見出し画像

泣ける短編小説「死ぬ時、眠る時」

※こちら↓のYouTubeで朗読しているオリジナル小説です。


 死ぬことと眠ることの違いが、高校生になってもいまいちしっくりこない。
 母親を失った幼い子どもに「かわいそうに。あの子はまだ死というものがわかっていないんだわ」という言葉を口にするのを、ドラマや映画でよく見る。きっと人間には生まれた時から、「死」を理解するための引き出しがあって、いろんなものを見たり、聞いたり、読んだり、経験したりするうちに「死」を表す物がそこにしまわれて、いつの間にか「死」を理解するようになる。
 「眠り」の引き出しは「死」の隣にある。私の「死」の引き出しは、中身が詰まる前に壊れてしまって、「眠り」の引き出しと一緒になってしまったのだ。一度壊れたら、もう元には戻らない。
 母が眠りについたのは、私が小学校に上がる前の冬の夜中のことだった。東京では珍しく牡丹雪が降り続き、しんしんとした日。雪でたわんだ電線を見て、「大丈夫かしら。停電しないといいけど」と保育園からの帰り道、右手で私の手を握り、左手に赤い大きな傘を広げ母は歩きながら呟いた。
 電車が止まりそうだから早退になったという父と、ひとしきり雪で遊んで満足した小学生の兄が早く帰り、珍しく家族四人で夕飯を食べた。この日はトマト鍋だった。
 「鍋にトマトなんて邪道だ」と言う父に、「あら、一口でいいから食べてみてよ」と母が促す。赤く染まった鶏肉を口に運び、むしゃむしゃ、ごくんと音がしそうな食べ方をした。
「意外とイケるでしょ?」と、笑う母に「そうだな」とあっけなくうなずき、お玉いっぱいの具材を自分のお椀に注ぐ父が、私は嫌いではなかった。
 順番にお風呂に入って、私は母の布団にもぐりこんだ。父は持ち帰った仕事があると言って、リビングでパソコンを開いていた。一緒に布団に入った母は、「ほら、ちゃんとかけないと風邪ひいちゃうわよ」と、キティちゃんの掛け布団を私の口元まで引き上げた。
 そして、掛け布団の上からポンポンと催眠術をかけるように優しく叩いた。
 ポンポン、ポンポン、ポンポン
 まぶたが落ちていく。
「おやすみ」
 母の声が聞こえて、私は眠った。その「おやすみ」はいつもより特別優しいとか温かいとか、そういう声ではなかった。いつも通りの「おやすみ」だった。明日も明後日も、一年後も同じ声で言うだろうという、日常に溶け込んだ「おやすみ」だった。
 朝になると、母は隣で冷たくなっていた。

 あまりに突然のことだった。寝ている間に心筋梗塞を起こしたのだ。
母は身体があまり強くなかった。前の年には、一週間ほど入院していた。だけどその時は命に関わる病気じゃないと言っていたし、こんなに簡単に人が動かなくなるわけがない。
 降り積もった雪は、日光に照らされてあっという間にその姿を消した。と同時に、道はべちゃべちゃにぬれ、公園の土はぐちゃぐちゃで気持ちが悪く、なんだか嫌な匂いがした。
 それでも母の通夜と葬式には、多くの人が集まり、涙を流していた。棺の中の母はいつも通り眠っているようにしか見えなかった。
「ねえ、お母さんはいつ起きるの?」
 そう尋ねると、父と祖母が涙を流し始めた。
「お母さんはもう起きないんだよ。天国に行ってしまったんだ。死んでしまったんだ」
 嗚咽まじりに答える父の言葉が、附に落ちなかった。
「どうして?天国から帰ってきたらいいじゃない。お母さん、眠ってるだけだよ」
 祖母は私を抱きかかえて会場から出た。重なりあうすすり泣きが、私を追いかけた。

 はあと吐いた息が、白い蒸気に変わる。私はマフラーを口元に引っ張り上げて、鼻を埋めるように俯く。つむじにヒヤリとした冷感が伝わる。見上げてみると、ちらちらと雪が舞い始めている。母の眠った夜のような、ふっくらした牡丹雪ではなく、可愛げのある粉雪。
 さすがに高校生になった今では、「死」と「眠り」の一般的な定義くらいは知っている。「死」は生命活動の停止。「眠り」は脳の休息タイム。死んだら二度と生命活動を再開することはない。時間がたてば心臓が再び動き出すとか、呼吸を始めるとかそんなことはない。眠りは時間が経てば、勝手にその役目を終える。人間は新しい一日を始める。死んだら、その身体はただの物質になる。そのうち匂いを放つようになり、うじがわき、腐っていく──

 本当に?私は、母が腐っていくところを見ていない。母は美しいままだった。美しいまま、火に焼かれて姿を消した。
 私は母をそのまま置いておいて欲しかった。前日まで元気にトマト鍋を食べていた人が朝起きたら死んでいる、なんてことがありえるなら、昨日まで死んでいた人が朝起きたら生き返っていることがどうして起こらないと言えるのだろう。
 私はあの時、泣いて主張した。
「お母さんは眠ってるだけだよ!もうすぐ起きるよ!だから連れて行かないで──」
 火葬場で泣き叫ぶ私を祖母は抱きしめた。痩せた胸で口を塞がれながら、私は「殺さないで!」と叫び続けていた。
母は連れて行かれ、小さな箱になって戻ってきた。

 私は毎晩今日が最後の夜のつもりで布団に入る。母が眠っている間に亡くなったから、朝目を覚さないかもしれないと恐れているのではない。眠っているだけなのに、死んでいると思われて焼かれてしまうことを恐れているのだ。
 いつか私もみんなと同じように眠れる日が来るのだろうか。きっと腐りゆく人間を見るまで、その日は来ないのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?