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私と怒り&怒ること

このnoteを書くきっかけになった本と講座

去年(2020年)の後半にNVCを体系化したMarshall Rosenberg博士のThe Surprising Purpose of Angerという本(長いのでこれ以降は「怒りの本」と書きます)を読んだ(その時のnoteはこちら)。

そして、それとは別に、去年の終わりにマインドフルネス・セルフ・コンパッション・ワークブック(これは実際には練習帳ですが「MSCの本」と書きます)を買って学び・実践し始めた。

そこから、MSCに興味を持ち、興味を持っていることを知人に伝えたところ、「セルフコンパッションを育む8週間」というコース(講座)を勧められました。講師の中尾佳尊(なかおよしき)さんがNVCとパーマカルチャーを実践している人だと知って、パーマカルチャーも興味があるので、面白そう、と思って申し込んでみた。

(注:一応、NVC関連のホルダーに入れたけど、NVC的に検証できているかは不明です)


「『怒り』と『怒る』は違いますからねー」

その第4回目の講座が昨夜あって、「『怒り』と『怒る』は違いますからねー」という言葉に「???」となり、今もよくわかっているとは言えないのだけれど、ここに「私と『怒り』」についてのヒントがありそう、と思い、今日ちょっと書き始めてみようと思った(一旦書いては書き直し、をするかもしれません)。

以前のnoteにも書いたけれど、怒りの本に「怒りは自分の頭の中にある物語から来ている」と書いてあって、それは自分に当てはめてもそうだなー、と思う。

そして、MSCの本をやっていて、いかに自分を残念な存在だと思っているかがわかってきた。そこにはあまり責める、という感じはないことがわかったのだけれど、気づく前は、それが自分を責める、ということだと思っていた。(責める、がないから怒り、も少ないのではないか、という仮説)


私が怒ったときの記憶

去年、怒りの本の下訳(趣味でやりました)をしていて、ふと思い出したことがある。

それは、小学6年生の頃に、友達に「カルって怒らないよね。なんで怒らないの?」と言われたこと。

そう言われても「なんで怒るの?」と意味がわからなかった。多分、私にとって「怒るであろう」出来事があって、その友達は「なんであんなことされて(言われて?)怒らないの?」という事を言っていたんだと思うのだけれど、なんで怒ることなのかがわからず、私の頭は「???」だった。

思い返す限り、「頭にきたー」という思い出で一番古いのは中2の頃。好きな服を買ってきていいと言われてお金をもらい、好きな服を買ってきたらけちょんけちょんに言われ(真っ白な上下だったので、母は洗濯などのことを考えてゲンナリしたのだろうと思う笑)、その日が強めの雨の日だったのに、友人と水たまりに久しぶりにバシャバシャ入って楽しかったのに、びしょ濡れになって帰ってきたこともグチグチ言われたあとだったので、「もういい!」と言って、生まれてはじめて「怒って居間を去る」ということをした。

これを思い出しているのは、この直後に、すごく恥ずかしいようなおかしいようなことが起こって、そのため怒りがすぐになくなったのとセットで印象に残っているから。

私にとっては「人に対してその場を立ち去るくらいの強い感情が起こり、よりにもよって親に向かって強めの言葉を吐き、その場を立ち去る」というのは、かなりの勇気がいることで、それをしたにも関わらず、笑ってしまうようなおかしいことが起こったので、「一体何だったんだ~?」と強く残っている思い出。

その後も悲しくなったりがっかりすることはあったけれど、怒ることはあまりなく、怒るようになったのは恋愛をするようになってから。

いま思えば、そしていまでも、怒るのは相手の行動を誤解したり解釈しているとき。そして、これに気づけるのは、上述のマーシャルの怒りの本にそう書いてあって、そうだそうだ、と思っているから。

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さらに、これを書きながら思い出したことがある。私には2歳半下の妹がいて、小学生中学年ころまではよく喧嘩をして親に怒られていた。そして、わたしはこの怒られることに対してかなり欲求不満を感じていた。なんで私が毎回悪いわけじゃないのに、お姉ちゃんなのに、とかお姉ちゃんだから、と言われて私が怒られるの?と。

