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#121 お金は偉くない。ましてや会社は神ではない。

 定年退職を迎えた部長が、退職日には次の仕事を決めていて「まだまだ現役で働きますよぉ!」と満面の笑みをたたえていた、あの恐怖を忘れない。

 あの職場で部長職なら、収入は十二分にあったはずで、よもや子育て中ということもあるまいし、年金だってそれなりにはもらえるはずだ。

 しかし、気味悪さの原因はそこではない。この人は、まだ人の上に立とうとしている。直感的にそう思ったのだ。レジ打ちのバイトなんてするわけがないから、きっと再雇用でも自尊心を満たせる、やりがいのある職場に行くのだろう。

 ところで、大半の日本人は無宗教だと言うが、わたしはそう思わない。伝統宗教を信じないがスピリチュアルは大好きで、特定の信仰は持たないが、イベントに絡んだ宗教性はつまみ食いをして楽しんでいるではないか。(その中途半端な信仰が、怪しい新興宗教のつけ入る隙になっているのではないか、とも思う)

 教会で結婚式をして死んだらお経を読むという、雑食性の信仰がある。冷静になれば不思議であるが、なるほどやはり「神仏習合」「八百万の神」という概念があればそれすらも包括できてしまう。この「日本人教」はかなりの優れものである。

 日本人教には、その雑食性以外にも特筆すべき点がある。神様というのは、お願いをする対象なのだ。縁結びや金運や交通安全など、とかく「○○してください」とお願いする。

 銭洗弁天など、冷静に考えると相当厚かましいし、可笑しくもある。なにせ神様に「お金ください!」と言っているのだから。

 JーPOPの歌詞では、しょっちゅう神様が登場してはお願いされている。それは何教の神様なんだろう?と不思議に思う必要はない。八百万の神のうち、何かしらの神様の気を引くことができれば良いのだから。

 さて、神の国たる日本でいま最も力のある神様は、どなたであろうか?それはきっと「会社」である。

 労働人口の大半が所属しているが、なにせ会社というのは人でもモノでもない、「法人」という設定が生み出したファンタジーである。さらに言うなら、その報酬たる「お金」も人類が生み出した(偉大なる)設定である。

 だのに日本人教の信者ときたら、それが実在するものと信じて疑わない。それどころか、どの神様に仕えてどれだけお金を得るかということばかりを考え、一生を終えていく。

 飲食店がある。店主が腕をふるって美味しい料理を提供している。電子マネーの決済インフラを提供する企業がある。決済が行われる度に手数料が入ってくる。

 この二つの商売、私が神様なら飲食店の主人を祝福したいと思う。しかし、資本主義の聖書に基けば、祝福されるべきは後者のほうである。お金を増殖させることで、会社(神様)を讃えたからだ。

 ここで冒頭の、部長が再就職した話に戻ろう。あの人はきっと、清く正しい日本人教の信者であると同時に、司祭でもある。人の上に立ち、説法を垂れて人様を咎めたり赦したりする。それも偉そうに、汗もかかずに。

 敬虔であるからこそ、その地位が「年金暮らしの爺さん」に落ちないよう、また神様のお側で働き続けられるようにと、努力されたのであろう。神に願ったのだ「高い地位に留まり続けたいです!」と。そうして老人がいつまで経っても席を空けない、硬直した社会が出来上がる。

 念のために書いておくが、私は資本主義も会社も労働も再雇用も否定していない。ただ、それが森羅万象の頂点かのように人々の関心を集め続け、縛り付けているというのは気持ちが悪いと思っているのだ。

 私は個人的な興味でイスラームを信仰している。だから、あらゆることに対して「それは偶像崇拝ではないか?」と疑問を持つ。

個人的には世界にどんな偶像がいくらあろうが、それがアッラーや預言者を模ったものでない限りはどうでもいいと、無害なことならむしろ楽しんでいいとすら思っている。(一方、イエス様の偶像についてはちょっと疑問がある。ちなみにイエス様は、イスラームに於いても預言者のひとりとして重要な存在である)

 しかしながら、会社とお金の扱われ方には我慢の限界を感じている。お金は偉くないし、ましてや会社は神ではない。

 日本人は日本人教をやめて、自然を敬い恐れ、仏に救いを求める伝統的な価値観をもっと大切にした方が良いのではないか、と思う異教徒の私であった。

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