見出し画像

スペースノットブランク『本人たち』:ポストコロナ演劇のサウンドスケープ

・概要

 『本人たち』は、スペースノットブランクが“コロナ禍の時代の上演”を掲げて始めたプロジェクトで、2020年9月現在は「5月31日」「6月7日」「6月14日」「6月21日」「6月28日」という五つのテキストと、それから最初のテキストに対応した映像とが公式サイトで公開されています。長期スパンでの展開が予定されており、その姿勢はコロナ期間の間に合わせではないオンライン上での舞台表現を築き上げようという積極的な意思を感じさせるものです。

https://spacenotblank.com/performance/themselves

 コロナを経て、「オンライン演劇」と呼ばれる数々の映像が撮られました。しかし、劇場に人が集まるわけでもなしにディスプレイ越しに見られる映像が「演劇」であるとは、どういうことなのでしょう? これまで多くの演劇人から、しきりに「オンライン演劇」における身体性の不在や媒体固有性(映像作家でもない自分たちが何故映像で勝負するのか)への疑念が唱えられました。「オンライン演劇」は、劇場公演の苦しい代替手段にすぎないというわけです。
 ですが、映像を観るのと舞台を観るのとでは、鑑賞者の知覚のモードが変わります。舞台における知覚のコードと映像のそれとを融和ないし接近させる試みとして「オンライン演劇」を捉えたとき、その試みは消極的な撤退であるどころか、前代未聞のアヴァンギャルドとなる可能性を秘めています。
 スペースノットブランクは自らの作品を「演劇」と限定的に呼び表すことはしませんが、それでも“コロナ禍の時代の上演”として提出された『本人たち』の映像を「オンライン演劇」の枠組みの中で論じることには大きな意義があるはずですから、以下では多少の語弊をも恐れず、この語を本作に適用することとします。なお、おそらくはそれ自体「上演」の一環として提示されているであろう6月7日以降のテキストについては、ここでは考察の対象とはしません。

 まずは映像をご覧になってください。出演者は荒木知佳さん、古賀友樹さん、西井裕美さんのお三方です。

https://www.youtube.com/watch?v=ymGRGAjS_7g&feature=emb_logo

 黒。カーテンを開ける荒木知佳さんの手。それから再度の黒とともに彼女のモノローグ、「地形を知るのも大事だな。って思うの」。そして、続いてゆくモノローグとともに、カメラは開く冷蔵庫を内側から捉えたかと思えば、ただちに場所を大きく移して、自宅で朝食をとっているのであろう荒木知佳さんの後姿を定点から捉えます。そして、やがてカットは彼女の生活風景から切り替わらぬままに、モノローグは古賀友樹さんのものへとシフトしてゆきます。

・オンライン演劇?

 この冒頭の時点で、通常の「オンライン演劇」と比較するとずいぶん異様です。なぜならそれは、「上演」されているというにはあまりに映像的に構成されすぎているからです。「オンライン演劇」では一貫してカメラを固定することで、画面枠を舞台のそれに対応させ、その中で展開される俳優の言動に注意を集中させるのが一般的です。例外として、シアターコクーン『プレイタイム』やウンゲツィーファ『一角の角』などといった作品ではカメラは固定されていませんが、実際の劇場を舞台に一発どりを行うことで、舞台の空間的な限定性の強調をやはり強調しています。けれども『本人たち』の場合はカットがしきりに変わる、いわゆる映像然とした映像なのです。そこではそれぞれのカットの時間と空間は切断され、舞台芸術にしばしば求められる「いま・ここ性」はすでに全く消去されてしまっています。
 また、俳優が観客に背を向け、演技から離れて見える自分の行為に没頭しているという、映像の覗き見的な性格もまた、『本人たち』の大いに異質な点です。観客と舞台とを隔てる「第四の壁」は、普段のスペースノットブランクの舞台ではむしろ破られる傾向にあります。それは観客とともに舞台を生成する相互的な場を立ち上げようという意識から行われる操作です。対して、「第四の壁」の時代に回帰したかのような『本人たち』の窃視的な表現は、観客であるわたしたちと俳優との断絶を示しているかのようです(わたしはすでにこの「オンライン演劇」特有の断絶を「第五の壁」という言葉で論じております)。そして、この断絶の印象は、先述した時空間の映像的な切断によっていっそう強調されています。
 しかしそれは、いくつもの「距離」を強制されたこの表現媒体および社会情勢に対して、ある意味で最も誠実な選択であったともいえるでしょう。
 それでは、『本人たち』の映像は、どのような意味で“コロナ禍の時代の上演”であるのでしょうか?

