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繰り返しとしての「禁じられた遊び」

 ルネ・クレマン『禁じられた遊び』(1952年)を観返した。あまりにも有名な反戦映画だ。

 最近手に入れた中古のクラッシックギターであの有名なテーマ曲を練習し始めたのをきっかけに再び観たくなったのだ。

 あまりにも有名である故、通俗名曲とも言われてしまうこともあるが、至極美しい曲であることに違いない。

 前半部分は単一のアルペジオの繰り返しと主旋律で何となくは弾けることができると知り(あくまで何となく)、あの美しい一小節目を自分の指で弾き出せたときの感激からマスターを挑んでいる。

※ナルシソ・イエペス による「愛のロマンス」のギター独奏


 映画は幼い頃テレビのロードショーではじめて観た。

 主人公ポーレットの両親が上空から機関銃で撃たれるシーンが本当に恐ろしく悲しかった。

 ポーレットが『ミッシェル!ミッシェル!』とか細い声をあげながら駅の雑踏に消えていくラストシーンは、この映画を観た人の多くが感じたようにこの幼気な少女の歩む後の人生を案じ、長い間鬱々とした気持ちが消えなかった。

 幼少期、わたしは少しくせ毛のロングヘアーで洋裁をする母が好んで手作りしたヨーロッパ風のワンピースをよく着せられていたこともあり、ポーレットほどの可愛らしさはなかったものの、彼女と自分を重ねて映画を観ていた。

 孤児となったポーレットを甲斐甲斐しく世話し、愛を与えるミッシェルとという存在はいつも優しくしてくれた3歳年上の兄と重なり、無垢な愛で結ばれた2人の別れに心が引き裂かれるような思いになった。

 この映画から約70年経った今、インターネットのSNSから即時に流れてくるウクライナやガザの情景は映画をはるかに超えた地獄だ。

 怖いとか悲しいとかいう次元を超え、これを眼前にただただ戦慄し、言葉を失い、心が壊れそうになってしまうから、画面を閉じてしまうことも最近は多い。

 ここにはどれだけ多くのポーレットがいて、いや、ポーレットをはるかに超える過酷な状態にいる子どもたちがいるのか。

 戦争が始まるまで、全世界のほとんどがこれらの地で起きていることに無関心だった。

 安全な場所で、反戦を訴え、哀愁に浸ってギターの弦をはじいている自分がいる。

 インターネットやテレビで流れないようなもっと悍ましいことが現地では起きているのだろう。

 戦禍の悲劇の本当の悍ましさは映像には残されず、記憶されず、他人事として忘却され、人々は悲劇を繰り返していくのか。

 もし自分が戦禍の当事者であったなら、今この時起きている惨状を止めることができず沈黙する世界を憎まずにいられるだろうか。



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