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#181 わたしの 『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』 体験記

日本国憲法第27条

すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

Wikipedia 「勤労の義務」 より引用

 人間は、賃労働を行うために生まれてきた訳ではない。しかし現代人の多くは、そのことを履き違えた結果、人生の貴重な時間を無益な仕事に売却する。あなたは本来、上司を満足させるためだけに作成するPowerPointをいじくり回して過ごすよりも、家族や恋人や友人と、より多くの時間を過ごすべきなのだ。

 あるいは、何か創造的なことに挑んでみるというのもいい。とにかく人間は生まれながらにして、基本的人権の一つである、自由権を持っている。多様な生き方を選べて、然るべきなのだ。

 いや、だからこそ、稼がなければならないのではないか。それこそ、家族や恋人や友人との時間を過ごしたり、充実した余暇を過ごす自由を得るために。早速、そんな声が聞こえて来そうだ。そのどれもこれもが、お金がなければ成り立たないことなのだから、仕方がないだろうと。なるほど、正しい。

 そうして自分を納得させることができるのは、社会がそのような価値体系で回っているからだ。自身が回転する歯車の中にいて、そうではない可能性を思い描くのは難しい。実際、いくら自由だとは言え、我が国における社会のカタチそのものが、それほど柔軟ではないために、結局は公務員かサラリーマンをやるのが最も無難、ということになっている。

 しかし、そもそも現在は2024年である。コンピュータが仕事を奪ったはずの1990〜2000年代を経て、わたし達は尚も働き続けている。コンピュータの使用人として。労働時間も減っていない。

 最近は、AIが仕事を奪うと騒がれている。将来、一時的に職を失う人は出てくるかもしれないが、雇用そのものは無くならない。憲法第27条が規定する通り、わたし達には働く権利がある。それに応じた数の雇用が、存在しなければならないためだ。(そのため、「義務」は主に政府にのしかかる。雇用を生み出す施策を考えるはずだ。完全雇用を目指して…)だから将来、再就職にありつくことは出来るだろう。しかし、それはきっと「給料が安くて、やりがいのある」類の仕事であろうが…

 一方で、おそらくはAIに奪われることはなかろうと、想像できる仕事がある。社会の上層に位置する人々のものだ。きっと彼等は、AIがどれほど進歩しようが、現在の地位を失うことはないだろう。AIのお世話をするための、謎の役職が増えるということさえ、ありうることだと思える。

 それは能力とは別個の話で、単にヒエラルキーの問題だ。AIが常に最良の判断を下せる時が来たとなれば、彼等は現在の地位を維持したままで、余暇をふんだんに楽しむことができるようになるだろう。(AIがAI自身を所有できない以上、その果実をもぎ取るのはやはり、資本家だろう。もっとも、AIがそれほどの進化を遂げるのは、まだまだ先の話ではあるのだが…)

 そんな想像を巡らせるうちに、以前読んだ、ある書籍のことを思い出した。『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』だ。

一九三〇年、ジョン・メイナード・ケインズは、二〇世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週一五時間労働が達成されるだろう、と予測した。

かれが正しかったと考えるには十分な根拠がある。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能なのだから。ところが、にもかかわらず、その達成は起こらなかった。

かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきたのだ。この目標のために、実質的に無意味な仕事がつくりだされねばならなかった。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
岩波書店 2020年9月25日 第五刷
序章 ブルシット・ジョブ現象について より引用
※筆者にて改行のみ行った

 このネタで記事を書いてみたい気持ちが高まっていたのだが、それなりの分量がある本で、再読する気力は到底無かった。しかし、本書は幸いにも、Audibleの聴き放題に入っていた。とはいえ、朗読だけで頭に入る内容ではないため、倍速で聴きながらも、同時にKindle本の文字を目で追う形で再読を終えた。

 この作業は、これからお話することが、ブルシット・ジョブクソどうでもいい仕事の定義に合致するかを確認するために必要であった。(改めて、Audibleの有り難みを感じた。このサービスは、有料ユーザーとして当面使い続けることだろう)

 本稿ではあくまで、わたし自身が経験、もしくは観測したブルシット・ジョブについてのみ、わたし自身の体験談として語ることとする。これは話の性質上、職業差別だと誤解されないための線引きだ。体験談については、ときに辛辣な表現を持って語らせてもらうが、わたしはあくまで、そうした無駄なお金の流れが蔓延る世の中にうんざりしているのであって、個々の職業や、それらに従事する個人を攻撃する意図はない。

