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#119 わたしを歴史に残す作業

 たいした人生じゃない。それでも、生きている以上は必ず他者と関係するし、他者の中に何かしらの影響を与えることは避けられない。

 生きる意義の究極は、それだと思う。良かれ悪しかれ、誰かの思考にお邪魔することになる。死ねばいいのに、と思える言葉を吐いた嫌な奴がいたとして、しかしそれが現在の自分を形作る部品のひとつだとしたら、やはりそれはなくてはならないものなのだ。

 終戦直後の日本を容赦なく蹂躙する映画『ゴジラ ー1.0』は、特攻から逃げて終戦を迎えた人物を主人公に据え、死をもって国家を護るべき者が、生き延びてしまった葛藤を重苦しく描いた。作品のキャッチコピーは「生きて、抗え」である。

 国家にはナラティブ(物語)が必要だ。私達はいかにして生きてきたのか。それが語られてこそ、いま何をすべきかを問うことに繋がる。学問としての歴史とは別に、国民に受け継がれるナラティブ、それが歴史認識だと思う。

 『ゴジラ ー1.0』は、エンタメ映画として優れているだけではなく、かの戦争を現代の価値観とリンクさせる、ナラティブを紡ぐ作品でもあった。

 話を戻そう。個人もそれぞれのナラティブに影響を受けている。幼少期の経験やトラウマ、成功体験など。ひとつひとつの出来事に「なぜ?どうして?」と問いかけ続け、やがて自分なりに筋のあるナラティブが出来上がる。そして、自らそれに支配される。

 バタフライ・エフェクトのように、あなたのごく些細な言動が見知らぬ誰かに影響を与えているとしたら、あなたの生きる意義というのは、どうなるだろうか?それはカオスなので、もはや生きている(生きた)ことそのものが意義であるとしか言えないだろう。

 いささか風呂敷を広げすぎたが、わたしがnoteを書く理由は以上のことからだ。とりわけ、こころの暗部のような、人には言えないようなこともnoteには書く理由である。

 誰かのナラティブに影響すること。わたしという存在を、歴史に残す作業なのである。

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