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美しいという感情を、「素のまま」受容できる、人間の心の自由ー美しいという感情の源泉ー

だいぶ前に富山に行ってきた。富山には美術館のような『芸術』が集中している施設がたくさんあった。

街並みも綺麗でのどかで、その土地からどこか懐かしさと、凛々と湧き立つ生命力を感じた。旅の最後に富山県美術館によってきた。

その時の企画展の名前は、『TADのベスト版 コレクション+(プラス)―あなたならどう見る?―』


自分が美しいと感じる絵を「どう見る」のか?ー秩序と無秩序の配合比率ー

人は、どんな絵を見た時に『美しい』と感じるのだろう?

この世に存在する『絵』を分類しようとしたら、無数の切り口によって数え切れないほどのジャンルが出現するそのため、『どんな絵が美しいか?』という問い自体の抽象度が高すぎる。

しかし僕はこの展示に行って思ったことがある。

『僕が好きな絵は無秩序な絵』かもしれない。

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例えばこんな作品があった。パッとみ適当に絵の具を撒き散らしたような絵で
僕にも描けそうな気がしてくる。(気がしてくるだけで、絶対に描けません。)

でもこうも思う。「この絵は絶妙な無秩序と秩序の絶妙なバランスの上に成り立っていて、僕がもし真似して書いても『無秩序』の要素が増えすぎてまさにただの落書きになるのではないか?」

だとするとこの作品から僕が感じる美しさは、『バランス感のある秩序と無秩序の配合比率』からくるのだろうか?

ずっと眺めているとこんな視点で考えることもできる。

『色が重ねて塗ってある。下の層の色が完全に乾き切る前に上から色を落としているから、各層の間の相互作用や、水のような流れを感じる。黒・紫・赤・黄色がそれぞれ混ざり合うことで生まれる濁った色が、この絵の面積のうちに占める割合も、これも適切なバランスの上で成り立っているのかもしれない』

『この絵はもっと巨大な絵をあえて切り取ったモノなのかもしれない。
だとするとこの一枚の絵から無限に広がる平面が想像できる。それを三次元に拡張しても、面白そうだ』

『赤色はなんだか縦横無尽に走っている。赤の層は一番上の層なのだろうか?そして右側にかけて赤色の濃さはグラデーションになっている。それにより絵の中の『白い無垢な部分』が強調され、無秩序な騒がしさの中にもなんだか静寂とした美しさも感じる』

この感情は、『今僕は美術作品を見ている』という姿勢から来るのだろうか?
そうだとすると、もし道端の壁に描かれた粗雑なスプレー缶の『作品』からもそれと似たような感想を抱かない可能性が高い。

それとも単純に、作家の職人芸とも言える絶妙なバランス感覚が、織りなすモノなのだろうか?そこに作家の魂が確かに宿っていて、僕はそれと少しではあるがコミュニケーションしているのだろうか?そうであるならば、僕はこの作品が道端の壁に描かれても、同じ美しさを感じるだろう。


作品を見る時に何よりも大切にしたい「こころもち」ー表現を受容する自由度ー

こんなことを言っては失礼なのは承知だが、悪く言えばこの作品は『子供の落書き』だとも表現できるし、趣深い『絵画』であると表現することもできる。

しかし、僕はプロの批評家ではないから、この絵の『真の価値』は、どちらに該当するのか?なんて、どうでもいいことだ。

僕には、この絵を僕に『美しい』という尊い感情を抱かせてくれる『芸術作品』と捉えてもいいし『ただの落書きだ』と捉えてもいい自由がある

何よりも大切なのは自分の心から沸き起こった『美しい』という感情を優先することなのだろう

その感情を『これは落書きに過ぎない』とか抑制する必要もないし、どうやらこの絵は『歴史的に有名な画家』が書いたという理由で、『美しいのだろう』と思い込もうとする必要もない

『僕にとって美しさとはなんだろう?優美はどこにあるのだろう?』その問いを常に抱きながら、目に見えるもの、心が感じるものから思考を楽しんでいればいい。

作者さんに作ったこともないのに「これは美しくない」なんて批評家ぶっていう必要はないしいうべきでもないけれど、「いいと思った / いいとは思わなかった。」その、純粋な素のままの感情を、これからも濁さないでいようと思う。

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最近、とんでもなく寒くて、かぜを引きました。
熱に至ることなく回復できてよかったです。
季節の変わり目、楽しみながら、体の変化にも気を配ろう
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