 もし、そのような前提であることをご理解頂けたうえで、わたしの個人的ブルシット体験にお付き合いいただけるのなら、引き続きお読みいただきたい。

 また、実は本稿で主張したいことに重なる記事は、過去にも書いている。ブルシット・ジョブという切り口ではないが、併せてお読みいただけると嬉しい。

ブルシット・ジョブの概要

 ブルシット・ジョブは、実質を伴わない仕事(そのほとんどが、ホワイトカラーの高給取り)である。しかし、雇われている以上は、何らかの役割を担っている。雇用主に時間を売っている身である以上、実際には仕事がなくても、なにかをしているフリをしなければならないし、あるいは無益だと分かっていながらも「ごっこ遊び」のような仕事をして、意義があるように装わなければならない。

 そうした仕事は、さながら精神攻撃である。本書には、実入りの良いブルシット・ジョブから手を引き、薄給だが目に見えて社会に役立つリアル・ジョブ実質のある仕事に転職した途端、抑うつや様々な身体的症状が回復したという、労働者からの意見も掲載されている。

 このことから、本書の問題提起は、「仕事をしているフリをするだけで高給を得る者がいるという、けしからん話がある」というものではないことがわかる。

 「社会の上層には、自らきわめて非効率な仕事をあえて行う(命ずる)者がいる。そして、それに従事した人間は、あまりの無意味さに心を壊す。資本主義では淘汰される想定の、そうした現象はいかにして起こるのか?」ということを考察し、世に投げかけているのだ。

ブルシットを生み出しているのは、資本主義それ自体ではありません。それは、複雑な組織のなかで実践されているマネジリアリズム〔経営管理主義〕・イデオロギーです。

マネジリアリズムが根を下ろすにつれ、マネジリアリズムの皿回し──戦略、パフォーマンス目標、監査、説明、評価、新たな戦略、などなど、などなど──を維持するだけが仕事の大学スタッフの幹部たちが登場します。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
岩波書店 2020年9月25日 第五刷
第二章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか? より引用
※筆者にて改行のみ行った

 そしてこれは、資本主義そのものが悪い、という話でもない。物事が理想的な形で進むのならば、自由競争の中であらゆる仕事は効率化され、余った資本は工場を増やしたり、新しい事業をはじめることに再投資され、更なる雇用を生み出すはずなのだ。

 この現象は主に、そうした再投資が、本書の言うところの「マネジアリズム・イデオロギー」に吸い取られていくことに注目する必要がある。(本書の中には、効率化した分の労働時間を削減して、地球温暖化を止めればいいのに、という主張もある。もっともな話だ)

ブルシット・ジョブの定義

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
岩波書店 2020年9月25日 第五刷
第一章 ブルシット・ジョブとはなにか? より引用

 どのような職種がブルシット・ジョブにあたるのかを、客観的な尺度でもって判定することは難しい。(判定には、引用部分の「被雇用者本人でさえ、」という部分が重要だ)そのため、同じ職種や肩書きであるからといってブルシットだとは限らない、という点には注意されたい。ただし、それはもはや看過できないレベルで社会を蝕んでいる、ということを示すため、本書は数々の事例を挙げ、それらについて考察するために、長大な一冊となっているのだ。

わたしのブルシット・ジョブ体験

 そろそろ、本題に入ろう。わたし自身は労働人生の大半を非正規雇用で過ごしてきたし、社会の末端で生きてきた自負がある。そのため、ブルシット・ジョブよりは、リアル・ジョブに従事した期間の方がはるかに長い。

 そして、わたし自身がこのnoteで再三書いている通り、現在はうつ病で休職中の身だ。しかしだからこそ、過去の仕事にまで遡り、「ところで、あの仕事は何のためにあったのだろう?」と考える余裕がある、というわけだ。当時は(若すぎて)気づけなかったことも、改めて振り返れば「完璧に無意味で、不必要な仕事」をしていた経験が、わたしにもある。

・プリンターの監視

 90年代後半に、わたしはとあるコンピュータの専門学校に通っていた。そこで小遣い稼ぎにやっていたアルバイトが、「プリンターの監視」である。授業が終わって閉館するまでの間に、いくつかの部屋は自習をしたい学生のために開放される。

 わたしは、各部屋のプリンターの稼働状況を示すコンソール画面が表示されたPCに座り、紙詰まりのエラーが起きていないか、用紙やトナーの補充が必要なプリンターはないか、ということを監視する。

