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高卒人材を持て余した社会の末路


学がありすぎんですよ

 先日、上越市長が市議会で、企業誘致による人材獲得に対する答弁で、「工場では高校卒業程度のレベルの人が働いている。企業誘致で頭のいい人だけが来るわけではないことを前提にしなければならない」と発言したことが、学歴差別と捉えられることから炎上している。

 新年度に静岡県の新入職員への訓示で、県知事が職業差別を助長しかねない発言をしたことで炎上しているにも関わらず、歴史に学ぶだけの賢さは持ち合わせていなかったようで、規模は違えど、行政のトップに立つ者が同じ轍を踏むのは、高卒で社会に出た身として誠に遺憾である。

 やはり能力主義こそ正義な先入観を持つインテリほど、貧困や低学歴、デブに対して、努力すれば変えられる要素なのに、それをしない人と見下して差別する構図は、サンデル教授の指摘通りであり、私の教授に対する信憑性は爆上がりする一方だ。

 連邦に反省を促すダンスでお馴染みの、ガンダム作品に出てくるタクシードライバーの言葉を借りて、インテリ的な傲慢さを指摘するのであれば、まさに「学がありすぎんですよ」の一言に全てが集約されている。

 そもそも、日本社会のインフラを支えている、ブルーカラーを中心とする現場仕事の多くが高卒人材であり、日本社会は高卒人材抜きに成り立たない。

 つまり、大卒を中心とするホワイトカラーは、高卒人材が3K労働に従事してくれているおかげで、自分たちが自由な働き方の選択ができている前提に立ち返れば、インテリ層が目の敵にする相手が非大卒ではないことくらい、少し考えれば、高校卒業程度のレベルの人でもわかることだと思うが、いかがだろうか。

敢えて狭間に居るからこそ、見えることもある

 そんなアンチ能力主義的な内容を記している私は、高卒で一度社会に出て、電鉄会社の社員として3K労働に従事しながら、通信制大学で学び、社会人になってから大卒となった。

 その意味で、最終学歴は大卒でありながらも、非大卒側から見える景色や世界も知っている。良く記せばハイブリッド、悪く記せば中途半端な立ち位置で、大卒サイド、非大卒サイドの狭間で傍観している、日本社会における超マイノリティである。

 敢えて狭間に居るからこそ、インテリが能力主義を盲信し、傲慢となる脆さと、世の中に努力したところで報われない人や、遺伝子で頑張ることが難しい人、頑張りたくても環境が劣悪で、その意欲が挫かれてしまう人の両方が見える。

 そして、企業の大卒至上主義、新卒一括採用、年功序列、終身雇用(解雇規制)が前提の社会システムが、現代では機能不全を起こしており、能力主義こそ正義な大卒と、現場で日本社会を支えているにも関わらず、冷遇され続けている非大卒との間で、社会が分断している根深さを痛いほど感じる。

 企業は解雇規制があるため、正規雇用の採用に慎重となった結果、高卒で務まるような職種にも大卒を要求する大卒至上主義となり、バブル崩壊以降は人件費=コストと見なすようになった。

 それに加えて、業績悪化を口実に早期退職者を募る体たらくで、会社に居座り続けて、晩年に若手時代の安月給を回収する難易度は爆上がり。年功序列は、初任給を安く抑えるためのシステムに成り下がった。

 学生は新卒一括採用で初期のキャリア形成に躓くと、その後の挽回がハードモードになることを就職氷河期世代から学んでおり、本来であれば、高卒人材で十分輝ける筈の若者たちが、奨学金という名の借金を背負ってでも大学へ進学するようになり、高卒の肩身が狭くなるのと同時に、ブルーカラーが選ばれなくなった。

 結果、現場仕事では人手不足となり、安くて高品質なインフラが維持できなくなった結果、昨今の建設業や工期や、運送業における遅延の慢性化。路線バスなどの公共交通機関が減便される形で表面化している。

 裁量や決定権を持つインテリが闘うべき真の相手は、内心来てほしくない高校卒業程度のレベルの人なんかではなく、猫も杓子も大卒ホワイトカラーを目指すようになってしまった大衆意識や、社会を支える職業ほど、冷遇されていて食えない社会構造の根深さではないのだろうか。

代わりはいくらでも居る、わけがない

 なぜ現代の日本は、現場の最前線で社会を支えている筈の、高卒人材を持て余す体たらくとなってしまったのだろうか。

 憶測の域を出ないが、日本が高度経済成長を遂げたことで、人件費が上がり、企業が製造拠点の海外移転を繰り返したことで、ものづくり大国ではなくなった結果、技術者は海外企業に引き抜かれる形で逃げ切れても、現場作業員には逃げ場がない。

”戦後の高度成長というものが、「低賃金」「勤勉」「高度技術」という三つの要素で成立したとすれば、バブル期にはこの前者ふたつ、国際的に見た時の低賃金も勤勉も、日本社会からとうの昔に失われていた。そのことはまさに戦後を生きてきた団塊なら、肌で感じて知っていたはずなのだ。自らもそうした変化を実感しながら何もしなかった。そのことの責任は大きい。”

日本 米国 中国 団塊の世代|
堺屋 太一,浅川 港,ステファン・G・マーグル,葛 慧芬,林 暁光

 失われた30年の間に本来であれば、逃げ場を失った人材をリスキリングして、労働市場に再度参入できる仕組みを構築し、非大卒ブルーカラーでも潰しがきくから、安心して高卒で社会に出ても良い社会なのだと、大衆意識を変えていかなければならなかった。

 しかし、現実は人材を右から左へ受け流すだけの人材派遣業者が潤い、非正規雇用の温床となっただけ。恵まれたインテリからは貶められる体たらくで、就労支援という名のセーフティネットすらロクに整備されていない。

 これでは、誰だって高卒で社会に出ようなど考えないではないか。それが、今になって円安で、海外企業が人件費の安い日本に工場を作るようになった結果、現場仕事の人手不足が加速して、工業高卒が引く手数多、ブルーカラー大募集なんて虫が良すぎる。

 現場の従事者を歯車同然に扱い、決められたことを決められた通りやるだけの、単純作業なんて誰にでもできる。嫌なら辞めろ、代わりはいくらでも居ると、案に示しては薄給激務でこき使う。

 身体を壊したり精神が疲弊して潰れたら自己責任と、現場を変える決定権を持っている者が、これまで劣悪な労働環境を放置して、高卒人材を使い潰して来た代償は大きい。

 現場仕事の経験者が、二度と現場に就かないと心に誓ったり、二度と現場に就けない身体になった恨みが募ることで、手痛いしっぺ返しを食らうのは、他の誰でもなく、現場から代わりの人すら居なくなくなり、管理もクソもなくなるインテリの方々であることはお忘れなく。


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