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動き続けるための「舞台」 スペースノットブランク『氷と冬』評

「冷戦」

 冬、と聞いてまず思い浮かぶのは一面の雪景色です。そのしんとした静けさの中で景色は一つの白に解体されていきます。雪は、しんしんと音を吸収して、言葉をのみこんでゆくのです。
 けれども『氷と冬』は、動きが過度に抑制されていることもあってか、むしろ俳優の饒舌な語りが際立つ作りでした。「氷」という言葉のもつ透明な印象にも支えられて、景色の輪郭はむしろ凍てつくような空気の中でクリアにソリッドに粒立っていました。
 ところで今、私は感染症を恐れ家からほとんど外へ出ることなく日々を暮らしています。ですから、季節の移ろいをこの身をもって実感することはできていません。過ぎゆく春を横目に、終わらない冬を過ごしています。

 スペースノットブランク『氷と冬』は2020年3月22日に「かながわ短編演劇アワード2020」というコンペティションで上演され、7作品のトップバターを飾りました。
 私は本作に保存記録のクレジットで関わりましたが、序盤と本番前後に稽古へ出入りさせて頂いただけで、作品はあくまで半ば部外者のような自由な姿勢で鑑賞できました。ですからこの評も客観的な記録というよりは、作品への主観的な応答として執筆します。
 作品は5/6までYoutubeで無料公開されていますから、ぜひそちらもご確認ください。

https://www.youtube.com/watch?v=xQh2yJU-MY8

 「演劇の既成概念を打ち破るような演劇を求めて」という、コンペティションの主宰側が設定した趣旨に呼応するかのような、新しいシステムの舞台芸術作品でした。
 舞台はほとんど素舞台に近く、マイク不在のマイクスタンドが、それぞれ遠く離れてひし形を描くように四つ置かれているだけです。四人の俳優の方々は一つずつスタンドを握りながら、上演時間の間そこを離れません。コンペティションに出展される演劇であるということを考えても、この動きの少なさは特異ですし、加えてスペースノットブランクが身体表現を得意とするコレクティブであることを考え合わせるなら、その氷結の異様さは一層際立ちます。
 それに、そこで発される言葉も、文脈や人格や時空間があまりに分裂していて、素直に話を聞いていると何が何だかわからない、シュルレアリスムのような不可解なものでした。コンペティションでも、岡田利規さんなどは発話の技術を高く評価されていた一方で、その内容はくみ取れず評価できないという旨のことを仰られていました。
 ところで、コンペティションにスペースノットブランクが寄せたステートメントは次のようなものでした。

現代社会に於ける(主に人対人による)精神的な冷戦状態を舞台芸術として解釈した作品を制作する。それは「社会」や「国家」という広義なまとまりの中だけではなく、個人間で起こっているものとしての冷戦(あるいはただ冷たいだけの)状態について、である。物語や関係は個々の言語を用いて想像されるものと仮定して、作者たちは「状態」を制作し、関わり合いによって起きる「現象」を描く。登場する生物たちは固有の抑止力を持っていて、それが何なのか互いに知る術がないところからはじまり、場合によっては(日常と同じく)終わりまでなにも起きない。仕組みを新しく作り出すことも見据えてこの「冷たい舞台」を制作し実演する。

