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視覚芸術としての「文字で書かれた作品」(文字について・05)

 前回の「続・小説にあって物語にはないもの(文字について・04)」では、マルセル・プルースト作『失われた時を求めて』の井上究一郎訳を例に取り、文学の長い歴史においては新しいジャンルである小説が極端な形で現れているさまを見ました。

 とてつもなく長いだけでなく入り組んでもいるプルーストの文章は、作品が活字を組んで印刷されることを前提として、作者が何度も原稿をいじりながら書かれたものです。

 もとが口伝の産物であり主に写本という形で伝わっていた、かつての物語ではありえない書き方がなされていたと言えます。

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 なお、この国には『源氏物語』があるではないか、という声が聞こえてきそうですけど、不勉強なために『源氏物語』についてはここで語ることができません。

 お恥ずかしい話なのですが、私は日本の古典文学に不案内なのです。そもそも古文と漢文が読めません。勉強はしているのですけど、遅々として進まないのです。

 古文の勉強で手引きとして使用している藤井貞和著『古典の読み方』(講談社学術文庫)に、よく読みかえす箇所があります。

『竹取物語』でも、極端なちがいではないにしろ二種類あるし、『源氏物語』では、青表紙あおびょうし本系統と、河内かわち本系統と、それからそのどちらにもはいらないと見られる陽明ようめい文庫本その他とに分かれる。
 だから「作品はどこにあるか」という問いは、けっしてふざけた問いなのでなく、古典文学の場合、どうしても出てくる。もしほんとうに原本があったとしたら、それはすでに現在、失われていることだろう。だから原本を中心にして「作品」を考えると、「作品」は目の前に置かれているどころか、目の前にない何ものかだ、ということになる。
(pp.29-30・太文字は引用者による)

 作品ではなく「作品」と表記されていることに注目しないではいられません。ここでは「作品」が自明なものではなくなっているのです。引用文の前後に五ページにわたり、古典文学をめぐっての「作品はどこにあるのか」というスリリングな問題が議論されています。

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 今回は、小説ではなく詩を例に挙げます。

 紹介したいのは、ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé・1842-1898)というフランスの詩人による「Un Coup de dés」(1897)という詩です。日本では骰子一擲とうしいってきと訳されたこともありますが、 「サイコロの一振り」ぐらいの意味なのだそうです。

 最初にお断りしますが、私はこの詩をフランス語でも英訳でも日本語訳でも、読んだとは言えません。理解できないのです。「見ただけ」というのが正直なところです。

 そもそも私は詩歌が苦手でぜんぜん詳しくありません。勉強中です。きわめて散文的な人間なのです。ここでは無理をせずに、自分が書けることだけを書いてみます。

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 以下の写真は、この作品の印刷物です。

  次は同じ作品の手書きの原稿です。

 上の写真についてのポスト(ツイート)の文に「1897」という数字が見えるように、1897年(亡くなる前年)に書かれ、同年に雑誌に掲載され、没後の1917年に決定稿が単行本として刊行されたそうです。以下のサイトにも写真がありますが、さらに詳しい時期が記されています。

 いずれにせよ、初めて活字になったのが1897年ですから、その年にこれだけ斬新で、前衛的とも言えるレイアウトというか、タイポグラフィックなデザインの詩をものしたことに驚かないわけにはいきません。

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 上にリンクのある「書物の夢 夢の書物」という記事――私にとって愛着のある記事です――でも書きましたが、なんとステファヌ・マラルメに扮した俳優が出てくるフィルムの動画を、以前に見つけたことがあるので以下に紹介します。

 動画の24:28あたりから、 活字になった『Un Coup de dés(骰子一擲)』が出てきます。その斬新なレイアウトに注目してください。そこを見るだけでも、かまいません。

 なお、0:23以降に俳優の背後に見える壁に掛かった絵は、エドゥアール・マネ作のマラルメの肖像画らしいです。うろ覚えで恐縮ですが、蓮實重彥の『ゴダール マネ フーコー』(青土社)で、このフィルムについて触れられていた記憶があります。間違っていましたら、お詫び申しあげます。

 これもうろ覚えで申し訳ないのですけど、この著作の中で、マラルメの肖像写真は現在でも見ることができるが、マラルメの声は誰にも聞けないという意味のことが書かれていた記憶があります。ひょっとすると「偽の記憶」(古井由吉がよく使った言葉なのですけど最近これが多くて困っています)かもしれません。

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 今でこそ、こうしたレイアウトやデザインの詩は決して珍しいものではありませんが、かつて「先駆的」とか「前衛的」とか「画期的」と呼ばれたものは、現在の視点から見ると「普通」に見えたり、「ありふれている」という印象を与えることがよくあるようです。

 たとえば、ビートルズや、ジャン=リュック・ゴダールや、アンディ・ウォーホルの作品が、現在の若い世代から見て、あるいは聞いて「新しい」と感じられないとすれば、それこそが、今挙げた作者たちの先駆性の証左であり、偉大さだと言えるかもしれません。

 どんな新しいものも「ありふれ」化するのがアートや商品の世界の常であるということでしょうか。

 いずれにせよ、どのような作品も、それを鑑賞するさいには時間的な経緯(文脈)の中で鑑賞する必要があるようですが、これは私が最も苦手とする作業なのです。緻密さが要求されるからでしょう。

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 話をステファヌ・マラルメの詩に戻しますが、上で見たいわゆる斬新な詩の書き方と印刷でのデザインは、現在では小説でもよく見かけるものになっています。

 印刷術の進歩や、コンピュータを使用してのデジタルな文字と文字列の処理の普及によって、さらに「新しい」ものが次々と出現しているようです。

 現在はネット上でおびただしい数の文学作品を読むことができます。有名無名とか、プロアマという区別を無視しての話です。

 私が注目しているのは、詩歌です。ここで言う詩歌とは、短歌、俳句、自由律、詩、ポエムなど、さまざまな呼称のある作品すべてを指すものだと考えてください。

 詩歌の書かれ方(ネット上では表示のされ方と言うべきなのかもしれません)の斬新さには目を見張るものがあります。

 レイアウトや、フォントの選択や、日本語であればルビや約物の使用、そして大きな問題として縦書きか横書きかの選択があります。どれもが、視覚的な要素として立ち現れていることを看過することはできません。

 現代、そして、とりわけ現在の詩歌は視覚芸術だと私は考えています。

 note でもさまざまな詩歌の投稿があり、私はフォロワーさんたちの作品を読んだり見たりして楽しんでいます。

 上で述べたように私は詩歌が苦手なので、勉強させてもらっていると言うべきかもしれません。文字の書き方という点で、学ぶべきものが多いのです。

 なお、視覚芸術としての「文字で書かれた作品」という考えは、詩だけでなく、これまで小説を対象にして何度か記事にしてきました。

 以下は、小説を視覚芸術として読んだ実践例の記事です。こうした読みに関心のある方は、ぜひご覧ください。私がまだ元気のあったころに書いたものです。

 また、これくらい長い記事を書いてみたいものです。

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