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vol.7 幼なじみ最後の夏~「結果」か「過程」か~

夏。晴れやかなイメージがある一方で、学生にとっては「終わり」と「始まり」が交錯する、カオスな季節でもある。

高校3年生の僕の幼なじみも例外ではない。先月、彼の野球部としての夏が終わった。

幼い頃から転勤族であった僕にとって、かねてから互いの両親が親しくしている彼は、数少ない生まれた頃からの仲だ。そんな彼が最後の夏に挑むというだけで、少し感慨深いものがあった。

迎えた2回戦。シード校相手に先発した彼は力投。降板後も、伝達係に、負傷した選手の介抱と、よくカメラに抜かれていた。守備を終えてベンチに戻る選手を真っ先に迎える姿は、比喩ではなく本当にまぶしかった。負けてしまったが、この何にも代えられない瞬間を客観的に捉えると、なんとも温かい気持ちになった。自分の子だったら大泣きしていたと思う。

…と彼の一ページを切り取りながら、ふと「過程に意味があるから」と思った自分に驚いた。

「結果」か「過程」か。よく用いられる対立構図のひとつだ。思えば高校生の時、例に漏れずスポーツに打ち込んでいた僕にとっては、完全に結果が全てだった。相対する敵(それが自分自身であっても)に勝てるという事実は何よりも自分を肯定してくれた。逆に、どんなに強い相手でも敗れることはプライドをひどく傷つけた。積み上げた練習や、あれこれと悩んだ記憶も全て、結果につながれば報われるし、そうでなければ無駄になる。「過程が大切だから」とフォローしてくれる大人には心の中で完全に刃向かっていた。

それが、どうしてこんな感情を抱くようになってしまったのだろう。あんなに野性的に結果のみを追い求めていたはずが、いまではその過程にも注意を向けるようになった。少しさみしい気もするけど、これはポジティブな変化だ。

2年半ほど前、僕は留学を終えてコロナでパニック状態だった日本に帰ってきた。帰国をゼミの教授に報告すると、こんな返信が帰ってきた。

「現地で学んだことはすぐには分からなくても、後になって振り返って、あ、あれが人生を変えたなというものが必ずあるから、大丈夫。」

事実、当時は、留学を終えて自身の何がどう変化したか、正直実感していなかった。だがこの言葉通り、時の流れに比例するように留学の記憶が鮮明によみがえった。意図的にではなく、自然と過去の1ページに思いをはせるようになった。そんなタイムスリップの蓄積が、少しずつ、自身の性格や価値観を変えていった。

就活を機に自分のライフヒストリーを洗い出した経験も大きい。これまで目を向けてこなかった辛く苦い思い出も、掘り下げることで己を構成する重要なピースが見つかることがかなりあった。

大人が言う「過程に意味がある」が少し理解できた気がした。要するに、「後になって振り返れば」歩んできた道のりに宝物を見つけられるかもよ、と副産物としての大切さを説いていたのだ。結果だけでなく過程に「も」意味がある、って言いたかったのか。

しかし、だ。この論理をひっさげて高校最後の大会で敗れた僕に会いに行ってみるとしよう。説き伏せられるとは思えない。というか、当時の僕がこの話を飲み込めると思えない。それほど、結果に対する欲望は巨大でまぶしいエネルギーを持っていた。

…それでいい。高校生なんかそんなものだ。俯瞰して新しい発見をするなんて、この先いくらでも出来る。愚直に、まっすぐに目の前の獲物にすがりつく。その姿勢が価値であり、魅力でもある。

思い通りにならなかった結果をひきずっても、それでいい。思い切り悔しがっていいし、何も手につかなくなるほど苛まれてもいい。時間が経ち環境が変われば、嫌でもその道のりを振り返ることになる。少なからず成長した未来で、過去を映し鏡にして見出すものがある。だから、そんなにあたふたするな。部活動を引退し、めまぐるしく変わる周囲の環境について行けずにいた自分に、こう言ってあげたい。

「結果」か「過程」か。野性的に目の前の栄光を追い求めるか、俯瞰して足跡をたどることでヒントを得るか。…どちらも大切にしたいだけの理由がある。でもあの頃の勢いやがめつさを考えると、「結果」への執着はかなり魅力的に映る。なんだかんだ明確で最強のステータスだ。その途中で、あるいは後々「過程」にも目を向けられるようになれば、結構強い。要は組み合わせだ。

大人の主張も少しは理解できたけど、それでも、失ってはいけない気がするマインドを再確認できた。幸か不幸か、まだ僕は「過程が大切だからさ」と胸を張って達観できるほどの人間ではないようだ。いろいろ考えたあげく、結局スタート地点に戻ってきたような、弾丸日帰り旅行みたいな夏の一コマだった。

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