 「精神的な冷戦状態」とは、素直に解釈すれば、個の尊重が同時に分断の進行をも意味するこの新自由主義な社会状況の端的な表現でしょう。ここでは『氷と冬』を政治劇ととらえ、2020年4月末現在の政治状況への言及も積極的に行いながら論を展開したいと思います。
 他人のことはわかりえないものだ、という主張は今やあちこちに過剰に見受けられます。競争と自己責任を強いる社会の在り方に対応して、他人の私的な領域に踏み込まず、穏当なくらしを継続させるポリティクスが敷かれています。
 個人の自由を尊重することは確かに大切な事ですが、それはミクロには個人間の対立や面倒の回避にとどまるものでも、マクロには改革や革命への機縁を消去し、階級や搾取構造といった権力体制を温存するような心性と捉えることもできるのです。権力構造の倒壊へと弁証法的に発展すべき闘争はもはやかき消され、あるのは顔の見えない存在に向けられた透明な暴力だけです。そしてそこでは、尊重されている筈の個人の生が、穏やかで閉じた「ていねいな暮らし」のうちに透明化されてしまっています。
 現に、昨今のコロナに対する感染症対策は十分な補償の行われないままに、ステイ・ホームや活動自粛という個人の問題、市民の自己責任のポリティクスへと変換され、できることと言えばただ家の中に閉じて清潔な暮らしを守ることだけです。昨今のSNS上の議論では、よりよい感染症対策やこの新しい生活へのシフトを可能にする経済政策を打ち立てられずにきた行政への批判はそこそこに、ステイ・ホームの禁を破って領分をはみ出てしまう個人に対して一層熾烈な怒りを向けている方をしばしば目にします。
 私としては、わかりあえやしないということだけをわかりあう、のではなくて、わかりあえないことから出発してなにをわかりあっていくのかを探ることが、個人が「個」として屹立し主体としてありながらともに結ばれてゆく道を拓くことが、現在の政治、あるいは演劇のひとつの使命であると考えます。
 話を戻せば、各個人が距離を取りながら、互いに了解不可能な意思疎通を取り続け、目立った出来事も起きない本作のあり方は、まさにこうした社会状況の素直な写しと言えるでしょう。
 とはいえ、『氷と冬』のテキストを「わかりえないもの」としてのみ捉えると、作品の実際を冒涜的なまでに低い解像度でとらえてしまうことになります。本作は不条理を具現する滑稽劇の範疇に収まるものではありませんでした。以下ではその大まかな素描を試みたいと思います。

「抑止力」

 動きが少ない、といっても俳優の方々は完全に凝結していたわけではありません。ただマイクスタンドへの拘束から逃れられないだけで、身体の状態は寧ろ柔軟でリラックスしたものに映りました。
 ところで、彼らの動きの少なさはテキストによって十全に説明されることはありません。ステートメントに立ち返ると、

登場する生物たちは固有の抑止力を持っていて、それが何なのか互いに知る術がない

わけで、おそらくそれはお互いの「抑止力」の帰結なのでしょうけれども、「抑止力」の正体は最後まであいまいなものにとどまるのです。
 ところで、私は劇場に拘束されたがっていたのだということにこの頃気が付きました。客席では観客は立ち上がることも声を出すことも許されません。同時に、客席と見えない壁を隔てながら、俳優もあらかじめ決められた言動に拘束されます。劇場こそは、場を共有する生物たちの固有の抑止力が先鋭に働く場所であるわけです。すると、「登場する生物たち」に観客を含めない理由はもはや存在しません。
 ひし形状に配置された俳優の方々の内、言葉を発するのは客席から見て手前の古賀さんと奥の深澤さんが主で、右手の櫻井さんと左手の瀧腰さんはほとんど口を開きませんでした。審査の場で徳永京子さんも指摘していらっしゃいましたが、この男性二人は残りの二人の語りに耳を傾け続ける存在として場に座を占めていたわけで、その姿勢は観客のものと大きく変わることはなかったかもしれません。

暗いところは平気ですか、大丈夫 ですか 
大丈夫ですか、なんで、黙ってるんですかね。

という、結部での古賀さんと深澤さんの語りは、まっすぐ客席にも届くものです。
 時に押しつけがましく、時に空振りして見えるほど強い、古賀さんのユーモラスな演説調の語りは、俳優たちにも観客にも時に受け止められ、時に同調され、時に突き離されながら放たれ続けていました。
 マイク不在のマイクスタンドは、もはやそこでの語りが誰かにストレートに声を届かせるためのものではなくなっていることを意味しているのかもしれません。声を拡散する機器の支えとしての使用規則をキャンセルされたマイクスタンド。マイクがないのですから、俳優の方々もスタンドに手をかける理由はとうにないのです。けれどスタンドを支えに立って発話を続けている。仮の住まいのように。支えさせられているのかもわからない状態でただ手をかけているのです。
 そのように形骸化した拘束力の表象のひとつが、劇場空間であり、あるいはマイクスタンドだったわけです(とはいえ本番直前、会場近くの山下公園で、樹木をマイクスタンドの代わりにしたリハーサルが実施され、その様子の一部はインスタグラムで配信されていましたから、『氷と冬』は必ずしも拘束器具としての劇場を前提してはいませんでした)。

