、
スピ的要素を排除して語ることもできる。

人間関係において投影を避けることはできない。他者に対して感じる不満は自己の欠陥を映すことが多い。
被投影者の思想体系の歪みのなさ(つまり”自己にとって都合の悪いことを受け入れる誠実さが人生においてどれほど発揮されているか”)に依存するため、いわゆる「相手」=「私」という等式には当てはまらない。

優秀なパートナーと透明な人間関係を構築している場合、必ずその他者は自己の妄信と不誠実を見せてくれる。他者から投影構造として見抜けないケースでは、自己との対話が足りないケースが考えられる。
現在のスピ界隈ではそのことに言及されることが非常に少ないと感じている。

誰もが誠実であることをためらうのだ。なぜならば面倒だからだ。
いびつな権力の中にいるほうが目に見えて得だと考えている。誠実であるより不誠実であるほうが
有利だと考えている。
実社会ではそうかもしれない。つまり”うまいことやる”にはきれいごとだけでは足りないケースもあるだろう。すべての人間か誠実さに対して潔癖であるほうが異常なのだという主張にも一理あるように感じる。

しかしこと精神において、真の自己との欺瞞は、手放してからでないとその恩恵に与れないことも事実の
一端である。
自己が不当に吸っている甘い汁の正体に気が付き、そしてどんなレベルの自己を創造しなおすのかを(覚醒的に)決定させてもらえるタイミングは多くの人間の人生において数回である。

自己の再創造において一番の敵は制限であり、制限の正体は過去のアイデンティティである。
脳の一部分の思考プロセスを過去の経験から、自らの信念とデータ、価値観から解き放てるか。
真に自由であると主張する際、そういったことが問われる。

セルフシップにおいて、(霊的、自覚的、理性的、信念的問わずあらゆる)覚醒と祝福は組になっている。
覚醒が祝福を可能とし、祝福が覚醒の光の道となってくれる。

自分の造語であるが、セルフシップという言葉だけでは、セルフシップの重要性のなにも示せていない。

セルフシップの信念体系ではもっと多くの要素が絡み合っているからだ。

自分もこれを読んでくれているあなたも
幸福な人間関係において、過去の制限とそれを創り出す不誠実や自己卑下から正当な形で
離れられることを願っている。

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