 しかし、自習をする意欲のある学生などそう多くはなく、そうした事態はほとんどおきない、ということがすぐに分かった。更には、意欲のある学生からは、プリンターの再起動や用紙の補充ですら、(彼等より明らかに低スキルの)わたしに頼まねばならないため、疎まれていることすら理解した。

 以降、わたしはその仕事を、主に「週刊ファミ通」や「週刊ゴング」を熟読するために費やすことにした。そもそも、コンピュータを学びにきている学生ならば、用紙がきれたら適切な場所に紙を補充できるし、トナーが切れたら交換できるし、謎のエラーが起きているなら、とりあえず再起動することなど、誰にだってできることなのだ。分からない学生がいるかもしれない、ということが不安なら、そのやり方を掲示しておけばいいだけだ。

 この仕事の意義について逡巡した結果、これは学校側の、「我々は、学生に学びを与えるとともに、社会経験を積む機会を提供している」という実績づくりのためである。そうだとしか思えなかった。それは誰にアピールするものなのか、当の学生であったわたしには、知る由もないのだが。

・パチンコ屋の店員

 言わずもがな、この業界自体が脱法的な法解釈で成り立っており、国民への悪影響を鑑みると、明日突然に業界まるごと無くなってしまったとしても、困るのは依存症の患者と、それを診る専門医くらいのものである。

 しかし、わたしが新卒で入社したのは、パチンコ屋を運営する企業であった。何故かって?募集があって、受かったからだ。さして優秀でもなかった学生の進路としては、就職できたというだけでも十分だった。(専門学校が広告に謳う、就職率何パーセント、という数字はトリックである。ほとんどの学生が、就職そのものを"希望しなかった"と見做され、そうした者を除外した数字を喧伝している)

 わたし自身は、就職時にやっと20歳になったところで、当然ながらパチンコもスロットも、その遊び方すら知らなかった。だから、毎日同じ顔ぶれの連中(地元のヤクザと、自称パチプロ)が開店直後に雪崩れ込み、負けた腹いせにコーヒーサービスの女性の尻を触って帰る様が不思議でならなかった。

 ギャンブルを行うものなら誰でも知っている、胴元が必ず儲かる仕組みであること、それでも「たまにある大勝ち」の快感が忘れられずに通ってしまう、ギャンブル中毒であること。そして、銀玉を見つめるに要した時間は将来、何の役にもたたないということを。

 いつも、閉店後に店長と副店長だけで作業を行う時間があり、その作業は社員を含め、誰も見てはいけないとされていた。しかし、何をやっているのかは、アルバイトのスタッフを含めた全員が理解していた。いつもヤクザ連中が座る(事実上の)指定席のクギを、微妙に開いたり、あるいはガバッと開いたりしていたのだ。

 店の看板には、店名の下に「Entertainment」と掲げられていた。早々に退職を決意した若いわたしは、人事部との飲み会(新卒が続々と辞めていくため、急遽催された…)で、パチンコはその語を掲げるに値しないと吐き捨てた。

 神聖なる建前を非難された人事部長が、顔を真っ赤にして怒りながらも、しつこく諭してきたことを覚えている。あれは間違いなく、幹部クラスですら、業界まるごとブルシット・ジョブだと思っていることの証左であろうと思っている。

・秋葉原でのレジ打ち

 上京したわたしが真っ先に向かった街は秋葉原だった。当時はまだ「萌え」よりも「パソコンオタクの街」という色合いに満ちていた。ヨドバシカメラが進出していない、駅前にバスケットコートがあった時代の話だ。

 その中で、最も憧れていた店がアルバイトを募集していると知ったわたしは、即座に応募し、あっという間に採用された。主な仕事はレジ打ち。品出しもあるが、そんなに広い店ではない。ほとんどの時間帯で、客より店員の方が多いような店だったから、いつも退屈を持て余していた。

 バイト仲間とおしゃべりするか、気が向いたらモップで棚や商品に積もった埃を払うか。とにかく立っていなければいけなかったこと以外は、何ら憧れに値する仕事内容では無かった。アルバイトがそうしている一方で、社員は(数少ない)売れた商品を補充するための発注を行い、残り時間は黙々と、マインスイーパやソリティアの修練に費やしていた。