吹っ飛ぶ主体

主体、言葉、主体、父や母やおじいちゃんでおじいちゃんのまたおじいちゃん、儀式とかお祭りとか自然の中で佇んでる。天皇が部屋の中に閉じこもって 煙を充満させて待機する。過去の天皇の存在を身体の中に宿す。違う人を 中 に入れる。昭和天皇明治天皇大正天皇。存在も、実際に、人も、きっといる。吸ったら 主体吹っ飛ぶな。

 ここでは部屋に充満させた煙を吸って、過去の天皇を体に入れて、主体を吹っ飛ばす天皇の姿が描かれています。天皇は国家の象徴として生きる宿命を背負い、私性を高度に抑圧された存在です。少々乱暴に議論を進めますが、この天皇のありようは舞台上の俳優にも通ずるところがあります。演技をする上では、俳優は別人格を演ずることが要請され、私生活をそこに薫らせることは一般に忌避されるからです。
 『氷と冬』では加えて、言動が支離滅裂で、同一人物が同一の時間軸で語りを進行させているとはとても思えないので、主体はぶっ飛んでいるどころの騒ぎではありません。
 ですが、スペースノットブランクというコレクティブは、上演台本を稽古場での俳優の方々の発言を採集したもののコラージュによって作り上げているので、実はそこで発される言葉は俳優の私性を高度に反映したものでもあるのです。
 劇場空間のすべての人間を「登場する生物たち」にカウントしうる『氷と冬』の俳優たちは、息苦しい「見る/見られる」の中に、単に縛り付けられていたのではありません。これは普段のスペースノットブランクのテキストにも通ずる特徴ですが、時に彼らの語りはきわめて映像的なものとして立ち上がります。先の引用の直前の箇所を例にとって説明しましょう。

発端は一匹の犬でした。一匹の犬が 一匹の犬が 一匹の犬が 一匹の犬が 一匹の犬が 一匹の犬が 一匹の犬が 道路中央を バーッと駆けて 犬に驚いた車がブレーキを踏み ブレーキが後ろの車にどんどん伝わって 一気に G G G G G 重力のG J グラビティ 重力 こんなとこで止まっていてもしょうがない 地盤が一気に落ちました 生態系が終わりました。終わりです。

 この、七回繰り返される「一匹の犬が」というフレーズからは、たとえば静止した一匹の犬を七回PANして追いかけるカメラの映像が頭に浮かびます。それは出崎統監督のアニメの、三回PAN演出を思わせるものです。スローモーだった古賀さんの語りは「道路中央を」から急速に加速をみせ、「G」からまた急な減速を示します。静止していた犬がついにその禁を破り駆け出し、それを追うカメラ。次にカメラは急ブレーキの車を正面から捉え、今度はブレーキする車のなだれを上から鳥瞰的に映し撮ります。そのカッティングは極めて素早い緊張感のあるものですが、やがてまた「G」のスローモーションへと移行します。その後、地盤の落下を映し出す壮大なスペクタクルが画面に展開され、カメラは一気に上空はるかに飛んで、生態系の荒廃を俯瞰します。
 このような語りを可能にするのは、視座を次々に組み替えてゆく、軽やかに吹っ飛ぶ主体の姿です。俳優は視線を向けられ、拘束される透明な存在ではなく、不動の身体のうちに大きな動性を秘めながら強度ある語りで媒介的・中間的に映像を観客に届ける、一人のソリッドな主体として立っていたのです。

