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#213 お金より偉いものがない!GDPによる支配が終わらない理由。

 以前書いた記事(#207)で、世界がいまだにGDPで国力を測っているのは「なんとなく」ではなく、世界大戦が形を変えて継続中であるため、戦時の生産力を測る指標であるGDPを使うことが「妥当だから」なのではないかという想像をしてみた。

 昨今の企業活動は、年度の目標(売上額等のゴール)を定め、日々の活動をKPI(重要業績評価指標)に落とし込み「各部門がKPIを達成することが会社目標の達成につながる」ようにマネジメントを行うことが主流だ。

※本稿の趣旨とは異なるが、マネジメントそのものが目的化した場合に、ブルシット・ジョブが産み出される可能性が高いと考えている。こちらのテーマに関心がある方は、下記リンク先の記事も参照されたい。

 つまり、目標である売上額や利益率が真のボスであり、経営者ですらそれらを実現するための駒にすぎない。株式会社なら「株券の数字が人の形に変わって」さらに儲けよ、と指図しさえする。儲かれば儲かるほどいいので、基本的に上限はない。

 しかしさすがに、「やってはいけないこと」は存在するので、それを法律(立法)で規制する。法律を作るやり取りというのは、国会で行っているアレのことだ。しかし、アレの参加メンバーは、それぞれ利害を抱えている。

 支持母体の意向があったり、献金を受けていたりもする。投票を行った有権者の代表として、どれだけ機能しているのか、そもそもが疑わしい。明確に組織票をくれた集団や、お金を恵んでくれた人や組織のことはよく覚えているだろうが、その他大勢の有権者がなぜ票をくれたのか?分かりようがない。

 そのため、民主主義の精度を上げるためには国民投票や県民投票のように、個別の議題に対しての投票も行うべきであるが、国会内のみの多数決原理で全てが決まってしまう、というのが実情だ。

 以前に書いた話(#088)の繰り返しだが、とある議員や政党に投票したからといって、全ての政策に賛同したという訳ではない。とはいえ、ワンイシューでいちいち解散総選挙をするという訳にもいかないので、重要法案は国民投票で決めれば良いのだ。議席数でほぼ結果が決まっているような現在の国会よりよほど面白くなり、国民の政治参加が進むだろう。

 さて、わたし達がいわゆる「国」と呼んでいるのは、概ね政府(行政)を指す。彼らにとってのボスは何であろうか?様々な目標値の達成や外交関係のゴール等、いろいろあろうが、ラスボスはGDPだ。

 この記事には賛同しない(豊かさと平等はトレードオフの関係にある、という主張が残酷すぎる。再分配が機能していれば、物質的な豊かさに差があっても、健康や安全な暮らし、幸福感の平等といったことは叶えられると考える)が、一人あたりGDPで見ると日本はすっかり凋落している、という内容は良く分かる。だから政府は、障害者を雇用しろ、老人も働け、子育てしながら夫婦で働け、という政策をとっている。超高齢社会で生産年齢人口が少ないためだ。

 一億総活躍社会、働き方改革、DX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉は全て、国民への「もっと稼いで一人あたりGDPを上げてくれ!」という、日本政府の切なる願いなのである。働くことが悪い訳ではないのだが、個々の事情を無視して社会的に強要するかのような雰囲気作りをしているようにも感じられ、天邪鬼なわたしはついつい反発したくなる。

 例えば、独身男性の死亡年齢中央値は67.2歳(2020年実績値より。詳しくは下記リンク先記事参照)で、この年齢に達するまでに半数が亡くなっていることになる。反発したくなるのも当然だとは思わないだろうか?ちなみに、若年者を含まない50歳以上を対象にしたデータでも、68.5歳である。

 このことから、独身男性は60歳からの繰り上げで年金を受け取る方が有利かもしれない。しかし、年金の満額受給年齢は70歳になるかもしれない、との予想もある。

 いずれにせよ、独身男性の二人に一人は、年金制度の恩恵をロクに受けられないまま早死にする運命ということだ。

 そもそも、払った金額の元が取れないケースも相当増えると思われる。下記リンク先の記事によれば、公的年金の損益分岐点は国民年金で75歳、厚生年金でも71~74歳だという(データは2020年度のもの)訳で、実際は多少長生きしたところで、回収するまで生き延びられるか、という問題もまた存在する訳だ。

 この、一連の話で重要なのは、前述の死亡年齢中央値はデータに基づく事実であること。そして、政府が打ち出す数々の施策は予測である、ということだ。しかも、死亡年齢中央値における独身男性の早死に傾向は1980年代から変わらないとのことである。(前述のYahoo!ニュース参照)

