全国に勇気や希望、笑顔を届けられるプロジェクトに(倉吉東高校OB 西垣篤志インタビュー)
野球では選ばなかった進学先
――野球を始めたきっかけについて教えてください
元々はサッカーなどの野球とは違う競技をするつもりでした。ただ小学校の時の友達が野球のクラブに入っているということで誘ってもらい、練習に参加させてもらうことが3,4回ありました。そういったことがあって、自分の方から両親に野球がしたいと伝えて、小学2年生のときに野球チームに入団しました。
――高校を選んだ決め手は何でしたか?
倉吉東高校は県立高校で、二十数年前は野球が強かったのですが、最近は甲子園には出ていない高校でした。野球で選んだわけではなく自分の学力などを考えて進学先を決めました。
驚きが一番大きかったキャプテン就任
――ここからは高校に入学してからのお話に移っていきたいと思います。高校時代に掲げられていた目標について教えてください
高校に入った時は、野球部の目標が『甲子園での1勝』でした。25年前に甲子園に出場した時は1勝を挙げることができなかったということで、甲子園で1勝することを代々目標に掲げてきていて、自分たちも甲子園での1勝を目標に練習に取り組んできました。
――甲子園での1勝を目標としていた当時の練習に対する心構えなどについて教えてください
自分が1年生の時は先輩におんぶにだっこというような形で練習して大会を迎えましたが、先輩方が抜けて自分たちが新チームになった時に、春の選抜を見据えて秋の大会に挑みました。21世紀枠の県代表まではいったのですが、中国代表になることはできませんでした。
もう甲子園に出られるのは夏しかないということで、腹をくくって冬のトレーニングを重ねたり、春の県大会で勝って中国大会に出るということを目標に、日々地道な練習などを重ねてきました。
――甲子園に向けて練習していた当時の印象に残るエピソードなどはありましたか?
冬の練習の時に、自分たちの真剣さが足りないとコーチやマネージャーから見られていました。ある日の練習の終わりにマネージャーから手紙を読んでいただき、「私は甲子園に行きたい。真剣にやっていないとは言わないが、もっと真剣さが欲しい」という旨のメッセージをいただいて、そこでハッとしました。
それからは皆の目の色が変わり、同じ県の中に選抜当確の高校があるのに今のままでは夏もその高校に負けるということで、朝練の時間を増やしたり、放課後の練習でも意識を変えるといったことに取り組みました。
――西垣さんはキャプテンを務められていたということで、就任当時の思い出などはありますか?
自分は正直キャプテンをやると思っていなくて、周りの人も「もしかしたらあるかもしれないが、違う人がやると思う」と思っていました。キャプテンを決める日になり、先輩方と監督さんと自分の代と後輩が投票して決める形でした。
監督さんにキャプテンと副キャプテンになる3人が呼ばれて、自分は副キャプテンなんだろうなと思っていたら、自分がキャプテンでした。その時は自分でやっていけるのかなという気持ちと、先輩方や監督さんが投票してくれたなら自分が頑張ろうという気持ちでした。正直驚きが一番大きかったです。
甲子園中止でも後世に語り継がれるチームに
――甲子園中止の第一報を知った時はどういった感情でしたか?
正直あまり実感が湧かなかったです。コロナウイルスが蔓延していて一斉休校や春の大会が中止ということで、もしかしたらできないかもしれないという気持ちはありましたが、甲子園中止が報道されたときは部員と一緒に見ていたのですが、本当なのかなという気持ちや戸惑いがあり、今後に対する不安がとても大きくなりました。
――そうした中でチームメイトと話したことはありましたか?
これからどうなるのかという不安のぶつけ合いなどがあり、夏の大会がなかったら練習する意味があるのだろうかというような話もしました。独自大会が決まってからは、「甲子園がなかったけど、優勝したチームがあるんだぞ」と後世に語り継がれるようなチームになろうということを監督さんが仰って、そこを目標に頑張っていきました。
逆転やタイブレークでの勝利で勢いづいての優勝
――今独自大会の話が挙がりましたが、大会の開催を聞いたときの心境を教えてください
夏の甲子園が中止になるという報道が出た時に、独自大会も同様に中止になると報道されていましたが、高野連の方から「甲子園はないが独自大会はある」という発表があり、最初に思ったのは感謝でした。
独自大会もなかったら感謝を表現する場所も与えられなかったと思うのですが、高野連の方を中心にたくさんの方々の支えがあって最後の独自大会を開いていただいて、監督さんや保護者の方々、学校の先生に3年間の集大成を披露できる場所を与えてくださって本当に感謝しかないです。
――独自大会の中で印象に残っている試合はありますか?