・サウンドスケープ

 モノローグに注目してみると、それがいわゆる独白、つまり個人の心情吐露のようなものに限られてはいないことが伺えます。テキストに明らかなように、語りの内容は明らかに分裂しており、続けて読むと意味が通らない、混乱を引き起こす文章です。
 ところで、スペースノットブランクが発表しているポストコロナ演劇は、実は『本人たち』だけではありません。KAATで上演された『氷と冬』という舞台が、音声のみの状態でポッドキャストを通じて配信されているのです。その劇評でわたしは、スペースノットブランクのテキストの映像的な性格を論じています。彼らのテキストには通常の戯曲とは異なり、カット割り(モンタージュ)やスローモーションといった映像の論理が混入されているのです。視覚情報を捨象され、俳優の声だけから構成されるようになったオンライン版『氷と冬』は、耳で観る映像、といった風情でした。
 ただし、この聴覚的な「映像」には、目で見る映像と決定的に異なる点があります。視覚映像はイメージが受動的なスペクタクルとして提供されますが、この「聴覚映像」はあくまでイメージを観客が自らの想像力によって立ち上げる必要があるのです。「地形を知るのも大事だな。って思うの」。あなたにはどのような「地形」が浮かびましたか? さらに映像と異なり「カット」の変わり目が明瞭で無い分、この言葉で紡がれる映像はより一層複雑なモンタージュの理論によって、その意味を想像者ごとに自在に変化させることになります。
 ここで求められているのは作品の立ち上げに対する観客の能動的な参与です。そして、目の前に見えているものを超えていく、このような聴覚情報と想像力との邂逅は、舞台芸術に特有の事態であると言えます。こうして、『本人たち』や『氷と冬』は通常の映像の論理を離れた、舞台芸術的な知覚を鑑賞者に促しているわけです。
 『氷と冬』にせよ『本人たち』にせよ、視覚情報はかぎりなく抑制され、最も強固な形で「第五の壁」が引かれ、聴覚情報に重きが置かれていました。しかし『本人たち』では改めて視覚情報が付与されるとともに、音声がサラウンド化して立体的になっています。これはどういうことなのでしょうか。
 スペースノットブランクのテキストは、主に俳優の発話によって制作されます。ただし、完成されたテキストでは、どの言葉を誰が発したかは必ずしもわからないのが常です。『本人たち』の言葉もまた、複数の言葉がコラージュされ、匿名化されたものです。こうして主体の溶解したテキストの海から、それでも再度「本人たち」の相貌が屹立してゆくのが、スペースノットブランクの作品に通底する顕著な特徴なのです。
 『本人たち』は、こうした多声性を通じた個のリアリティの発散と凝縮の方法論を、ポストコロナ演劇としてアップデートする試みなのだと言えます。
 『本人たち』では、映像と音声とが描く状況は完全に切断されているように見えます。それは視覚情報との齟齬によって豊かな想像を促す聴覚情報の海、すなわちサウンドスケープ――「行動の位相と語りの位相が分離される響きの空間」(ハンス=ティース・レーマン)です。こうした音風景の中では、「行動」と「語り」の分離に従って、描かれる主体もまた空中分解してゆきます。語りが立体音響であるのは、言葉がもたらすイメージの質感に奥行きを与えると同時に、その声の所在をあいまいにするはたらきをも有しています。しかも、映像中の行為者と発話者とは、映像が進行するにつれ次々にずれてゆきます。そしてたとえば先述した冒頭の「ずれ」においては、古賀さんのモノローグが古賀さんについての説明であるか、荒木さんについてのものであるか、あるいはまったく関係のない誰かについてのものであるのか、そうした問いに答えを与えることはできないのです。
 こうした多重化の作用は前半部で述べた視覚映像それ自体の断片性、すなわち「オンライン演劇」には通常みられないカット割り行為=時空間上の切断によって反復されます。
 このように、語りと映像との多層的な「ずれ」によって、新たな多声性を獲得した『本人たち』ですが、しかし言うまでもなく、そこで覗き見られるのは、演技の印象の希薄な、過剰に「本人性」の強い生活現実なのでした。
 さて、通常の映像表現と見まごうような形式で「舞台」を実践した『本人たち』は、以上で述べたように、普段のスペースノットブランクと比べてもひときわ過剰にストイックな実験精神に基づいています。懸念されるのは、この徹底が、「第五の壁」の断絶と相まって、鑑賞者のイメージの誘発を阻害する厳しさの方に働くことです。『本人たち』の場合、娯楽性はより強調されるべきだと思われるのです。発話が同時に行われないなどの理由から立体音響の面白みも現時点ではいくらか制約されています。たとえば声の遠近の一層の強調や音楽の使用など、聴覚情報の操作についてだけでもさまざまな可能性が控えています。今回の映像は長期的なプログラムの一通過点ですから、今後の展開が期待されます。
 まとめましょう。『本人たち』は、かつてないほど厚い「第五の壁」を受け入れつつ、過剰な多声性=非個体性と過剰な本人性=個体性によって、一層強く鑑賞者の想像力を喚起し、そうしてこの壁がもたらす距離を超えるための舞台でした。それはポストコロナ演劇のうちで最も先鋭な表現の一つと言っても過言ではないでしょう。そしてこの距離を超えた先にあるのは、あの時あの閉じた場所で確かに実在を抱えていた「本人たちthemselves」の相貌なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?