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小中高で合計8年間務めたキャプテンという役職(佐久長聖高校OB 藤原太郎インタビュー)

小中合わせて7年間キャプテンを

――野球を始めたきっかけについて教えてください
 野球を始めたのは小学1年生の時で、父が野球をやっていた影響で近くの野球チームに入りました。

――小学校と中学校ではチームが学年ごとに分かれていて、小3から中3までの7年間キャプテンを務められていたとのことですが、当時を振り返って印象に残っていることなどはありますか?
 小学3年生の時にキャプテンを始めたのは、勢いでやり始めました。それが小学6年生までやっていくうちに、中学校に上がってからもやろうという思いになりました。父もずっと私の野球を見ていた中で「主将はやり続けた方がいい」ということで、中学の時は主将をしたいと立候補してから、中学校の監督に選んでいただいて中学校でも3年間主将をやらせてもらいました。

――佐久長聖高校への進学を決めた理由を教えてください
 当時の中学校の監督と佐久長聖の監督の縁があり、そちらの方で紹介していただいて進学を決めました。自分自身も甲子園に行きたいという思いがあったので、甲子園に出ている強豪校である佐久長聖を選びました。

学年で唯一の甲子園経験メンバーとして

――甲子園を目標としていた当時の練習に対する思いなどを教えてください
 自分が1年生の時に甲子園のベンチに入れさせてもらって、その時は1打席だけ出させていただいて三球三振という悔しい結果に終わりました。それから考え方が変わって、練習の中でも1年生の時に甲子園で経験した悔しい思いを晴らしたいという思いで取り組んでいました。

――当時の印象的なエピソードなどがあれば教えてください 
 県大会を勝ち抜いて甲子園に行くことは簡単ではないので、『1つのミスが命取りになる』というチームの方針から、ノックでエラーをしたら走るなど、そういった細かい部分はチームとして厳しくやっていました。

――藤原さんは高校でもキャプテンに就任されましたが、就任当時の心境を教えてください
 中学校で主将をしていて、高校進学のときも高校で主将をしたいという思いを持ちながら高校2年生の秋までやっていました。投票という形で決めることになったのですが、当時の2年生からは全員投票してもらったということで、より責任感が増しました。
 当時甲子園を経験しているのは自分だけだったので、自分の代で甲子園に行きたいという思いもより一層強くなりました。よく責任感が強いと言われるのですが、それは自分の責任感が強いというだけではなく、そういう立場にいる以上は責任感を持ってやっていかなければならないと思ったからです。
 最高学年になって甲子園を目指すにあたって、例えばミーティングを増やしたりなど、自分で試行錯誤しながらやっていました。

上を向いて最高学年らしく堂々と

――甲子園中止の第一報を知った時はどういった感情でしたか?
 地元が奈良にあり、親元を離れて長野に行っていましたが、それは甲子園に行きたいという思いがあったからでした。その目標である甲子園がなくなったということで、発表前から「ないんじゃないかな」という思いは正直ありましたが、いざ発表されて甲子園がないということになると実感が湧いて悔しい思いがありましたが、その悔しさもどこにぶつけていいか分からず、これから何を目的に練習していけばいいのか分からず、戦意喪失というような状況でした。

――キャプテンとしてチームメイトにかけた言葉などはありましたか?
 やっぱり自分がチームの中心になっているという自覚はあったので、自分がそこで下を向いてくよくよしていたらチームも同じようになっていくと思っていました。なので、皆の前では一踏ん張りして前を向いていました。
 野球以外の寮生活なども含めて、それまで2年間やってきたことは無駄じゃないと思っていて、後輩たちに残すものもあったので、「下を向くのではなく、上を向いて最高学年らしく堂々とやっていこう」という話をしていました。

3年生52名全員がベンチ入りするためにも勝ち続けて

――各都道府県で独自大会開催の動きが進みましたが、大会の開催を聞いたときの心境を教えてください
 最初はもう戦うチャンスがないと思っていたので、戦うチャンスを与えていただいたことは凄く嬉しい気持ちでした。
 『佐久長聖』という高校名を背負っているので、勝たなければならないと思っていました。後輩たちにも遺したいものがあったので、実際に大会があると聞いたときは凄く嬉しい気持ちと感謝の気持ちがありました。

