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ポリコレ作品がつまらない理由

 ハリウッド映画やアメコミはポリコレに侵食されてしまった。一方で比較的影響を受けずにいる日本の漫画、アニメ、ゲームは世界的に人気を博している。例えばポリコレに配慮して様々な人種、同性愛を盛り込んだディズニー作品は低迷しているが、日本のアニメ映画はヒットしている。

 ここで一つの疑問が浮かぶ。
「なぜポリコレ作品はつまらなくなるのか」
 それについて考えてみたい。

 まず、よく槍玉に上がるポリコレ作品とはどういったものかおさらいしておくと、典型的なのが
「太った女優を起用した舞台演劇」(反ルッキズム)
「原作では白人美形のエルフを黒人の役者でキャスティング」(反人種差別)
「ヒーローが同性愛者」(LGBT)
 などである。
 これらの作品は大抵不人気で終わる。その理由として「普通の人はフィクションの中ではブサイクより美男美女を見たいから」とか「原作へのリスペクトがないから」といった声が聞かれるが、実際のところ、それらはポリコレ作品がつまらない原因ではない。

 一度話が逸れるが、そもそもなぜ人は、フィクション作品を見るのだろうか。なぜ人は、海賊王を目指すゴム人間の話を見るのか? なぜ巨人を駆逐しようとする青年の行く末を追うのか? なぜチェンソーの悪魔に関心を抱くのか? 海賊王も、巨人も、悪魔も、私たちの実生活に全く存在しないのに。

『ゲド戦記』の作者アーシュラ・K.ル=グウィンは「言うまでもなくファンタジーは真実だからです。事実ではありません。でも真実なのです」(※1)と著書の中で語っている。
 そう。私たちはフィクションを見て、真実に触れたいのだ。真実とは何かというと、作者の内面にある光と影である。
 優れたファンタジー作品において、登場人物は作者の内にある光と影を分け与えられた存在だ。
 例えばジブリの『風立ちぬ』の二郎はわかりやすい。二郎は飛行機を作りたいという純粋な夢を持っている。だが時代は第二次世界大戦前夜。飛行機作りは戦闘機を生み出す運命を持ち、また、食うにも困る日本の子供達を差し置いて多額の国費を費やす「呪われた夢」だ。宮崎駿のアニメーション制作の夢と重なる。ジブリアニメを見た子供は戦いに憧れてしまう可能性を秘めているし、また別の視点では、アニメ制作はアニメーターにブラック労働を課す。夢を追うのは光だが、その覇道の中で様々な不幸を生み出し、それでもなお突き進むエゴは影だ。
 光と影、それは善と悪ではない。誤解を恐れず言えば、光とは普段から自分に見えている自画像で、影とは自分では直視しがたい己の無意識の面である。
 普通の人は影を見つめないように生きているが、ファンタジー作家は己の影を描かなければならない。
 光と影という言葉だけでは捉えずらいので、さらにわかりやすく理解するために、便宜的にマズローの五段階欲求の概念も使用してフィクションの登場人物と作者の内面の関係を説明すると以下の図のようになる。

ファンタジー作品の登場人物と作者の内面の関係

 人は誰しも、光と影を持っている。そして欲求を持っている。便宜的にマズローの五段階欲求「生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求」を図では横軸とした(欲求の考え方は他にもあるのでこれが正確ではないかもしれない)。
 フィクションの作者は、自分の内面にある光と影、そして欲求を登場人物に付与して物語を創造する。
 そしてそれら光と影が、受け手の光と影と共鳴する。他人が描いたファンタジーに共鳴するのは、光と影は人間の真実だからだ。

