見出し画像

初めての質問検査権の行使?産婦人科医の調査!

 前回は初めての税務調査でした。先輩たちが何やってるか分からなくて、つまらなくて居眠りをして怒られた。
 程なくして、2回目の調査につれて行かれることになった。どうやら産婦人科らしい。
 税務署の法人課税部門は、法人であればなんでも調査するので業種は多岐に上ります。前回のような製造業や建設業などいかにも会社らしい会社から今回のような町医者まで、世間一般のイメージからすると会社に見えないようなものでも法人登記してあればやる。だから法人申告書には作家や俳優のがあったりする。
 いろんな業種を調査して様々な世界を見ることができるのは、税務署の仕事の利点だと思う。特に若い時は知らない業種に行く時は嬉しくなって、事前に業種の勉強をしたものだ。今回は医者に行ける。しかも産婦人科医だ。なかなか見れるわけではない業種だ。そう思うとワクワクする。モチベーションが上がる。
 今回の調査先は市街地にある街中の産婦人科医なので、統括と歩いて現地に行く。もう何十年もやっている古い産婦人科で、建物はちょっと古いけどオシャレな外観だった。
 調査は一般的に午前10時ぐらいから始まるけど、医者は午前中の診療があるので最初から会うことはほとんどない。その時も調査の最初は税理士しかいなかったと記憶している。前回の調査は狭い応接間に6人くらいいて調査したけど、今回は3人で医者の自宅の応接間で静かに調査は進んだ。
 調査はやはり雑談からスタートする。前回の調査では離れたところから税理士と統括が話しているのを眺めているだけだったが、今回は前回と違い税理士と面と向かって話せる位置にいる。普通に話が聞けることが嬉しい。やっと調査している気持ちになった。
 税理士が医者の人となりを説明する。
 「この先生は、産婦人科にしては真面目な先生で酒も女もほとんどやらない。強いて言えば車が趣味ですかね。ガレージに2000万のベンツがありますよ。後でご覧になります?ね、ご案内しますよ。産婦人科の先生はとにかく女性問題が多くて、あっちでこうしたとかこっちでどうなったとかうんざりするのだけれど、この先生はそんなことがないので、それがとても良いと思います。だから僕も何年もお付き合いしている」なんてことをペラペラ喋ってくれる。税理士や経理担当者がペラペラ喋ってくれる時はそれが直接的に税金に影響しない、つまり自分たちに不利にならないことがわかっているから喋るわけだけれども、新人の僕には刺激的だ。え、やっぱりそうなの?乱れてるの?産婦人科医。その乱れた内容も興味ある。本当は税金よりそっちが知りたい。
 こんな下品な好奇心も新人には大切だ。調査のスタートは、やっぱり興味や好奇心だと思う。この会社はどんな会社だろう?この社長はどんな人だろう?そういった興味が調査をより深いものにしてくれる。脱税を見つけたいとか、それなりの数字を挙げないといけないとか、そんなことを考えていると上手くいかないと思う。

 午前中の診療が終わり、医院長が顔を出した。「あ、よろしくお願いします。〇〇です」軽い感じで、気さくに挨拶をしながら入ってきた。50代前半だったと思うが、実年齢より若く見えた。お医者様的な尊大な感じはなく、ちょっとおしゃれな軽いおじさん風でした。
 やはり雑談から始まったが、医者なので事業環境とか景気とかそういう話はしないで、普段の産婦人科医の仕事についての説明や紹介が多かった。
 「産科は休めないのですよ。お産がいつ始まるか分からないでしょう?それでも学会や泊まりがけの研修で空けなくてはいけない時は大学病院から派遣してもらうんですよ」
「なるほど。たとえばこの日の10万の支払いは、夜勤してくれた医者に対しての支払いですね」とM統括官が確認する。
「ええ、それぐらい払わないときてくれないのですよ」
 M統括官は雑談をしながらも、帳簿をちらっと見て確かにその日に研修があったことを確認している。
一方で僕は、びっくりしている。「バイト一晩で10万、そんなに貰ってるのか。どうせ若い研修医だろ?俺とそう変わらない年齢だろ?いやむしろ俺より若いかもしれない。それが一晩で10万って、医者の世界はどうなっているんだ。夜勤っていったって働いていないんだろ、お産がなかったら寝てるんだろ?それで俺の半月分の給料をもらうのか?」と興奮している。少し落ち着くと「医者はやっぱりいいな、今から勉強して医者になれないかな」と、税務署に入ったばかりなのにもうキャリアチェンジを考えたりする。
 医者は多分「産婦人科医はこんなにも忙しいんだ」って苦労話を分かってもらいたいのだろうけど、税務署員であるM統括は冷静に支払いの事実を確認して、まだ税務署員になりきれていない僕は「医者はいいな、儲かってるな」と思ってしまっていた。