やはり初戦の倉吉総合産業戦が印象に残っています。今まで同じ中部地区でリーグ戦や練習試合をしてきて負けたことはなかったのですが、夏の大会初戦で当たって9回まで負けていて、何とか同点に追いつきました。タイブレークに入り3度同点に追いついたのですが、満塁ホームランを打たれて「終わったな……」と思いました。しかしその裏に繋いでつないで最後に逆転したという試合で、それが一番印象に残っています。
――今逆転というお話がありましたが、決勝戦の鳥取城北戦でも5回まで負けていて、6回に西垣さんのヒットから逆転劇につながったと思います。その決勝戦に関してのお話を教えてください
決勝戦の鳥取城北高校さんは秋の大会でも優勝しましたし、6月に練習試合が解禁された際も対戦していて10-0の7回コールド負けで、いい印象がありませんでした。
ただ独自大会は初戦から逆転やタイブレークで勝ち進んでおり、その勢いと自信で乗り切った試合だと思っています。最初に2点を先制されたものの、自分たちの中では焦りはなくて、この調子なら相手を打ち崩せるし、このまま勝てるという自信は皆が持っていたと思います。
――優勝した瞬間はどういったお気持ちでしたか?
本当だったら甲子園だったんだろうなという気持ちも正直あったのですが、元々甲子園がない状態で独自大会を開いていただいて、その独自大会をやり切った達成感があって清々しい気持ちで終えられた大会でした。
――優勝後の学校での優勝報告会で、西垣さんは「甲子園での1勝は次の世代が必ずやってくれると思っている」というメッセージを残されたと思いますが、優勝してから抱いた後輩への思いなどはありましたか?
自分たちが優勝して、それでも甲子園に届かなかったということで、後輩たちにはチームの目標である『甲子園での1勝』を託したという意味の言葉でもありますし、自分たちの1個下2個下の代の夏の大会を同期と見に行ったりもしました。自分たちが応援されていたその分、後輩たちを応援してやろうという気持ちが今はあります。
コロナという荒波を乗り越えた仲間と野球を
――この「あの夏を取り戻せ」というプロジェクトについて聞いたときはどう思いましたか?
もう一度甲子園で試合ができるチャンスが巡ってきたということで、そういう機会があるのなら是非参加したいという気持ちになりました。チームメイトにもすぐLINEをして、投票をしてもらいました。
大学生になって、当時優勝したけど甲子園がなかったということは思い出の1つになっていたんですけど、8月にそういうプロジェクトがあるという話を聞いて、もう一度ダメ元でも挑戦したいという思いになりました。
――チームメイトにもLINEしたということですが、その時の反応はどうでしたか?
何人かは同じNHKの放送を見ていて「甲子園でできるならすぐ参加しよう」という話になりました。夏の甲子園がなくなった当時も他の場所で試合をさせてあげようという企画があったと思うのですが、そういったものが中止になったりしたけど、できるチャンスがあるのなら是非参加したいなど、色々な声が挙がりました。
――このプロジェクトでの目標について教えてください
もちろん試合をするので勝ちたいという気持ちはあるのですが、それよりもコロナで甲子園が中止になったという荒波を乗り越えた同世代の仲間と野球ができることに感謝して、全国で見ている多くの人たちに希望や勇気を届けられたらと思います。
――最後に応援してくださってる方々へ意気込みをお願いします
2020年甲子園が中止になって、コロナという荒波を越えてきた同世代の仲間と笑顔で楽しく野球ができるように頑張ります。このプロジェクトを通して全国の皆様に勇気や希望、笑顔を届けられるプロジェクトにしたいと思います。
頑張ります!
プロジェクト公式サイト:https://www.re2020.jp/
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