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無償、無目的、無条件。

地球の力を使え。

 表題は「芸術は爆発だ」でお馴染みの岡本太郎さんが、いのちの本当の在り方に関して、太陽フレアが無償、無目的、無条件に放出する様子になぞらえた言葉だが、なによりパワーワード過ぎて、爆発がひとり歩きしたまま現代に至る。

 しかし、よくよく考えてみると太陽の放射エネルギーは凄まじいもので、照明機能に留まらず、照射された物質の温度を上昇させるから、洗濯物も乾く。植物やプランクトンは光合成によって二酸化炭素を吸収して、我々に必要な酸素を排出するし、海水は水蒸気となり、それが雨雲となってまた地球上に降り注ぐ恵みの雨となり、河川を通じて海に還元される。

 これらに人類社会で言うところのコストは掛からず、全て自然エネルギーだけで循環しているのだから、つくづくよく出来た仕組みだと感心する。

 子供ながら何故、雨が降るのか不思議で仕方がなかったが、理科の授業でやれ水蒸気だ、光合成やらを詰め込まれるよりも、物事を単純化して地球の循環構造を説明した方が、水蒸気の沸点とか、光合成の仕組みが自然と頭に入って勉強になるのではないかと、今になって思う節はある。

 そんな、自然エネルギーの循環構造をハックできれば、現代社会でも生活コストをゼロに近付けられるのではないかと、考えるのは仙人生活を営む者として、当然の流れである。

 自動車メーカー、スズキの工場内部を見たことがある人には鉄板ネタだが、鈴木修氏の「重力はタダだ。地球の力を使え」のポリシーから、ベルトコンベアではなく、傾斜のついたレールで自動車を搬送している。

 工場の照明も天井から自然光が取り込める設計になっており、日没まで電気を必要とせず、実に経済的である。

 と言うよりも、本来の人類社会はこうあるのが「自然」であって、日中に照明と空調で調整された人工的な環境で、デスクワークでパソコンを暗くなるまで操作している方が異常で、それが数々の現代病に繋がっているとも捉えられる。

 某天空に城が浮かんでいるジブリ作品の、バルス5分前あたりのヒロインのセリフではないが、「人は土から離れては生きていけない」的な文明批判を作品越しに主張しつつも、制作する自分自身も、その文明の恩恵を受けて生きている、監督の葛藤を感じずにはいられない。

自然に抗って生きるのは高くつく。

 以前にも衣食住が満たされれば、人間としての最低限の欲求は満たされると記している。着るものはファストファッションや古着が溢れているし、食べるものも自炊すれば単身だと、相当な大食らいでなければ月に2万円以内で収まるだろう。

 住環境も地方だと家賃が1万円前後の物件や、ほぼ土地代の300万円で家が買えるから、都市部で必死になって働き詰めて、マンションなのか億ションかは人によるが、それらを買っても週末に自然を求めて、やれゴルフだ、海辺や山に出向く位なら、最初から地方部で自然と共に生きた方が生物として自然ではないだろうか。

 地方と言っても自家用車必須な場所だと、居住費用が安くなった分だけ車両運搬具の購入、維持費用が掛かって相殺されてしまうから、コスパ最強で運動にもなる自転車で生活が完結する地方のコンパクトシティが望ましい。

 自転車も自分でタイヤやチューブ交換を行えれば、材料費+労力で済むから、パンク修理のつもりが全取っ替えで5,000円以上支払い、損した気分になることもないだろう。

 住居費が安く抑えられて、自家用車のコストが省けると、唯一のデメリットがプロパンガス物件になるが、これも契約せず銭湯や温泉で代用できるとガス代を支払う時と大差ない金額か、むしろ低廉になり満足度が上がる。

 地熱も地球の力だから、温泉が湧き出る地域だとボイラー代が掛からず、それが低廉な入浴料金に反映される。やはり地球の力は偉大で、それに抗って生きるのは何かと高くつく。

 太陽光で発電してから電化製品を使うと、光→電気→熱と2回の変換ロスが発生するが、真空管でお湯を沸かすなら、変換が一度で済み無駄がない。

 尊敬する高城剛さんは、山頂でカップ麺をすすりたい時に、ソーラーオーブンで、雲行きにイライラしながらお湯を沸かしているらしいが、文明の利器を自然と共存する形で利用すると、自然エネルギーから直接、お湯が沸かせる訳で、文明社会はこのような形で共存できないものかと素人ながら感じる。

自活できると常勤せずとも生きていける。

 賃金労働も自然に抗っている気がしないだろうか。お金は誰かに労働を代わって貰う権利のようなもので、先ほどの自転車のパンク修理の例であれば、5,000円のうちの材料費は半分程度なもので、残りの半分は工賃と言う名の人件費が上乗せされている。

 材料のタイヤやチューブも、どこかのメーカーが生産しているが、原材料部分の材料費はさらに安く、そこに機械設備費や人件費が加算されて、我々が店頭で購入する価格となっている。

 極論、パンク修理を自分で行い、それに必要なタイヤやチューブも、ゴムから自前で作れれば必要なのは労力のみである。原材料は自然界にあるのだから、究極的にはお金なんてなくても、知恵と労力さえあれば手に入れることができる。

 だから、お金は誰かに労働を代わって貰う権利のようなものなのだ。我々が常識としている貨幣経済は、労力→金銭→権利行使(代務)と、分業によって自身の労力をお金に変換し、それを用いて誰かの世話になる形で生きている。

 しかし、エネルギーに変換ロスがあるのと同様に、労力を金銭に変換するのも、その逆もロスが生じている。言葉を選ばなければピンはねされているのである。ピンはねがなければ企業は利益を生み出すことができない。

 だから、自活する術があるなら、自身の労力を金銭に変換せずに生きた方が、効率としては良いように思える。もちろん人には得手不得手があるから、分業して得意なことに集中した方が、変換ロスを加味しても効率が良いからこそ、資本主義経済がここまで発展しているのは事実である。

 しかし得意なことを仕事にして、生き生きしている日本人が、果たしてどれだけ居るだろうか。賃金=我慢料と捉えて、割り切っている人が多いように感じる。

 人生は有限で、嫌々働いて生きるほど長くない。現代的な生活を、資産所得のみで賄おうとすると、相当な労力を金銭に変換して、それを運用しなければならないが、自活する術を身につければ、生活コストが安くなるため、少なくとも、生活のためにフルタイムで労働する必要はなくなるはずである。

 工業化社会で作り出された、人工的な賃金労働者としての生き方に、生きづらさを感じていたり、疲弊している人、潰れてしまった人は、自然的な生き方を取り入れてみると、解決の糸口が掴めるかも知れない。


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