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【製本記】 かえるの哲学 02 | 本づくりの中空を漂う

本をつくってばっかの日々。編集者として本を編みながら、時間を見つけては製本家として本をこしらえている。編集した本は世にでて光を浴びるが、製本した本は暗所に埋蔵するだけの習作も多く、せめてここに記録する。

プレス機から『かえるの哲学』を取りだす。2枚の板紙で挟み、折丁の背側を突きそろえる。「背」というのは、本の綴じられている側のことだ。それならば本の開く側は「腹」と呼びそうなものだが、そうではなくて、こちらは「小口(こぐち)」という。

平らにそろえた折丁の背を上にして、手締めプレスという道具に挟む。2枚の板の間隔を2本の大きなねじで調節するもので、手製本では何かと出番が多い道具の一つだ。こうしてしっかり固定して、事前に割りだしておいた6箇所に線を引く。この線が「糸かがり」のための穴となる。


近頃、糸かがりの本は少数派だ。分厚い本や辞書、絵本などには糸で綴じられたものが見られるものの、糊で接着した「無線綴じ」のほうが優勢だろう。無線綴じは糸かがりより割安で、しかもスピーディにつくれる。そしていまや、質においても目覚ましく改良が進んでいる。そんな簡単には壊れないし、柔軟性に優れたPUR糊を使ったものなら開きもいい。

それでもなお、糸でかがられた本が好きだ。気持ちよく開くのはもちろん、耐久性もある。糸のもたらすわずかな遊びが、読む人の動作の機微に寄り添うしなやかさを生む。糊で固めた本に比べて修理しやすいところもいい。本は、消費するものじゃない。傷んだら修理し、壊れたら仕立て直し、受け継いでゆくものだ。

しかし、わたしが編集者として携わった本のうち、糸で綴じられたものはごくわずかしかない。糸かがりのよさをわかっているからといって、商業出版の制作現場で「糸かがりにすべきです!」などと主張することはない。技術の進歩にあやかって、そこそこ丈夫で買いやすい価格の本を、しかるべきタイミングで発刊することを目指す。

そこまで割り切っていながら、じゃあ、わたしはどうして手で本をつくりつづけているのだろう。


本業が編集で副業が製本のわたしは(製本を「副業」だとは思ってないけど、便宜上そう説明したりする)「ものすごーく本が好きなんですね」といわれることがある。たぶん、寝ても醒めても本にどっぷり浸かっている人、に見えるのだろう。でも、わたし自身は、まったく違う二つの世界を行き来しているつもりでいる。

編集と製本はどちらも本づくりの一環だ。でも、本づくりの宇宙は果てしなく広大で、二つの距離は視点の置きどころ次第で伸び縮みする。商業出版と手製本のあいだに浮かぶわたしにとって、両者は結構遠いところに位置している。とりわけルリユールなんて、商業出版の対極、天体望遠鏡でしか見えないような遥か彼方にある。「ルリユール」とは、17〜18世紀にヨーロッパで花開いた工芸製本のことだ。いせひでこさんの絵本『ルリユールおじさん』にでてくるような手技を尽くした本づくりは、細々とではあるが絶えてはおらず、わたしもそれを学ぶ者の一人だ。

こうして両極の狭間にあえて身を置き、その中空を漂うのは、本がものすごーく好きだからというよりも、本に携わる人間として正気を保つためである、ような気がする。より速く、より多く、より新しくが求められる場所であっぷあっぷと溺れそうになりながら、じっくりとただ一冊の確かさを追いかける時間をもつことで、息つぎをしているのだ。

誰でも気軽に本が買える時代に生まれたことを、しあわせに思う。だから、いまの本づくりを否定したくはない。でも同時に、本は大切に扱うべきもので、何千部や何万部という総体ではなく、目の前の一冊一冊に価値があることを忘れたくない。

さて、線を引いた箇所にノコギリを入れる。ぎこぎこぎこ……刃がめり込むにつれ、紙粉がもこもこと現れる。本を切り刻む背徳感に満ちた行為だが、これは「目引き」という工程だ。こうすることで、すべての折丁にいっぺんに、かつ同じ位置に穴をあけられる。

あれやこれやと書いたところで、なぜ製本をするかなんて、こうして製本をしているときにはちっとも考えていない。世の喧騒からぽつんと離れたところで、指を刃先に同化させ、泡立つ紙粉に見入るのみ。本好きでも、編集者でも、わたしでもなく、ただ「本をつくる人」になっている。


●『ルリユールおじさん』いせひでこ(講談社)




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