伸長する「舞台」

 『氷と冬』の俳優方と観客との間に明快な区別を立てることの難しさについて先ほど触れました。記録映像ではわかりづらいですが、古賀さんは最後に舞台を降りて客席に座り、以降はコンペティションの上演作品をそこから見届けていました。このことによって、俳優と観客、舞台と客席の垣根は解消され、と同時に『氷と冬』の上演は終演後にも延長されていきます。
 俳優の方々は楽屋ではなく自宅から衣装に着替え、また自宅に戻るまで衣装を剥ぐことはしませんでした。上演に明示的に組み込まれたコンテクストではないものの、これも「上演」の「日常」への延長を図ったものでしょう。
 厳密に言えば、この長い「冬」が氷解の時を迎えぬ限り、いつまでも『氷と冬』が終演を迎えることはないのだと思います。
 先述の山下公園でのリハーサルも当然上演に組み込まれていますし、そもそも稽古場での言葉の集積を展開するスペースノットブランクの作品では、前後の時間が舞台上の上演行為に折り重ねられているのでした。
 俳優たちは、どこからかやって来て、謎の抑止力の憂き目にあいながらも、いずれどこかへ帰ります。その人生の悠久の真実というか、恒久的な動性の表現が『氷と冬』の核であったように思います。
 俳優の方々が、「冷たい?」と互いに尋ね合う掛け合いのシーンは、暖かさの逆説的な確認のようです。熱は目に見えない粒子の動性が生むエネルギーの表現なのでした。『氷と冬』は肌寒い冷たさを露出して終わるのではないのです。その熱を飛散させてはならないと思います。抑止力により立ち止まらされながらも激しく運動する暖かな身体を保っていたいです。

「舞台」化する居住空間

 では、残りの「登場する生物たち」、すなわち観客はどうでしょう。作品の序盤では、古賀さんの

ちょっと今試しにぼーっとしてみたい。皆さんと。今こうやって話を聞いてもらってるから 視線を一旦思い思いの場所に 目を 向けていただいたり 見ててもいいです。もしかしたらちょっと難しいかもしれない。試しに、1分ぐらい。

という語りの後で、実際にたっぷりとした沈黙の時間が取られます。そこで、古賀さんは観客の方に向き直り、視線を私たちに投げてきました。沈黙のうちにまなざされることで、舞台や客席、その中に身を置く私たちの実存が、即物的に、浮き彫りにされるようでした。
 先ほど、俳優の語りをその映像性から説明しましたが、彼らの身体はカメラのフィルタになってしまうのではありません。たとえば、先ほどの

一気に G G G G G 重力のG J グラビティ 重力 こんなとこで止まっていてもしょうがない

という台詞は、脚本が手元にない観客には、最初はわけのわからない「ジイ」という音としてのみ届くことになります。辞意、示威、爺、侍医、自慰、グラム、ゴキブリ、そのいずれを指しているのか判然としません。やがて「重力のG」という説明によってクリアな解像度で言葉は立ち上がりますが、それも「J」という言葉によって直ちに茶化されてしまいます。続く「こんなとこで止まっていてもしょうがない」という言葉はもはや完全な主観で、モノローグと言ってもよいです。俳優は言葉を届ける媒体としてあまりに不透明で、言葉は素直に像を結ばないのです。
 つまり、俳優の言葉を受け取り、それを情景として立ち上げる観客の主体的な参与を以て初めて、『氷と冬』の景色は立ち上がる仕組みになっているのです。

