【音楽史】トイレットペーパに託した音符~ナチスに虐殺されたチェコ人音楽家(前編)
皆さん、こんにちは! 在米25年目、ニューヨークはハーレム在住の指揮者、伊藤玲阿奈(れおな)です。
今日1月27日は、国際ホロコースト記念日(the International Holocaust Remembrance Day)です。
ホロコーストというのは、第2次世界大戦中に独裁者ヒトラー率いるナチス・ドイツがおこなった大量虐殺のこと。主にユダヤ人が対象でしたが、政治犯やロマ(ジプシー)なども含まれていました。ガス室などを完備した強制(絶滅)収容所などに送られるなどして、600万人以上が犠牲になったとされています。
数ある収容所でもいちばん有名なのが、ポーランドにあったアウシュヴィッツ強制収容所でしょう。定説では、100万人以上(90%以上はユダヤ人)が収容され、働くことのできない者(病人・女子供など)は、シャワーを浴びさせてやるという口実のもと、ガス室に送られ殺されたといいます。
1月27日が国連によって記念日に制定されているのは、1945年のこの日、ソ連軍によってアウシュヴィッツが解放されたからです。
私は、自分が大学時代に国際関係学を専攻していたり、いちばんお世話になった指揮の師匠ふたりがユダヤ人であることもあり、折にふれてはホロコーストについて日本の皆さんに伝えるようにしてきました。
解放から77年目にあたる今回の記念日も、その一環として、ナチスによって強制収容所に送られた、3人のチェコ人音楽家(うち2人はユダヤ人)がたどった運命の物語をお伝えしようと思います。
1.オーケストラがあった強制収容所
チェコ(現チェコ共和国)は当時チェコスロバキアという国でしたが、第2次大戦が始まる前の段階でナチスドイツによって強引に併合され、ドイツの保護国になってしまいました。ドイツ領と同じわけですから、チェコ内にいるユダヤ人への迫害も、その時から始まったことになります。
そうして1941年、チェコのテレジーン(ドイツ語でテレージエンシュタット)という町にも、ユダヤ人を収容する施設がつくられました。
ただし、このテレージエンシュタット収容所には、他の収容所とは違う使命が与えられていたのです。それは、ドイツがユダヤ人を迫害しているという噂を聞きつけた国際赤十字による調査をうまく切り抜けるというものでした。
現在も、中国がウイグル人を迫害しているという「噂」があり、欧米諸国が調査団の受け入れを要求していますね。あれと同じ構図です。中国国内では無いことになっていて大半の国民は知らないように、当時のドイツでも、ユダヤ人は差別され隔離される存在であれこそすれ、虐殺されているとは国民のほとんどは知らなかったのです(今の中国の「噂」が事実かどうかは、本題とは無関係なので横におきます)。
いずれにしても、ナチスはテレージエンシュタット収容所に赤十字の調査団を迎えるために、外観も美しく、いっけん待遇の良さげな設備を備えた施設を建てました。実際、そこに収容されるユダヤ人は、過去にドイツに貢献した者や著名人、そしてその家族が中心で、他の収容所よりも待遇は少しだけマシだったようです。
特筆すべきは、この収容所には優秀な音楽家が集められたことで、オーケストラが組織されるほどでした。子供たちの合唱団もあったそうです。つまり、収容所では文化活動やレクレーションも盛んであることを調査団に示すために組織させたわけです。
1944年にモーリス・ロッセルをはじめとする国際赤十字社の査察団が来訪した時には、このオーケストラや合唱団が演奏をして彼らを迎えました。記録映画も作られました。そして、まんまと騙されて帰っていったのです。
そうなると、もう音楽家も、その家族も用済みです。それ以降、アウシュヴィッツのような本格的な殺戮施設を備えた収容所へ、彼らは次々と移送され、多くの者が命を落としたのでした。
今回ご紹介するチェコ人音楽家は、3人ともこのテレージエンシュタットで過ごしています。彼らの過酷な運命をそれぞれ見ていきましょう。
2.凍死させられた作曲家ルドルフ・カレル
最初にご紹介するのは、作曲家ルドルフ・カレル(1880~1945)。
1880年にプルゼニーで鉄道員の息子として生まれ、法律を学ぶかたわら、『新世界交響曲』で有名なチェコ最大の作曲家ドヴォルザークに5年間にわたり作曲を学びます。
強い政治的な信念の持ち主だったようで、第1次世界大戦では、共産主義から国を守るチェコ軍団に参加して軍楽隊を指揮しています。戦後はプラハ音楽院の教授となりますが、ナチスによってチェコが併合されると、ドイツに対するレジスタンス(抵抗運動)に参加するのです。
しかし、1943年3月に逮捕され、プラハ市内のパンクラック刑務所に入れられます。この刑務所は政治犯をギロチンで処刑したことで悪名高く、少なくとも1079名(うち175名が女性)の首が落とされています。
カレルは、ここでの拷問にも耐えたようです。首を落とされることもありませんでした。そして、おそらくドイツ軍が押されてプラハが陥落しそうになったからでしょう、1945年にテレージエンシュタットに移送されます。彼はユダヤ人ではなく政治犯でしたから、後でご紹介するユダヤ人2人が収容されていた区画とは別の、政治犯専用の区画にいました。
2年にもわたって囚われていたカレルですが、言うまでもなく作曲家としての創作意欲は持ち続けていました。しかし、政治犯ということもあって嫌がらせを受けていたのでしょう、決して五線譜が支給されることはなかったそうです。
では、カレルはどうやって自分の想いを音楽に託したか?
彼はなんと、支給された鉛筆や薬用の炭を使って、トイレットペーパーの上に音符を書きつけたのです。5幕の子供向けオペラ『老賢人の3本の髪の毛(Tří vlasy děda Vševěda)』は、そうして書かれた240枚のトイレットペーパーを、彼に同情的していた看守に秘密裏に手渡していたことで後世に残りました。
同じようにして、9つの楽器のための『ノネット(九重奏曲)』も生み出されました。
しかしながら、テレージエンシュタットに移送されて間もなく、1945年3月6日にルドルフ・カレルはその生涯を閉じます。劣悪な環境からくる赤痢と肺炎にかかって苦しんでいたのですが、手当てを受けるどころか、「感染防止のための隔離」という名目で、極寒のなか戸外で寝泊まりさせられたのです。カレルと同様の処置を受けた8名の収容者も、その日に死亡が確認されました。
これによって『ノネット』も未完に終わりました(補完され、同年12月に初演されました。現在でも演奏されています)。
テレージエンシュタットが、ナチスから赤十字社の管理下におかれるのが5月1日でしたから、あと2ヵ月足らず生きてさえいれば助かったのかもしれません。
ぜひ一度、機会があったらルドルフ・カレルの作品に触れてみてください。彼が1920年代に書いた交響曲などは親しみやすいと思います。
ここまで長くなりましたので、今回はカレルまでにしましょう。次回の後編で、ナチスに運命を左右された残り2人のチェコ人音楽家をご紹介することに致します。
Ⓒ伊藤玲阿奈2022 本稿の無断転載や引用はお断りいたします
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