 接客はほとんどなかった。というより、発生した直後に会話が終了するような接客しか、行っていなかった。「これは〇〇で動作しますか?」「保証できません」と回答するだけなのである。(昔の秋葉原は、こんな店員ばかりであった。感情労働?そんなものはない)

 小売業の楽しみ方は「いかに売るか」の創意工夫にあると思うのだが、その楽しみは店長が一人で握っていた。何を取り扱うか、それをいくらで売るか、どのような場所に置くか。小さな村のような店舗の中で、そうした権限の全てを店長が握っているのだから、常時2、3人いる社員は暇で仕方がないのである。

 時代の流れで、その店は数回の移転や縮小を経て、ついには無くなったのだが、わたしは性格が大人しく、かつアルバイトで唯一「パソコンオタクのおっさん達」と対等に話せる同好の士であったため、店長のお気に入りでもあった。社員もアルバイトも続々とクビになる中、その店が完全に閉店するまで、レジ係を全うした。

 このエピソードについて、当時のわたしは、それがブルシット・ジョブだとは思っていなかった。しかし、いま思い返せば、こう思う。あれほど暇な店が、(経営が傾いてすらいるのに)執拗にレジ係のアルバイトを必要とし続けた理由は、単にわたしが店長のお気に入りだったから、ということだけが理由ではない。「社員を、社員たらしめる存在が必要だった」のである。

・テレフォンアポインター

 この世から電話や訪問によるセールスの類がある日突然消えてしまっても、「じゃあ、わたしはどこでマンションを買えばいいの!」と路頭に迷う人はいないだろう。

 わたしは短期間だが、テレフォンアポインター(テレアポ/アウトバウンド)の仕事をしたことがある。これは、人様の時間を奪ったうえに、最悪の場合はお金を損じることさえありうる、押し売りのような仕事であった。

 コンピュータのデータベースには大量の顧客情報が入っている。とあるインターネットプロバイダから提供された、オプション契約をつけていない顧客のリストだ。そこに電話をかけ、オプション契約を付けるメリット説明し、契約をとる。ほとんどの場合は、電話に出ないか、出たとしても「いりません」の一言で終わってしまう。

 その職場では、一日1件の契約をとることが目標であった。たったの1件。しかし、現実はそれすら困難なのである。そもそも、契約時に「オプション契約は不要」と判断した人達なのだから。契約獲得数のトップは、とある若い女性のアルバイトだった。皆の成果を見渡すと、女性に有利な傾向があることが分かった。その理由はだいたい想像できた。その手の名義人は、たいてい中年以上の男性であるからだ。

 あるとき、わたしは相手を慮って遠慮することを捨ててみた。気が弱くて率直に断れない相手だと判断すると、遠回しな断り文句のすべてに優しく反論し、論破することで契約を勝ち取った。そのやりとりを何かの手本のように感じたらしく、周囲のオペレーターだけではなく、お偉いさんにまでモニタリングをされていた。

 電話を切った後、お偉いさん(どのような立場かは知らないが、さしずめこのオフィス部門の長であろう)がわたしに駆け寄り、「天才!」と言って去っていった。その翌週、わたしは仕事をやめた。最初からつまらない仕事だと思っていたし、そこで賞賛をうけるには、押し売りまがいのことをしなければならないのだから。

・詳しく書くのは控えるが…

 実は、現在の仕事の話ができるのならば、もっとくだらない事例を挙げることもできる。しかし、守秘義務を遵守するために、控えておこう。

 まあそれでも、どのようなことかは、だいたい想像できるだろう。誰が来ても、かなり高い確率で無能になる空虚な役職の存在とか、経営者を喜ばせるためだけに存在するとしか思えないプレゼンテーションとか、その準備に何日もかけることとか、書類ひとつ通すのに(本当はその内容がよく分かっていない)上司の承認をいくつも取らないといけないとか、その手の話だ。顧客や従業員に還元するべき金や人手を、社内で浪費しているのだ。

 あるとき、経営者が外部コンサルタントと契約し、「仕事は全て、とある手法で運用するように」と、通達が来たときは最悪だった。不幸なことに、全ての従業員が「やったフリ」をする羽目になり、導入した当人が会社を去るまで、それが続いた。もしそこに、「とある手法管理者」を設置していたならば、その役割は完全なブルシット・ジョブになっていたことだろう。

あれ?ひょっとして…

 ここまで書いて、「もしかして…」と思い始めた。わたしはひねくれ者であるため、内心「しょうもない」と思っている仕事が沢山ある。そうしたネタは、機会を伺い(適切なタイミングで出すことが大切だ)改善を行ってきた。ほとんどの場合、面倒くさくてやりたくない(そして、やることに意味などない)ことを無くしたり、他の楽な方法に代替することを提案してきた。