物語や関係は個々の言語を用いて想像されるものと仮定して、作者たちは「状態」を制作し、関わり合いによって起きる「現象」を描く

というステートメントの言葉が思い出されます。この舞台では、俳優は動きを極度に抑制されて、不透明なメディウムとして純粋化されています。その語りや、語り同士、俳優同士の関係はあまりにも分裂的で、多義的で、ゆらぎを孕んでいます。観客が俳優と関係を新たに取り結ぶことで、ようやく俳優は静止しながらに動き出すことが出来るのです。想像力によってこれを物語へと飛翔させる観客の主体的な動性にこそ、この「冬」の氷解の機縁は眠っていることでしょう。
 私はリハーサルで初めて本作の全貌に触れた際、一見理解しがたい言葉や色彩、形態の配置が特徴的な岡崎乾二郎さんの絵画を想起させられました。ソリッドな形態間の透明な関係性と、それを解釈する主体の想像力の出会いによって目に見えない飛翔を遂げる作品の姿に、スペースノットブランクと通ずるところがあると感じたからです。
 『氷と冬』という作品はコロナによる分断が本格化する前から製作されていたにもかかわらず、この事態への明快な批評の形をとっています。けれどもそれは、この病によって引き起こされた諸々の事態が、現代社会に訪れて去らずにいた「冬」の姿を明るみにしたものであったからでしょう。
 「かながわ短編演劇アワード2020」は、感染症対策を講じた結果、映像配信による無観客開催の運びとなりました。私が本作を劇場で鑑賞できたのは、あくまで本作に「保存記録」としてクレジットしていただいたご縁によるものでした。この素晴らしい舞台が観客と直接に共有されないのを私は残念に感じましたけれども、スペースノットブランクの方々はこのことをポジティブに捉えていらしたのが印象的でした。
 『氷と冬』の上演からおよそひと月が経過した今、非常事態宣言によって誰もが本当に動けなくなりました。閉塞的なそれぞれの住まいで、形骸化しつつある(ともう言ってよいはずです)「抑止力」に従いながらこれに抗うには、関係し、想像し、動き続けるための「舞台」を各々の日常に延長していくのは一つの良策であるはずです。
 冒頭で触れました通り、緊急事態宣言の終止するはずの5/6まで、『氷と冬』の記録映像がYoutubeで配信されていますし、Spotifyにも上演音声が既にアップされています。

https://open.spotify.com/episode/2LUnkcHs5WRhuI9p41TtcC?si=0Y-XcOLsR328jz53g0Ii9g

 オンライン演劇の形式や是非が問われてやまない昨今ですが、居住空間を劇場化するには、観客の想像力と、それを刺激する良質な作品があれば十分であると信じます。
 最後に、私とは別に、本作を「舞台」化された場所から受け取った、一人の言葉を紹介してこの稿を閉じたいと思います。

――――――――――

黙っていても、〈関係〉の輪の中

困難。非常に困難です。しかしこの困難さは、新しい仕組みを作り出そうとする矜恃が、〈関係〉の一つ一つに対して溢れんばかりの情熱を注ぎ込ませたことによるのは間違いないでしょう。いま、情”熱”と言いました。『氷と冬』と題された作品ではありますが、この作品から伝わってくるなにものかのうちに、どこかあたたかいもの、ひいては熱く溶かされるようなものを感じ取ったとしても、それはまた間違いではないでしょう。「冷戦」は、背後に「熱い戦い」を忍ばせているのです。そして、「熱い戦い」が回避されたあとには、「雪解け」の春が待っていたのです。

「でも あたたかさがあるから、冷たく響く。愛情があるから、冷たく言いたい。」
「季節が冬っていうこともあるので 冷たい 物をイメージしてるんじゃないかな もう少し踏み込みたいな」
「寒さ。冷たさ。暖かさを獲得すること」

これらのセリフに聞き覚えがあるでしょうか。壇上に見えたのは4人でしたね。しかし、わたしたちの方向へと、もっとも多く声をかけてくれたのは、もっとも奥に立っていた人でした。わたしたち観客にとって格別である彼女が発したことばは、どうしても、私たちに感じ入るなにものかを残してゆかざるをえません。しかしこのなにものかは、深淵のさらに向こう側から、迂遠なやり方でしか伝わってくることがないようです。

