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常識の引き算は偶然の産物。

当たり前が覆る瞬間。

 先日も記した通り、調理機能付き電気ケトルの温度ヒューズが溶断して、通電しなくなった。これまで湯沸かし、片手鍋、炊飯の3つを1台でこなしていたため、当然自炊する身としては支障が出る。

 運が良いのか悪いのか、買い替えろと言わんばかりに、某家電量販店の株主優待券が手元に届いたばかりだ。

 壊れたのが日曜日だが、次の週に都市部に出向く用事があるため、優待券があっても使える店舗がない地方民としては、通販で購入して、特定記録郵便で優待券を発送する手間や切手代が省けて好都合であるため、一週間限定で自動調理鍋のみで耐え凌ぐことにした。

 突然死した直後は頭を抱えたものの、3日ほど経過した頃には、あったら便利だが、別に無ければ無いなりにどうにかなってしまうあたりに、人間の環境適応能力の高さを実感する。

 得意不得意はあるものの、自動調理鍋でも湯沸かしできるし、片手鍋同様に、即席麺を茹でることもできる。炊飯だってお手のものだ。

 問題なのは、内釜が1つしかなく、炊飯をするとおかずの調理ができない点にあり、実はそれなりのグレードの炊飯器を、新しく買うくらいなら、内釜を増備した方が安くて便利なのではないかと思いつつある。

 この瞬間、日本人は何がなんでも炊飯器がないと、自炊する上ではお話にならない、ある種の常識にも似た自分の中の当たり前が覆った。

 以前にも炊飯器が突然死した際に、フライパンで炊飯したことはあるが、今はそのフライパンすら電気ケトルに置き換えられ、今回その電気ケトルが突然死したことで、一時的とはいえ、自動調理鍋で代用することになり、そもそもの必要性を自問自答している。

無い袖は振れぬ。

 電気ケトルが突然死したことで、色々代用しているものの、唯一面倒くさいのが湯沸かしだが、お湯を沸かす必要があるのは、コーヒーを淹れる時と、頻度は多くないが、優待で贈呈されたカップ麺や、パックライスの湯煎くらいだろう。

 今のところカップ麺もパックライスも食べていないため、毎朝のコーヒーを淹れるのに20分待つ感覚だが、何より待つのが嫌いな性分であるため、コーヒー如きに20分待たされるなら、そもそも飲まなくても良いと思ってしまう。

 よくよく考えてみれば、コーヒーを多飲するようになったのは、高卒で泊まり勤務の鉄道員になってからで、カフェインの眠気覚まし効果を狙ったものである。

 もっとも荒廃していた時期は、UCCのペットボトルコーヒーに加えて、モンスターエナジーを注入する、カフェイン中毒者感が出ていたが、その名残で泊まり勤務どころか、労働していない今でも、毎日惰性でコーヒーを飲み続けていた。

 その習慣が電気ケトルの故障で断ち切られたことで、自分の中ではあって当たり前になっているが、そもそも生きる上で必須ではない、嗜好品という名の準日用品が炙り出された。

 ズルズルと引き摺っていた悪習にピリオドを打つ時というのは、往々にして理性から〇〇絶ちを決意した時ではなく、環境変化によって、それをやるのが面倒だと感じるようになった時と、あっけない終わり方である可能性が高い。

 無い袖は振れないし、知恵を絞ってまでそれを欲さない時点で、その程度の嗜好品だったのだろう。酒も同様で家に置かない作戦で、優待の贈呈や失効間近のポイント消化で、身銭を切らずに買った時に呑むことが大半である。

人生は積み減らすべきだと思う。

”人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。 ぼくは逆に、積み減らすべきだと思う。”

自分の中に毒を持て|岡本 太郎

 私が尊敬する岡本太郎さんの数ある名言のひとつであり、積み重ねを大切にする風潮の現代社会へのアンチテーゼでもある。

 人は地位や権力などを積み重ねる度に、生きる上での制約が生じて、自由を失う。そうして多くの人がサラリーマンとして、何かを積み上げようと努めるが、それも定年退職となった瞬間に終わりを迎える。

 どんな地位や役職を築いたところで、定年で召し上げられる不毛な運命なのが分かっているのに、他人を蹴落としてまで、出世の駆け引きをする下劣な輩の気持ちは、まるで別の生き物を見ている気分で、理解できないまま早期退職に至った。

 これは私が鳥の目、虫の目、魚の目の如く、俯瞰、複眼、潮流を踏まえた人生設計を、考えるだけの余裕があると捉えるべきか。若しくは国力が低下して、中流が没落したことで全体的に余裕がなく、近視眼的に生きていかざるを得ない程度に貧しくなったと捉えるべきか。

 後者は他人の課題であり、憶測の域を出ないため判断しかねるものの、人は何も持たずに生まれて、何も持てずに死んでいく。だから人生を大局で考えれば、平均寿命が84歳なのだから、42歳を目安に徐々に積み減らす感覚で生きると、これまで積み上げたペースで、積み減らせるように思える。

 電気ケトルの故障ひとつから、そもそも必要なのか。ないことでどのような支障が出るのかを試せたり、ここまで考えを膨らませられる程度に、時間や余裕があるリタイア生活は、積み減らしの極地で得られる役得なのかもしれない。そんなことを考えながら、電気ケトルとコーヒーの習慣を手放した。


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