 医者はそのうち大学病院の文句を言い出す。
「先日も持病を持っている方でうちでは対応できない患者さんを大学病院に依頼したのですが、その時の医者の対応があまりにひどくてね。『私も去年までアメリカにいたのですけど』って言うのですよ。最初にですよ。『アメリカにいた』って事とその患者さんの件には何も関係がないのにですよ。」
 なるほど、その医者はその地方の大学の医学部を出て開業して30年近くになる。難しい患者がいると大学病院に依頼するけど、医者の世界では大学病院がヒエラルキーの絶対上位なので、もしかしたら後輩かもしれない大学病院の若い医者にマウントを取られる。なるほど町医者になると、後輩にも頭を下げなくちゃいけないのか。プライドの高い医者にはきついだろうな。医者の世界も厳しい。
「『白い巨塔』という本を知っていますか。山崎豊子という、新聞記者から作家になった人の本です。あの本はとても忠実にこの医者の世界の事を書いています。本当にあの通りなんですよ。もう何十年も前の本ですけれど、よくできている。ちゃんと取材したのでしょうね」
 もうこの辺になってくると、医者の話が面白くて、話に引き込まれてしまっている。実は僕はその本は読んでいて、ドラマも見ていた。教授の椅子を争って買収とかが繰り広げられる大学の医局のドロドロを書いていた話だ。面白いな思っていたので、本当は「僕もその話読みました」って言いたいのだけれど、言えない。やっぱりまだ緊張していたのかもしれない。でも、話に参加したいという気持ち、何かをしたいという気持ちが湧いてきてしまっていた。調査をしたいとか、脱税を見つけたいではない。前回の調査では、お客さんモードでずっと蚊帳の外に置かれてつまらなかったのかもしれない。でも、今回は話を聞けて楽しくなってしまって、参加したい気持ちが高まってしまった。

 医者の苦労話の後は、税務上の細かい質問と回答の応酬があった。僕はまだ知識も経験もなかったので、統括が質問していることもあまりよく分からなかったのかもしれない。
 それでも僕は参加したい一心で、医者の言う事をよく聞こうという態度をとった。僕なりの一生懸命だったと思う。
 それで僕は医者の言うことに、猛然と頷き出すようになった。相手の言うことをうんうん頷いて100%肯定する。相手の言うことを一旦は認めてあげれば、相手の本心を引き出す作戦だと信じていた。
「うん、なるほど、そうですよね」
「うん、うん」
 この医者が何を言っていたか忘れたが、とにかくなんでも「うんうん。そうですよね」ばかり言っていた。

 とうとうM統括がキレた。
「事実だけを考えろ、相手の憶測に賛同するな!」と一喝されました。普段は眠そうな目なのに、その時は目を向いてまんまるの可愛い目になっていました。こんなに丸くなるんだ、と感心したくらいでした。でも、多分僕が悪い。素直に「はい、すいません」と謝りました。
 その時は、何が医者の都合の良い憶測か、何が事実かわからない状態で、とりあえず全てに頷いていたから、何の発言に頷いて怒られたのか分からない。でも、僕が医者にペコペコ、ヘラヘラ迎合していたので、M統括は「納税者に迎合するな、税務署員としての矜持をもて!」という事を言いたかったのでしょう。
 確かにそうだな、と思った。僕なりには一生懸命だったのだけれど、税務署員のスタンスとしては間違っていたかもしれない。それで、なんでも頷くのはやめたけれど、会話したい、質問しなくちゃという焦りのような気持ちは募っていった。
 税務署員の調査権限に質問検査権というのがあります。税金に関することを質問する権限を税務署員もち、納税者はそれに答えなくてはいけないという、税務調査の根本的な法的根拠です。この税務署の質問に対しては、納税者側には黙秘権がないとされています。確かに税金の調査で「黙秘します」って言われたら、調査が進まない。
 税金の調査手法にはいろいろあるけれど、税務署員はこの質問検査権があるから調査ができるのでこの権利が調査の生命線であり、同時に調査は調査官の質問から始ります。そんなことを研修で習っていたので、質問しなきゃ、質問検査権を行使しなくちゃ、税務署員になれない調査が始まらない。そんなふうに考えて焦っていました。

 午前中の診療が終わり、診察室を見せてもらうことになった。
 税務調査では現場を見ることの重要性が常に言われている。製造業であれば工場は必ず見に行くし、それ以外の業種で現場に行けない業種でも、税務署員は帳簿調査をしながら事務所内の書類の整理具合や雰囲気などを気にかけている。あるいは社長と他の従業員の話し方を聞いて人間関係を想像したりして、帳簿では得られない情報を得ようとしている。工場などの現場を回りながら、どんな設備があるか、社員は何人くらいいるか、社内の雰囲気はどうか、その他いろんなことを気にかける。慣れてくると、従業員の挨拶のやり方一つで会社の雰囲気がわかるようになる。M統括はこなれた感じで医者の後について診察室に向かっていき、僕もその後に続きました。
 僕は緊張しました。まず、これまでの2回の調査では社長宅の応接間しか入った事がないから、税務署員として現場に入ったことはない。医者の診察室に患者ではない身分で入ったことはないし、まして産婦人科に行った事がない。その当時は僕はまだ未婚でした。だから産婦人科は僕にとっては特殊な世界で、見てはいけないような禁断の世界でした。診察室のクリーム色のカーテンを開けようとする医者に、思わず声をかけてしまいました。
「いいんですか?はっ、入れるんですか?あのぅ足をバーっと開いて、とかそういうことはないんですか?」
 思わず、言ってしまった。頭のどこかで、税務署員として医院長と喋らなきゃ、と焦っていたので、やっとしゃべれたという安堵と共に、俺何しゃべってんだ?と自分の発言に狼狽してしまった。
 「君は面白いことを考えるね〜」と医者が笑い、「おほほほ〜大丈夫ですよ〜」と看護婦にも笑われました。
 税務署員として初めての質問は、あまりに間が抜けてました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?