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『90歳、何がめでたい』

92歳になる祖母がいる。

腰は曲がりきり、杖無しでは歩くのも難しく、耳は遠くて会話も一苦労。
だけど頭はしっかりしていて、ボケる気配はまだ無い。
老体ながらも毎日畑に行き、台所に立って炊事し、家業を切り盛りしている。

そんな祖母だが、80歳を過ぎた頃から「もう疲れた。早く死んでしまいたい」と言うようになった。

こちらとしては長生きしてもらわねば困る。
「何を気弱なことを」「同年代は皆ボケて認知症だ」「頭がしっかりしているだけ幸運と思わなきゃ」と、さんざん父と慰めてきたが、ついに「早くお迎えがこないかしら」と口にし出した。


87歳で運転免許を返納するまで、祖母は毎月『ルビー会』なる同窓会に参加していた。
女学校時代の友人たちと集まり、ホテルでランチを楽しんでいたそうだ。

その日だけは綺麗にお化粧し、愛車である三菱のセダン(途中からダイハツのミラに変わったが)を運転して出かけていた。

友人のご婦人たちは皆、息子や娘夫婦に跡を譲り、悠々自適に老後を楽しんでいたという。

「〇〇さんが息子にスマートフォンを買ってもらったらしいの。あんなに小さいのに動画も撮れるのね。△△さんはテニスをしているんですって。みなさん若々しくって羨ましい。私ひとりだけいつまでも働いて、おばあさんになっちゃった」

本来なら祖母も、そんなお気楽な老後を送れていたんだろう。
残念ながら、祖母に代わって家業を支えるはずの嫁は遁走した。
後妻を貰おうにも離婚に応じず、息子は離婚を諦めて30年別居。
跡継ぎの孫(つまり私)は京の都で高等遊民。

恨むなら誰を恨もうか。
トリッキーで破天荒な女を嫁にもらった息子か。
特殊な家業と知りながら嫁ぎ、環境に耐えきれず出て行った嫁か。
いつまでも帰ってこない孫か。

答えは祖母にしか分からないが、「おばあちゃん可哀想に」と思わずにはいられない。
だからといって祖母孝行で今すぐ実家に戻ろうとはならないのだから、とんだ薄情な孫だけれど。


話が逸れた。
祖母が参加していた『ルビー会』の面々も、年を追うごとに数が減っていった。
参加するたびに、一人、また一人と去っていく。
ある人は認知症で。ある人は老衰で。ついにはこの世から旅立つ友人も出てきた。
「ヨボヨボのおばあさんだ」と嘆いた祖母だけが、まだ元気に生きている。


車の免許を返納してから、祖母の行動と選択肢はぐっと狭まった。
そもそも87歳まで運転させるのもどうなのよ、と批判を浴びそうだが、ここは田舎なのだ。車が無いと生活できない。

たまに父が病院へ連れて行く以外は、自宅と敷地の山だけが祖母の活動範囲となった。
これではボケやしないか、と心配だったが、「私がボケたら家が潰れる」と使命感があるのだろう。お客さんの対応をしているおかげもあり、頭だけはクッキリハッキリしている。

それでもやはり92歳。
帰省するたびに身体は小さくなっていき、どことなく態度も幼くなった。
耳の遠さも加速していき、今ではちょっとした会話も聞き取れない。

「ハサミはどこにある?」と聞いても、ぽかんとした顔が返ってくる。

「ハサミは! どこに! ある?!」

「なぁに?」

「ハサミは!! どこに!! あるの!!!」

一事が万事こんな調子なので、まるで怒鳴りつけているようで居た堪れない。
久々に帰省した日、父が祖母に大声を出していたもんだから、「そんなに怒鳴らなくても……」とたしなめた。
数分後、今度は私が大声を上げていたのだから世話がない。


こんな田舎で自由に外にも行けず、家と敷地の往復。
娯楽はテレビくらいしかないだろう、せめて何か楽しいことでもしてあげられないか。
そう考えていた時、祖母が自室でひっそり雑誌を読んでいるのを見かけた。

「何を読んでいるの?」と見せてもらうと、『主婦の友 1992年3月号』

こりゃいかん、なんてこった!
30年近くも前の雑誌を噛み潰すように読んでいるのか?!

その瞬間、私の脳内には「生活の慰めがなく、昔の雑誌を繰り返し読む祖母」というイメージが広がった。
私が勝手に可哀想な方向にイメージしているだけかもしれないが。いや、そうと思いたい。

とにかく「何とかおばあちゃんに楽しみをあげなきゃ」と焦り、父に「おばあちゃん昔の雑誌読んでいたから、何か新しい本でも買ってあげてよ」と告げた。

そして父が買ってきたのは、『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子,小学館,2016年)

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お父さん、そりゃないでしょう。なんて酷なタイトルを選んだのさ。

しかし祖母は楽しそうに読んでいるではないか。
どれどれと私も読んでみる。なるほど、これはベストセラーになるわけだ。

軽快な文章で物事をズバッと一刀両断。20代の私が読んでも楽しめる内容。
詳しくはAmazonの説明を見てほしいが、年季の入ったエッセイは文章の勉強にもなった。

父がその本を買ってきてからというもの、祖母は夕食のたびに「佐藤愛子さんは本当におもしろいわねぇ」と楽しそうに伝えてくる。
毎日少しずつ読み進めているようで、生活の些細な彩りにはなっているようだ。

100歳を目指して長生きしてほしいと願う反面、あと何回一緒にお正月を迎えられるかなと不安でもある。
祖母が旅立った時に後悔しないよう、何か行動をしようとしても、どんなことをすればよいのかサッパリだ。

「菜生ちゃんのウェディングドレス姿を見るまで死ねないわ」

ごめんおばあちゃん、孫はまだまだ結婚できなさそうだよ。

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