心は、低い場所、深い場所へと水のように流れてゆき、流れ着いた先には容器のようなものが待ち構えています。この容器の中には一つのものしか入らないようですが、どうでしょう、容器の中には、別の名前の容器が入っているのではないでしょうか。たとえば「冷たさ」のタグがついた容器の中にだけ「あたたかさ」のタグがついた容器があるように、です。こうした方法を考えるなら、「昭和天皇」の中には「大正天皇」が、「大正天皇」の中には「明治天皇」が、入れ子のように続いてゆくのではないでしょうか。そして「あたたかさ」が「冷たさ」の中でしか生き延びられない儚いものだとすれば、やはり、この作品は突き放すような困難さを、敢えてまといゆこうとするのです。

入れ子型の容器を、もっとも奥まで探っていったとき、そこにあるのが心なのではないでしょうか。

ここで一度きりの飛躍をお許しください。また帰ってきますから。
自由って何でしょうか?

それは、他の人たちとの間に産まれる〈関係〉を再構築できること、そして、他の人とのあいだに新しい〈関係〉を取り結べること、でしょう。主体的な自由——つまり「私」が一人きりで自由になれること——なんてありえないのです。そんなことは傲岸だといってもいい。ひとりでは、戦争はできない。ひとりで眼を泳がせ続けるなんて、ぼーっとし続けるなんて、そんなことは、できないのです。そして困難さ。それは何かが思い通りにならないという、もどかしさのことでしょう。思い通りにならない”何か”がたくさんある、あるいはありすぎるということは確かですが、私たちが共鳴せざるをえない困難さは、少なくとも二つ。一つはあたたかく在ることの困難さ。もう一つは自由になることの困難さ。あたたかさを求めようとすれば、一度冷たさを通らなくてはならないし、自由になりたければ、他者との間に掛け合いを設けなくてはならない。そしてこの二つは入れ子のように続いてゆく。掛け合いはあたたかさを求め、あたたかさは他者への想いを求める。他者への想いは掛け合いを求めるけれど、掛け合いの中には突き放すような冷たさがある。そして冷たさの奥底にあたたかさが…

一つの〈関係〉が産まれる。一つの集団が産まれる。そのとき、同時に”外”が産まれる。だから閉じ込められる。“内”は、“外”がなくては成り立たない。閉じ込められるとき、私たちが覗くのはうちはイタチの眼。万華鏡写輪眼!覗かなくてはならない。そして、覗き返されなくてはならない。ひとりでは、うちに篭ることすらできない。ひとりでぼーっとし続けることは不可能なのです。突然、一匹の犬がバーッと駆けてゆく。犬を見つめる。車が走ってきて、そちらも見る。新しい〈関係〉が取り結ばれる。ひとつの自由が行使される。気づかぬうちに、私たちは自由を経験している。

外と内が分かたれたとき、もしかすると両者は敵対してしまうのかもしれません。マンホールを囲む自転車の輪は、外から止めようとする力と衝突するかもしれないのです。しかし、ただ衝突するだけで終わることは決してありません。私たちは、そこに新しい〈関係〉を結んでしまうから。掛け合いの中に。その掛け合いは突き放すような掛け合い。しかし絶対的な否定ではありません。無関心ではないのだから。外にとって、内は外。外は内。いつだって、繋がっているのです。それはまるで、クラインの壺。背中を向けているからといって、背離ではありません。背中で、繋がっているのです。やっぱり「もう少し踏み込みたいな」。

〈関係〉をどうにかしたい。でもどうしようもない。掛け合いには冷たさがある。だけどどうしようもないからこそどうにかしたい。ゆえにもがく。動きたくない。と言う。でも、他の人に反応して動いてしまう。ときには習慣に縛られているかもしれない。ときにはマンホールを囲む自転車の輪かもしれない。脱したいが脱せない。脱したくないときに限って脱してしまう。ときに止めさせたい。ときに続けたい。そこに「冷戦」が産まれる。加熱してゆく。衝突する。崩れあい、もつれあい、溶け合ってゆく。黙っていても、〈関係〉の輪の中。声をかけられる。「大丈夫ですか」。〈関係〉は至る所で生じ、「冷戦」はゲリラ化してゆく。

困難。非常に困難です。

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