 ちなみに上の図に私の好きな漫画やアニメのキャラクターを当てはめてみると以下のようになる。

個人的な好み

 これはもちろん正確ではないかもしれない。物語の進行の中で欲求の種類が変わったり、影から光へ変化する者もいるし、そもそもいくつかの真逆の性質を持っている者もいる。
 例えば『ワンピース』のルフィは仲間の為に戦うが、同時に夢の為に冒険を続け敵をぶっ飛ばし続ける戦闘狂だ。『もののけ姫』のサンは森の為に戦うことが復讐にもなっている。
 ただしどの道、それは作者の内面から生まれた光と影である。優れたファンタジー作品は、作者の光と影の分身なのだ。

 例えば『進撃の巨人』のエレンに共鳴するのはなぜか。(以下ネタバレあり)。エレンが母親を殺されて復讐心に燃える初期については、大切な人を持つ者なら理解できる。やがて壁の外の世界を知った時に、仲間の為に敵となる人類を滅ぼすという決断も、わからなくもない。だが「壁の外に人類がいると知ってがっかりした」という台詞は、人によっては難解かもしれない。私が思うに、これは人が子供から大人へ成長する時の感覚だと思う。現代の平和な日本で育っていた純粋な子供が、世界情勢を知り、歴史を学び、社会の構造に気付いた時に、世の中にがっかりする感覚だ。それは何も難しい勉強は必要としなくて、家族との楽しい食事の裏には無残に屠殺される家畜がいるだとか、学校に通ったらイジメがあるだとか、そういうところから始まる世界への解像度の向上で、幼少期に見ていた絵本のようには外界は広がっていないのだと知る。歴史を学べは憎悪の連鎖があり、世界のニュースを見ればその連鎖がまだ続いていると知る。この子供から大人になる時の感覚をエレンの「がっかりした」という物語で作者は描き、読者は共鳴するのだ。

 『ベルセルク』のガッツとグリフィスも作者の光と影だ。どちらが完全に光で、一方が完全に影ということではない。それらは混ざり合い、変化する。ガッツは最初生きる為に剣を振るっている。グリフィスは夢の為に戦っている。月並みな言い方になるが、誰もが生きる為に働き、でも夢も持っているものだ。そして仲間や愛する者ができると、彼らの為にも生きたくなる。これらは全て作者の中にある光と影だろう。そして読者にも同じ光と影があるので、ファンタジーだが人の真実を見出せるのだ。

 さて、ポリコレ作品がなぜつまらないかという話に戻ると、ポリコレ要素を付与されたキャラクターは、作者の光と影を分け与えられた存在ではないからだ。これは戦時中などのプロパガンダ作品がつまらない理由と同じであり、あるいはメッセージ性ありきの作品がひどい出来になる原因と同様だ。

 ポリコレにしろ、プロパガンダにしろ、それは作者の外部にあるものである。ファンタジーは現実にはないもので溢れているが、作者の内面と乖離してはいけない。
 例えば、太った不細工を主人公に起用する作者も、ルッキズムのない世界で生きているわけではない。それは現実に先行している。現実にルッキズムがあるのに、ルッキズムのない作品世界を描いたら、それは作者の内面の光と影ではなくなってしまう。もし作者の心の中に太った不細工がいるのならば、そこにもまた光と影があるはずだ。決して何の陰影もなくただそこに自然といるはずがない。ならばそれを描かなければならない。しかも聞きかじった苦悩や葛藤ではいけない。先ほども述べたが、影とは自分では直視しがたい己の面だ。ポリコレは自らの被害者性に酔う性質があるので、ことさらにファンタジーと相性が悪い。元来、己の被害者性を発見するのは容易いが、己の加害者性を直視するのは困難だ。だがファンタジーでは光と影の両方を描かねばならない。
 己の影を見る覚悟がない臆病者がポリコレを好む。己の影を見ず、他者を啓蒙したいという浅薄な虚栄心でいっぱいの者達よ、真実の泉であるファンタジーに足を踏み入れてはいけない。


※1 『夜の言葉 ファンタジー・SF論』アーシュラ・K.ル=グウィン(2006.5.16)訳 山田和子 千葉薫 青木由紀子 室住信子 小池美佐子 深町眞理子 岩波書店 p92

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