見出し画像

日本の大学はどう在るべきか?


東京大学の授業料引き上げ検討

 現在、国公立大学の授業料は年間535,800円が標準額と定められている。東京大学は長らくの間、この標準額で据え置いていたが、昨今の国際競争力低下などを懸念して、文部科学省の省令に基づき、最大20%の引き上げを検討していることを10日、同大学のホームページ上で明らかにした。

 法的には何ら問題ない上、「先立つものは金」のことわざもあるように、国際競争力を失わないために、何か対策するにしても資金は必要となってくるわけで、「仕方がない」という意見も散見される。

 それに加えて、東大生の親の半数以上が平均年収950万円超なんてデータからも、大衆の「東大生=経済的に恵まれている」バイアスが掛かっていることや、僻みもあって年間11万円弱くらい、東大ブランドがあれば良い企業に入って、将来的にペイできるのだから、別に良いでしょ感すらある。

 しかし、いくら給付型奨学金で応能負担の措置を取る意向とはいえ、学生への十分な説明もなしに検討に入ったことから反感を買い、抗議に立ち上がる事態へと発展したのもまた事実で、個人的には日本の大学の在り方そのものが問われている一件だと、注意深く動向を見守っている。

「卒業は易く入学は難し」な大卒の価値は?

 そもそも、社会における大学の役割として、研究機関と教育機関の、ふたつの側面を有しているが、諸外国と比較すると、日本は教育機関の色合いが強いことが特徴として挙げられ、これが諸悪の根源となっているような気がしてならない。

 バブル崩壊以降、解雇規制が厳しい日本社会において、企業は採用に慎重となり、必ずしも高等教育を必要としない職種であっても、取り敢えず高学歴の方がマトモな人材だろうと、就活市場そのものが大卒至上主義となり、大学全入時代という背景も相まって、多くの大学が事実上の職業訓練校と化している。

 しかし、日本社会では当たり前となっている、高校卒業後に大学へ進学することが、当事者にとってどれほどの意味を持ち、社会にとってどれほど有意義なのか、今一度立ち止まって考える必要があるのではないかと思う。

 というのも、炎上芸でお馴染みの成田悠輔氏が、有名校に入ると人は幸せになるのか?の問いに対して、データ分析をした結果、学校のおかげで成績優秀なのではなく、そもそも成績優秀な生徒が有名校に入っているだけ、という残念な結論に辿り着き、学歴に意味はないと提唱しているからだ。

 つまり、旧帝大だろうが、難関私大だろうが、講義や研究内容そのものに大きな差があるわけではなく、個人が有名校に入れる成績を客観的に証明する手段として「学歴」というラベルを欲している可能性が高い。

 養老孟司先生が「東大合格者には卒業証書を渡せ」と持論を展開しているのも、先述したラベルの件に尽きると思う。

 日本の大学の多くは、「卒業は易く入学は難し」と、海外の名門大学と逆行しており、その海外の名門大学でさえ、成田先生が学歴に意味はないと結論付けたのだから、日本の大学で学ぶことで、生徒がより優秀になるとは考えづらい。

 だからこそ、「東大卒」の肩書きが欲しいだけの学生を、入学さえしてしまえば、卒業はそう難しくない環境に4年間も拘束して、ダラダラと学費を支払わせるくらいなら、養老先生の言う通り、合格者に卒業証書を渡した方が、本気で研究したい学生だけが残り、学生、大学、社会にとっても三方よしとなるような気がしてならない。

国は寄附金控除の税制を変えるべき?

 この件は、大学は義務教育ではないのだから値上げすれば良いとか、据え置くべきとだけ結論付ければ良い単純な問題ではなく、社会全体にとって大学がどう在るべきなのか、大学の立ち位置が定まらない限り、議論は平行線となるだろう。

 現代において職業選択は自由だが、大卒の方が選択の幅が広い。そして労働市場では非大卒よりも大卒が評価される。故に猫も杓子も大卒となっている。

 これ自体は自然なことかも知れないが、日本社会特有の問題として、新卒一括採用が根強く、年功序列、終身雇用を前提としたメンバーシップ型雇用の上、厳しい解雇規制と、雇用の流動性が皆無であることから、初期のキャリア形成で躓くと、その後の挽回が非常に難しい構造となっている点だ。

 海外のように、一度は非大卒で社会に出て働き、数年かけてお金を貯めてから大学へ行き(リスキリング)、高度人材として再度、労働市場に参入することを、日本社会では想定していない。

 故に大学が企業との人材を繋ぐ場としての性質が強くなり、事実上の職業訓練校と揶揄する所以でもある。これにより、大学は何歳になっても入れるにも関わらず、教育→就労が前提のライフモデルにおいて、良い会社に就くためには、高校卒業後に大学に行かなければ、大した意味を成さないことを暗に示している。

 これはつまり、お高い大学の学費を支払えるほどの経済力をない家庭の高校生からすれば、奨学金という名の教育ローン、つまりは借金をしてまで大学に行くことを、社会に強要されていると言っても過言ではない。

 そうして平均288万円の借金を背負った状態で社会に出るが、大卒だから稼げる時代でもなく、労働集約型産業であれば初任給は安く、手取りは20万円に満たない。

 ただでさえ少ない給料から、税金と社会保険料が重くのしかかり、更に少なくなった可処分所得から、家賃や水道高熱通信費、食費諸々に加えて、奨学金の返済で毎月15,000円(288万円/16年の場合)を支払っていたら、お金が手元に残らない。完済の目処が立ち結婚や子育てを考える頃には、高齢出産のタイムリミットが迫り少子化一直線。

 経済的に恵まれた立場の人からすれば、東大の授業料値上げなど、たったの年11万円弱に映るかも知れないが、社会の構造上、借金を背負ってでも大卒となって社会に出なければならない若者からすれば、4年で43万円弱の負担増は死活問題であり、学生に負担を強いる前にやれることが、まだあるのではないかと思う。

 例えば、寄附金控除の税制を、現行の寄附した金額の4割ではなく、ふるさと納税と同様に控除の範囲内で全額とすれば、高額納税者ほど、どうせ税金として納めなければならないのであれば、2,000円を自己負担してでも、母校に寄附して節税するインセンティブが働く。

 仮に卒業生10万人が10万円寄附すれば100億円と、学費を2割値上げするよりも大きな効果が得られる可能性がある訳で、安直に学費を値上げする前に、そうした知恵を絞れないものか、東大に留まらず、国全体で考える余地はあるように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?