見出し画像

街全体を居住空間に見立てる。

無いなら無いなりに知恵を絞る。

 「カンブリア宮殿」4月6日放送分にて、日の丸自動車興業が取り上げられ、都内の無料巡回バスのスポンサーを募る際に、デパートのエレベータと同じと例えて説得した点が、司会進行役の御二方には秀逸だと刺さっていた。

 このアイディアは私生活にも応用できる。というよりも、この考え方によって、私はミニマリスト呼ばわりされる程度に所有物が少なく、引越しが宅急便で完結する状態までコンパクトとなった。

 無料巡回バスをデパートのエレベータと捉えたように、私は街の生活圏内を自宅の延長線上と捉えて、自宅は調理場と寝室程度に留め、必要最低限しか家財道具を調達しないよう心掛けている。

 だからこそ知人を家に招くと、内見だと揶揄されてしまうが、永住するつもりもなく、仮暮らしならそれでいいと思っている。

 社会人学生から社会人を卒業して、晴れて学生に逆戻りしたことで、本業は学ぶことになった。それにも関わらず、自宅にはテーブルすらなく、学習できるような設備は整っていないどころか、本棚すら用意していない。

 学習設備は図書館の学習席を使えば良いし、同じ建屋内に自前では実現できない規模の本棚がある。公立図書館は我々が納めた税金で運営されているのだから、その自治体に居住する民として、これを活用しない手はない。

 冷蔵庫がなくても、近隣のコンビニやスーパー、ドラッグストアを外部倉庫と捉えて、期限を含めて管理して貰っていると捉えれば、必要な時に必要な分だけ、対価を支払って取りに行く程度の感覚で、基本的にはわざわざ自前でストックする必要がない。

 我々は使いたい時に使えないのは不便だからと、さも当たり前のようにお金を支払って、家財道具を揃えているが、公共施設やインフラを駆使することで、自宅の機能として外せないのは、究極的には寝室だけである。

 コストの問題が解決できれば、自炊ではなく外食に、洗濯機ではなくコインランドリーに、浴室ではなく銭湯に、と言った要領で代替可能だと、柔軟に考えられると、道具をお金を支払って自前で調達するのは最終手段だと思うようになり、無いなら無いなりにどうするか、知恵を絞るものである。

不便でも不機嫌にならない仕組みを構築。

 とはいえ、生活環境を外部に依存することにもデメリットはある。図書館には休館日があるし、最寄りの銭湯だって営業していない日はある。

 そうした施設側の都合に合わせて、自身のスケジュールを変更せざるを得ないのは、時間に追われているサラリーマンだと癪だが、時間に追われていない自由の身になると案外、柔軟に対処できるものである。

 いくら大学生と言えど、毎日勉強するほど根を詰めるつもりはないのだから、初めから図書館の休館日をノー勉強デーに設定してしまえば良いし、風呂なし物件で最寄りの銭湯が休みなら、ちょっと遠出してスーパー銭湯や温泉場に行っても良い。

 平時は淡々と生活して、イレギュラーな際は贅沢をするとマイルールで定めると、トラブルが発生しても嫌な気持ちになるどころか、非日常を味わう大義名分が得られる分、却って大好物になりがちである。

 これは鉄道における人身事故などの輸送障害で、自分が悪いことをした訳でもないどころか、むしろ被害者側なのに、何故か袋叩きにされる鉄道員側だったからこそ、発想の転換でトラブル耐性が高くなっているとも捉えられる。

 LCCを多用するなら、クレジットカードに航空便遅延保険を付帯させておくと、4時間以上の遅延で出発地での宿泊代や食事代に対して、保険金が支払われるため、どうせ遅れるなら派手に遅れて貰った方が得した気分になれるため、同じ遅延でも無駄にイライラせずに済む。

 世の中からトラブルは無くならない以上、それが起きた際に嫌な気分にならない仕組みを設けた方が、長い人生で得ではないかと考える。もはや菩薩の領域に近いが、そう思えるようになると、ちょっとした不便は許容できるものである。

究極のシェアリングエコノミー。

 さすがに東日本大震災で物流が滞り、首都圏の商品棚からは商品が消えたように、必要な時に必要なものを調達できる環境が失われると、いくら思考を巡らせたところで、ダメなものはダメだろう。

 有事の際を想定した、最低限の備えは必要だが、この塩梅が未だに掴めずにいる。平時に必要ないからと余剰を削減し過ぎて、有事の際に機能不全を起こすのは、古巣の鉄道業界あるあるだが、実生活で同じ事態になるのだけは、何が何でも避けなければ、元鉄道員の性丸出しで見苦しい。

 そう言った時のために全国各地で、住みたい、住んでも良いと思えるような、比喩表現的な故郷を平時の旅行で探しておき、可能であれば二(多)拠点生活で、ある程度は異なる生活環境に慣れていた方が、あっちがダメなら、こっちで暮らす。と柔軟に生活できる。

 いわゆるアドレスホッパー的な生き方が、私の目指すべき最終地点なのかも知れないが、自前で家財道具を最低限しか保有しないからこそ、究極の共有社会、シェアリングエコノミー的で、街と共に暮らせるとも捉えられる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?