私の祖母

うちのばあちゃんは鹿児島の指宿に住んでいる。

じいちゃんは板金工場を営みながらばあちゃんと農業をしていたが、私が小学生の時に亡くなった。その後もばあちゃんは農業を一人で続け、夏にはオクラ、冬にはソラマメを育て、出荷していた。そして最近、歳を理由に農業を引退した。

私は小中学生の時の夏休みは、毎年2~3週間じいちゃんとばあちゃんの家に滞在した。生粋のばあちゃんっ子だった私は常にばあちゃんの後ろをついて回った。

ばあちゃんはいつも朝と昼過ぎに畑仕事に出かけた。昔から朝に弱い私は朝五時に出かける畑仕事について行くことは難しかった。ばあちゃんにはモーニングルーティンがあった。仏壇と神棚で親戚全員がその日一日を健康で安全に過ごすことができるようにお経を唱え祈ることである。毎日自分の子供とその旦那さん、お嫁さん、そして孫の名前を唱え、今日も一日見守ってくださいと先祖と神様にお願いしていた。私もその物音で絶対に起きて、早朝の畑仕事について行こうと毎晩意気込み、ばあちゃんに起こすよう頼み込んだこともあった。しかし、熟睡により起きられるわけもなく、ばあちゃんも起こすのはかわいそうと言って、いつも一人で畑仕事にでかけた。

早朝チャレンジに失敗した私は、昼過ぎの畑仕事にはいつもついて行った。じいちゃんは大きくて重い草刈り用のクワは幼い私には危ないと言って、小さな鎌にパイプを接いで私専用の農具を作ってくれた。私はそれを喜んで、一人で黙って広い畑の草を無心で刈り続け、その農具を使いこなせるようになった。ばあちゃんは出荷する商品であるオクラの収穫も任せてくれた。私は無心で収穫し続けた。私に長所があるとすれば、根気強さだと思うのだが、それを養った経験の一つとしてこの畑仕事があるように思う。

畑の休憩時間は一つの楽しみだった。カンカン照りの中でもオクラの葉や日焼けから皮膚を守るために長袖長ズボン長靴手袋を付けての畑仕事は、とても暑く、体力を消耗した。そこでばあちゃんと私は一緒に休憩を取り、軽トラックの荷台の上でジュースやお菓子を食べた。土だらけの手で土まみれの軽トラックの上で食べるので、土の匂いが混ざったが心から美味しくて楽しかった。近々に冷えたペットボトルについた土と結露、少しすっぱいお中元の缶ジュース、冷たい緑茶の入った古い水筒、黒糖味の謎の手作り蒸しパン、土の付いたスイカ、何もかも鮮明に思い出せすことができる。

家の庭では冬のソラマメを植える準備をした。小さなトレーに土を入れてソラマメの種を並べた。ばあちゃんは手に薬品が付くからやめなと言ったが、頑固な私はばあちゃんの真似をして種植えを手伝った。しかし結局は出来がイマイチで、ばあちゃんに後で手直しされたものである。昔から少々雑な性格だったようだ。

他にも庭で、じいちゃんにトラクターを運転させてもらったことがある。アクセルを自分で踏んで重機を動かしたときの感動と光景を思い出すことができる。

畑から帰るとばあちゃんは風呂を沸かし、ご飯を作った。風呂は薪で焚く風呂だった。風呂釜は金属製で深く、お湯は非常に熱かった。シャワーの温度調整は難しくて熱湯がでるのでいつもビクビクしながらお風呂に入った。幼い頃はなんて不便な風呂なんだと文句をたれたものだった。しかし、今となってはその風呂もオール電化になってしまったと聞いて、寂しく切ない気持ちになった。板金を営むじいちゃんが床のタイルを張り、風呂釜をはめた世界に一つだけの最高のお風呂だったと今となっては思う。

そもそも家と倉庫、そして近所の叔父の家、全てがじいちゃんの板金工場の手作りだったことは、今考えるとなかなかすごいことなんじゃないかと思う。家の素材である木は、ばあちゃんの実家の山から切ってきたものだった。ふだんは手作りの家であることなんて忘れるような立派な家だが、梁などをよく見ると、加工されていない木材であることがわかり、手作りであることを実感させた。縁側近くの大きな柱には私や妹や従兄弟の身長が記録されていた。どんな家よりも暖かい家である。

ばあちゃんの料理はとても甘かった。自分の食にはあまり関心がないようだったが、私や妹が帰ったときはよく料理を作ってくれた。自分が作ったサツマイモを使った「ガネ」というお菓子、肉じゃが、麦味噌の味噌汁、納豆オクラなどである。九州独特の甘い醤油を使った料理や、鰹節を削って出汁をとった味噌汁は、他では食べられない大好きな味だ。また、新鮮な刺身をよく買ってきたり、常に冷凍庫にはハーゲンダッツを入れたりしていた。私たち孫が喜ぶことを分かっていたのである。

今思い返せば、鹿児島での濃く、優しい思い出は、私の人格を形成し、自然への姿勢を教えてくれたものだった。ばあちゃんとした畑仕事を通じて農業の厳しさや重要性を少しは理解していると思う。私は農業系の銀行に就職を決めた。できることなら働きたくないなと思ったし、精力的に就活に取り組んだとは言い難い。しかしこの企業に惹かれ、最終的に決めた理由として、鹿児島での体験は大きかったと思う。日本の農業、指宿の農業を少しでも支える力になりたいと思うし、仕事がいやになったら、指宿への愛とばあちゃんと過ごした思い出を思い出して頑張ってみよう。

ひさしぶりにばあちゃんに手紙でも書こうかな。


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