それでギャンギャン泣いたり、しゃくりあげながら弁明をしようとするけれど、あまりにもしゃくりあげてて何を言っているかわからないので聴いてもらえない、ということが起こっていたなぁ、ということを思い出した。

でもこれは、悲しかったり欲求不満(フラストレーション)だったのであって、このときも怒っていなかった。

このときに怒っているとしたら、妹がわざと喧嘩を仕掛けてくることがあって、そのときは妹に怒っていたなぁ。「ズルい!」とか「悪いやつ!」って。(レッテル貼りと決めつけと思い込みと解釈ですね…)


私が怒られた記憶 ~なぜ怒られたかわからない~

じゃあ、その前まではなぜ怒らなかったのか?というと、誤解も解釈もできないくらい、相手のことが「わからなかった」から。

親に怒られても、親がなんで怒っているのかがわからなかったし、思い出す限り、友達に怒られたことで覚えているのは、幼稚園の頃と中学生の頃なんだけど、幼稚園の頃も中学の頃も、なんで相手が怒っているのかがわからなかった。

中学の頃に怒られたことで覚えているのは、毎朝私が迎えに行って一緒に登校していた友人がある日から口を利かなくなったこと。怒っているようなのはわかったんだけど、理由がわからなかったので、私は毎朝迎えに行っていた。学校の中では少しは話していたような気がする。

しばらく毎朝一緒に無言で登校する、ということが続いてある時、彼女は言った。「どうせ話さないんだったらもう迎えに来なくていいよ」。

気詰まりだった私は「わかった」と言った。そうしたら、「なんで話さないのに迎えに来るの?何でどうして話さないのかを聴かないの?!」と怒られて、そもそも話さなくなった理由はわからず、話さなくなった後に迎えに来なくていい理由が話さないからで、しかもそれに対して怒っている、ということは理解できたものの、自分から話すのをやめていたのにそれこそ「なんで怒っているのか」が全く理解できなかった(今はできる)。

それで、困ってしまって「話しかけても話さないから、話したくないのかと思って話さなくなっただけで、話したくないのは私じゃないよ」と応えたのだけれど、いま書いていても、それが中2の女子の言葉か?!と思うくらい情けないしなにかがおかしい…。


そもそも、話さないのに迎えに行くのは「迎えに行かない」という意思表示がなされていないので、その前の「迎えに行く」というのを守っていたのと、私が迎えに行かないことで相手が「私が迎えに行きたくないんじゃないか」と誤解するんじゃないか、と思っていたフシがある。

こう書いていても、やっぱり「なんで迎えに行ってたの私?」という感じ。波風を立てたくない、自分から変化を起こして、言われていないことをして相手がどう出るかわからないので、穏便に、穏便に、という感じだったのだと思う。

どういう心理?(何となく自分ではわかっています)


思えば、幼い頃から、ずっと父母が怒る、怒っている時に、なぜ怒るのかがわからず、混乱していた。

怒られたことで覚えている古いことの一つに、4~5才の頃のことがある。外で遊んで帰ると、私の服にくっつくイガイガの草が体中にいっぱいついているのをみた父母が「またそんなにつけて!全部取るまで家に入れてあげないからね!!」と言う。私は、「あーあー、そうだった…」と前にも言われたことを思い出し、それがすぐに終わらないことも思い出しながら、目の前の戸がガッツリしまっているのをみてがっかり&悲しくなりながら、一人でくれていく夕暮れの中、一つ一つイガイガの草をとって、背中の方は取り切れているか心配だけど、もう見えるところは全部取った、と言い切れるかを確認しながら、「どうして一緒にとってくれないんだろう。大人が一緒にとってくれたら早いのに、どうして取れと言う割には子どもで取るのが遅い私が取っているんだろう」と思っていて、本当に、全くわかっていなかった。


そして、恋愛するようになると、「大切にされていない」とか「尊重してない」とか疑心暗鬼とかが起こり、怒りが出るようになったんだなぁ、と遠い目で思っている。いま夫に怒りを感じるときもこれだな。


怒リを感じたときの私と怒リを表現していたときの相手の考え(相手のは推測)

私が中2の時に親に対して怒った時に考えていたのは「何買ってもいいって言ったのに!!好きな服を見つけて嬉しい気持ちがペシャンコになったよ!!」だった。

わかってほしい、わかりたい、一貫性(言動一致)、わたしの好みを私の好みとして認めて欲しい(尊重かな?)