 直近の仕事でも、それをやり続けて評価された。しかし、いくつかの抜本的な効率化を行なった結果、暇になってしまった。やらなくてもいいことをやらなくなったら、やることがなくなってしまった。いや、全く無いというわけではないのだが、少なくとも8時間勤務のうち、給料を貰うにふさわしい行いをするのは、せいぜい2、3時間程度のものだった。

 その他の時間は、さして重要ではない何かをやる(共有フォルダにあるファイルの名前を揃えるとか…)か、スマホをいじっているかのどちらかだった。リモートワークということもあり、各々が本当はクソほど暇であることを「知らないフリ」して過ごしていた。そこに向き合えば、結末は人員削減(異動)しか考えられないからだ。

 皆、上司に現在の担当業務と進捗を報告することに苦慮していた。もちろん、やることがないからだ。だから本来は1日で終わるような仕事を、3日がかりで取り組んだように見せたり、様々な工夫を凝らして報告していた。実務よりもむしろ、その成果の報告をいかにするかということに、多くの時間が費やされた。これは、ひょっとして…ブルシット・ジョブだったのではないか?

 そもそもわたしは、現在の部署への転勤がそれほど嫌ではなかったし、それを契機に心身症を発症したが、それは環境の変化に弱いからだと思っていた。毎日がリモートワークであり、こんなに楽な仕事はない。つまらないから異動したい、などと思ったこともなければ、これを書いている今現在でも思わない。

 しかし、だ。本書を再読して少し自己理解が進んだ気がする。おそらくは弊社で最も暇な部類に入る、ウルトラハッピーな仕事をしているつもりが、わたしが回復するどころか、どんどん荒んでいった理由がここにあるような気がする。表面上の立場と、実際にやっていることの食い違いが苦痛だったのかもしれない。

 本当はクソみたいに暇であっても、その実態を知るものは少ない。そのことが自己を無意味化していたのではないか。めちゃくちゃ手を抜いて仕事をしている(あるいは、仕事すらしていない)のに、さも毎日目標に向けて邁進しているかのような報告書を作るというのは、不条理で屈辱的な行いを自ら行っていた、ということにはならないだろうか。

 いっそのこと、PCをオフにして、地球温暖化を止めることに貢献した方が、良かったのかもしれない。先日『PREFECT DAYS』という地味な映画を観て、思いもよらぬ衝撃を受けた理由が、少し分かった気がする。

わたしたちの労働が強化されているのは、わたしたちが奇妙なサドマゾヒズム的弁証法を発明してしまったからなのだ。

その弁証法のおかげで、わたしたちはひそやかな消費の快楽を正当化するのはただ職場での苦痛のみであると感じてしまうのである。

それと同時に、ますます仕事が睡眠時間以外の生活を侵食するようになっているという事態は、わたしたちが──キャシィ・ウィークスがとても簡潔に指摘したように──「生活(a life)」という贅沢を持ち合わせていないこと、逆にいえば、時間を割く余裕のあるものといえばひそやかな消費の快楽のみであることと裏腹である。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
岩波書店 2020年9月25日 第五刷
第七章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?より引用
※筆者にて改行のみ行った

 そして、わたしの抱える現在の問題といえば、心身症を患ってからうつ病に移行するまでの間に、取り返しのつかない借金を抱えるほどの、買い物依存状態に陥ったことである。

 自らの行いを正当化するつもりはないが、しかしやはり、自分以外の「何か(病気でもない何か)」が関わっていたような気がしてならない。著者はこれを「代償的消費主義」と呼んでいる。これはとても、しっくりくる言葉だと感じた。

 本書を題材に語りたいことはまだまだあるが、あくまで体験談を語るという方針からはブレてしまう。そのため、このあたりで終わりにしておこう。

 ああ、ところで、精神障害者福祉手帳と自立支援医療制度を申請した結果も、弁護士を雇うために解約した財形年金の振り込みも、待てど暮らせど一向に来ない。このような手続きには、どこかに必ず潜んでいるのだろうな、ブルシット・ジョブの存在が。

 記事は以上だが、もし内容に共感いただけて、わたしにコーヒーを奢ってくださる方がいるのなら、購入(投げ銭)していただけると嬉しい。

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