――独自大会計6試合の中で最も印象に残っている場面はありますか?
 やはり決勝戦ですね。その試合で優勝が決まるということで、チーム全員の思いが一つになりました。他の高校の中には優勝を目指すというよりは3年生で思い出を作るというという高校もあったと思いますが、自分たちは3年生だけでも絶対に優勝するという思いでした。
 ベンチの入れ替えが可能だったので、3年生52名を勝っていく毎にベンチの入れ替えで全員入れようという話があり、全員をベンチに入れるためにも勝ち続けなければなりませんでした。そういう中で最後の決勝まで行けたということで、全員が決勝戦で飯山高校を倒して優勝するために懸けてきた思いは1人1人が持っていましたし、そういう意味でも決勝戦は印象に残っています。

――決勝戦は藤原さんが初回に2アウトから出塁し、そこから得点を重ねましたが、初回の打席ではどういったことを考えていましたか?
 2アウトだったので、自分が塁に出たら何かあるんじゃないかと思っていました。後ろを打っていた4番バッターが大会を通して当たっていなかったのですが、試合前のミーティングでは「最後は彼しかいない」という話もあったので、何とかいい形で繋げたらいいなという思いで打席に入ったことを覚えています。

――決勝戦に勝利し、優勝した瞬間はどういった心境でしたか?
 甲子園がない中でも自分たちはこうやってやるんだというところを見せていきたいという思いもあって、練習も楽にすることなく例年通り厳しい練習に取り組んできました。そういう意味では、苦しい練習に耐え抜いて優勝が見えたということは達成感がありました。また優勝することで、甲子園がない中でも自分たちがやってきたことは間違いじゃなかったと証明できたので、一番いい形で終われたのではないかと思います。

――先程のお話しにもあった3年生52名が全員ベンチ入りというのは例年はできないことだと思いますが、そういった面も含めて独自大会を振り返って感じたことはありますか?
 全員ベンチに入るということは全員試合に出るチャンスがあるということなので、3年生は誰一人気を緩めることなく臨んでいたので、そういう意味では普通とは違ったけどいい大会だったと思います。

――優勝後に出身の野球チームにも訪問されたとのことですが、優勝後の出来事で印象に残っていることはありますか?
 学校に戻ってからの歓迎がすごくて、普段は野球部との関わりの少ない先生方にも「おめでとう」と言っていただきましたし、野球部以外の生徒の方からも凄く応援していただきました。そういったことは優勝したからこそ経験できたことであって、地元の方々や中学時代のチームメイトからもお祝いの言葉をいただき、改めて多くの人に支えられているということを感じました。

野球ができる喜びを噛みしめて

――この「あの夏を取り戻せ」というプロジェクトについて聞いたときはどう思いましたか?
 甲子園球場で野球ができなかった悔しさというか残念な気持ちがあったので、そういうチャンスがあると聞いた時は凄く嬉しかったです。甲子園球場じゃなくても、あの時のメンバーとまた一緒に野球ができるチャンスがあるということは凄くありがたく感じました。

――当時のチームメイトの皆さんはどういった反応でしたか?
 「是非やりたい!」という1人1人の声が挙がったので、自分たちもできることがあれば協力させてもらって、開催につなげていきたいという話をしていました。

――このプロジェクトでの目標について教えてください
 もし試合があるなら、それは勝負事なので勝ちにこだわってやっていきたいのですが、高校時代のメンバーと野球ができる機会は次にいつあるか分かりませんし、もう同じメンバーが集まることは二度とないかもしれないので、そういう時間を噛みしめて楽しく野球ができればと思います。

――最後に応援してくださってる方々へ意気込みをお願いします
 今回のプロジェクトを通して、改めて色々な方々に支えられて僕たちは野球ができていたのだと感じました。これからもたくさんの方々に協力していただいてこのプロジェクトは完成すると思います。ご協力よろしくお願いします。
 自分たちは与えられた環境でベストを尽くして、野球ができる喜びを噛みしめながらプレーします。
 頑張ります!


プロジェクト公式サイト:https://www.re2020.jp/
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