そうじゃなかったから、「相手が悪い」とレッテルを貼った。


中2の時に怒っていた友達は、最初はなにか理由があって話さなかったのかもしれないけれど、その後に怒ったのは「なんで『なんで話さないの?』って話すまで訊かないの?あきらめないでよ!!」かな。

大切に思っていて欲しい、自分の気持ちや考えを大切にして重要視して欲しい

なのに、話さなくなっても大きく嘆くわけでもそれこそ怒って「なんで話さないの?」というわけでもなく、「迎えに行かなくていいよ」と言われて「わかった」という私に相手も自分がどうしたいかもわからない、そして嘆いていたんだろうなぁ、と思う。


怒る理由

上述のように、私の父母は昭和の親としてよくいる程度に怒っていたと思う。

私はよく怒られた記憶があるし、怒るとめちゃくちゃ怖いので怒られないようにしていた。

でも、その頃は怒られる理由がわからなかった。例えば、取ろうと思ったら取れる草にどうしてそこまで怒るのかがわからない&覚えているようになるまでは怒られているので、怒りは地雷を踏んだ感じで、私にはずっと「なぜ起こるかわからない」ことだった。

いまは、「あーもうまた面倒なことして!私の手を煩わせて!!」みたいなこととか、2歳半下の妹で手一杯で「おねえちゃん」のハズの私に過度な期待をしていたんだろうな、と思う。

うんざり、ぐったり、悲しい、協力して欲しい、現実を共有したい(くっつく草はくっつくのよ!!とかお母さんは忙しいのよ、とか)

私が怒っていた、友人が怒っていた理由の推測は上述の通り。


『怒る』と『怒り』の違い

昨夜聞いた説明は、怒るは言動で怒りは感情とニーズから来ている、ということだった。


「怒る」は言動だから選べる、「怒り」は(二次)感情だから選べない、というのが違いの理由らしい。二次感情だという理由は、損なわれているニーズがあってまず別の感情が出てきてるんだけど、スルッと解釈などが入るために怒りに変わり最初の感情が隠れているから。

最初に書いたように、「『怒る』と『怒り』の違い」についてはもっと咀嚼&探求したいと思っている。

だから、まだしっかり体現していないけど、なんとなくわかろうとしながら、自分の経験につなぎ合わせて書いてみる。


「怒る」という表現

「怒る」は表現方法で、怒りは人を遠ざける。

怒ることによって、距離ができてスペースのニーズが満たされる。母は姉妹喧嘩から遠ざかりたかったし、イガイガをとるなんてことからもうんざりして遠ざかりたかったのかもしれない。

私のように悲しくなる人は、スペースよりも理解し合いたい、とか、大切にしたい・されたい、のニーズのほうが強いのかも。

「怒り」

そんな私でも、自分が大切にされていない、とか、相手が悪い、と解釈して、ストーリーが出来上がると「怒り」が湧いてくる、ということ。

姉妹喧嘩やイガイガで「怒る」ことをしていた母は、少なくとも、喧嘩は悪いこと、イガイガを何度言ってもつけて帰ってくるのは悪いこと、で、いい加減にしてよ!というので怒りが爆発していたのかなぁ。母親という役目上、怒ってでもやめさせるのが自分の責任、というのもあるかもね。だっていま私が妹と喧嘩しようがイガイガをつけていようが、怒らないと思うから(笑)。


「怒り日記」を書くという宿題

8週間の講座では宿題(次の回までの間にやると体現が進むよ、というお誘い)が出る。今回は、「怒り日記」を書くというのが宿題。これにより、どんな解釈や思い込みをしていて、それは本当はどんな感情やニーズがあるからなのか、というのを紐解くためのもの。

これを書いてみて気づきがあったり、修正があったらまた書きます。

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