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#3 学生の力を信じること

2020年からの1年半だけでもいろいろな学生と出会いましたが、その中で1人、とても印象的な学生がいました。

「ディスレクシア」という言葉を知っていますか?
イギリスから来たその女性の学生は、自分が「ディスレクシア」であることをスタッフに伝えていたので、私もそのことは認識していました。

でも、実際は、私もスタッフも「ディスレクシア」が何なのか、どんな問題があるのかまでは、正しく理解できていませんでした。

「ディスレクシア」とは、「国立成育医療センター」のサイトの説明から抜粋すると、

1896年に英国のMorgan先生が最初に報告した文字の読み書きに限定した困難さをもつ疾患です。知的能力の低さや勉強不足が原因ではなく、脳機能の発達に問題があるとされています。

(国立成育医療センター https://www.ncchd.go.jp/hospital/sickness/children/007.html

とあり、脳機能の発達に障害がある疾患のことです。
文字の読み書きに困難があるため、学習障害に位置づけられています。
(障害の度合いには個人差があって、彼女は比較的軽度のようでした。)

その学生は、10代のころから日本のアニメが大好きで、長い間、日本に住むことを夢見ていました。

イギリスの大学でアニメーションを勉強し、日本でアニメに関われる仕事を見つけ、念願の来日を果たしたのです。
もちろん、日本語の勉強にもかなりの情熱をもっていました。

でも、ディスレクシアの障害のために、なかなか自分に合う語学学校がなく、オンラインのレッスンも合わなくて、ずっと独学で勉強を続けていました。そんな彼女が、ある時、私が教えている学校の門を叩いたのでした。

ディスレクシアの学生にとって難しいこと

初級中盤のクラスに入った彼女との初めての授業の日。
教える文型は、理由の「から・ので」でした。

授業を進めていくうちに、彼女が「ます形」や「辞書形」などという動詞のフォームの名前、初級初期に習うはずの動詞のグループ分けすらも知らないことが分かってきました。(日本語教育では、動詞を3つのグループに分けて覚えます)
文の意味はわかっても、文法構造の説明になると??となってしまうのです。

私が「動詞のグループ分けを覚えたほうがいいよ」とアドバイスすると、彼女は「グループなんて覚えられない。私は耳で聞いて覚えるから!」とイギリスアクセントの英語で不機嫌そうに言って、ツンとした顔で口をつぐんでしまいます。

どうやら、ディスレクシアの影響で、グループ分けのような規則を覚えることが難しいようなのです。

と言われても、私も初めての経験でどうして良いのか分からず、後はただ、彼女を怒らせないように、腫れ物にさわるように、その後も授業を進めるしかありませんでした。

我慢の限界が来てしまった日

その日は、動詞の「て形」を使う予定だったので、私は授業の前に、彼女にだけ、「て形」の活用ルール表を渡しておきました。
(て形とは「食べて」「飲んで」など、動詞の最後が「て/で」になる形のことです)

しかし、グループ分けを知らない彼女にとって、そのルール表は何の役にも立たない上に、自分にだけその紙を渡されたことで、プライドをひどく傷つけられてしまったのです。

さらに私は、彼女が動詞の「て形」を言えないとき、他の学生をあまり待たせたくないという焦りから、つい私が先に答えを言ってしまっていました。「はい、じゃあ、聞いて覚えてね」という感じです。

休み時間になったとき、彼女は私に激しく怒りをぶつけてきました。

「どうして私にだけこんなものを渡したり、私が言う前に答えを言うの?
私のこと、バカだと思ってるの?!」
と。

私はハンマーで打たれたみたいに、頭が真っ白になりました。

それから必死で、「そうじゃないよ!でもグループ分けを知らないと、この先も新しい動詞の活用を覚えるときに大変になるよ!」と、弁解を続けました。

しかし、それが余計に彼女を怒らせてしまったのか、2コマ目が始まると、彼女は荷物を持って、教室から出ていってしまいました

がーーーーん。

内心、動揺して心臓が止まりそうでしたが、他の学生の手前、必死で平静を装い、なんとか授業を進めていきました。

授業後、受付にいたスタッフに聞くと、彼女は泣きながら出ていったそうです。私は彼女を傷つけてしまったことを猛烈に後悔しました。
もう、いっそ、海に沈んでしまいたくなるくらい。

撃沈からの浮上

正直、もう彼女はレッスンには来ないかもしれないな…と諦めていたのですが、翌週のレッスンの日、彼女はちゃんと学校に来てくれました。
本当に、日本語の勉強がしたかったんだと思います。

彼女は学校のスタッフに、
「先生(私のこと)は悪くないです。ただ、動詞のグループを知らないと、この先困ると言われたことで、自分が今まで勉強してきたことを全部否定されたような気持ちになって、悲しくなり、クラスにいられなくなったんです。」と説明してくれたそうです。

私だけでなく、彼女自身も、ディスレクシアが、これからの日本語の勉強にどう影響していくのか、よく分かっていなくて動揺したのです。

その後、彼女は幾つか、講師にしてほしいこと、してほしくないことをスタッフに伝え、あとは何もなかったように接して欲しいとリクエストしました。

そのリクエストのおかげで、私は彼女との接し方が分かり、安心感を持って話せるようになりました

すると、徐々に、彼女ができないこと、分からないことの法則性が見えてきて、それにどう対応していくかの方向性も見えてきました

「雨降って地固まる」ではないですが、同じように彼女の方も、私に冗談とか、軽口も言ってくれるようになり、「今日のレッスンは楽しかった。ありがとう!」と言ってくれることも!

さらに、先月のJLPT(日本語能力試験)前の1ヶ月間は、私のプライベートレッスンを取ってくれるまで、信頼関係を築けるようになりました。

私は今でも、あの日、彼女のプライドをひどく傷つけてしまったことを、とても後悔しています。

でも、そのおかげで、対応の仕方が分からない学生には、どうして欲しいか、どうして欲しくないかを、お互いに話し合っておくことが大切だと学びました

学生の力を信じること

今も彼女は休むことなく、レッスンに来てくれています。
他の人がすぐできることが、彼女には難しいことも多いです。

でも、時間がかかるだけで、ひとつずつ、確実にできることが増えています。クラスの誰よりも漢字が得意だし、日本人の彼氏もいて幸せそうです。

最近は私も、クラスの中に、他の学生と同じペースで、同じようにはできない人がいても、焦らなくなりました。

肩の力が抜けて、「大丈夫、その人のペースで頑張ればいい。続けていけば、いつかできるようになるから」と、学生の力を信じられるようになったんだと思います。


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