 こうした統計があるにも関わらず、人間の寿命がとにかくやたらと伸びる前提で「働け!」という立場を取るのは、やはり見えざるボスの指示に従っているからである。そう、GDPだ。

 さて、ここで再びGDPの発案者、サイモン・クズネッツのエピソードを紹介したい。ジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』からの引用だ。(ちなみに、この本はポスト資本主義を考える上で大変おすすめである)

GDPは総生産額の市場価値を集計するが、その生産が有益か有害かには関知しない。GDPは100ドル分の催涙ガスと100ドル分の教育を区別しない。おそらくより重要なこととして、生産に伴う生態学的・社会的コストをGDPは考慮しないのだ。

木材を得るために森林を伐採すれば、GDPは増える。労働時間を延長し、定年を先送りにすれば、GDPは増える。公害のせいで病院の患者が増えれば、GDPは増える。

しかし、野生動物のすみかで、CO2を吸収している森林の喪失については、GDPは何も語らない。働きすぎや公害が人々の心身に与える悪影響についてもそうだ。

さらにGDPは、「悪いこと」に無関心なだけでなく、「良いこと」の大半にも無関心だ。貨幣価値に換算できない経済活動については、たとえそれが人間の生活と幸福にとって重要であっても、ほとんど計算に入れない。

もしわたしたちが、食べるものを自分で育て、家を掃除し、年老いた両親の世話をしていても、GDPにはカウントされない。カウントされるのは、そうした作業を、お金を払って企業に代行してもらう場合だけだ。

クズネッツは、GDPを経済成長の尺度にすべきではない、と警告した。成長に伴う社会的コストをGDPに組み入れ、人間の幸福に配慮する、よりバランスの取れた目標を政府は追求すべきだ、と彼は考えた。

『資本主義の次に来る世界』
東洋経済新報社 2023年5月4日発行
※筆者にて改行と強調を行った

 クズネッツはあくまで、戦時に「米国はどれだけの製造力(継戦能力)があるかを、測る方法を考えてくれ」というオーダーに回答したにすぎない。この指標は、人々の幸福とは関係がない。戦争中であれば、国民の生命財産を保護することが何より優先されるのはやむを得ないし、幸福度を考慮した戦争など、あり得ないからだ。クズネッツはその点も、しっかりと警告している。

 更には、国連も脱GDP(ビヨンドGDP)を目指すべく、経済の持続可能性や人々の幸福を盛り込んだ指標(新国富指標)を提案している。もう、GDPを追い求める経済は完全にズレているかのように思える。実際、反SDGs的な、持続不可能な開発を行わなければ、伸びないのだからもっともだ。

 しかし、やはりGDPが世界を動かしていることは明らかだ。というのも、本稿執筆にあたって、「新国富論」「新国富指標」「beyond GDP」等のキーワードでネットニュース等の記事を探したのだが、納得できる記事が無かった。一方、(従来の)GDPがどうのこうのという記事は大量にヒットする。最近のニュースでも何の注釈もなく用いられている。「※GDPは人類の幸福や地球の持続可能性を考慮していません」のように、注意書きをしてほしいものである。

 お金より尊ぶべきものは確実にある。世界平和、幸福と喜び、安心と安全、自然の豊かさと、それらが持続する地球環境。

 しかし、そうしたことを「豊かさ」だと人々が "誤解しないように" コントロールするアイテムがお金である。お金で支配する社会は何のためにあるのか?人々に真の自由を与えないためである。なぜ、与えないのか?世界大戦が、未だ終結していないためである。そのため、相変わらずわたし達はGDPに身を捧げなければならない。銃弾を撃ち合うことを中断しただけで、富の奪い合いは続いているのだ。お金の仲介で。

 実際に、防衛費を減らそう!と堂々と言える人はあまりいないだろう。わたし自身、時には「日本も武器輸出をする側になれば儲かるのかもな」等と考えることがある。しかし、そうした思考回路では当然ながら、GDPの支配からは逃れられない。

 わたしは経済素人だし、記事には妄想も多いかもしれないが、脱GDP、脱消費主義、公平な社会制度、ベーシック・インカム、民主主義の復権。そうしたことへの想いは今後も臆せず発信していきたい所存である。

 記事は以上だが、もし内容に共感いただけて、わたしにコーヒーを奢ってくださる方がいるのなら、購入(投げ銭)していただけると嬉しい。

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