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#12 カリスマ死後の「織田家」のその後…

皆さん歴活してますか?
歴史探偵Qです!

皆さんは、戦国の覇者と聞いたら
織田信長」と思い浮かぶ人が
多いと思います。

 そして、天下布武を掲げ
天下統一を進めていた最中…
本能寺の変」が起き…
天下統一が夢・幻となった事は学生時代
学んだ方が多いと思いますが…

 その後、信長の家臣であった
羽柴秀吉(豊臣秀吉)」が頭角を現し、
関白となり…「天下統一」を果たしました。
秀吉死後は、有力武将であった「徳川家康」が
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となり
徳川政権を樹立し、政権を安定させる為
大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼし、
徳川265年の時代が始まりますが…

 あれ?…私は思いました…
織田家が全く歴史の表舞台に
出てこなくなった事を…

 家康により滅ぼされた「豊臣家」が
歴史の表舞台から消えるのはわかりますが
織田家はなぜ、存在感が無くなったのか…

そこで、今回の報告書は…
「カリスマ死後の織田家のその後」
という事で「織田信長」という
神様?太陽?悪魔?魔王?などなど
支柱を失った織田一族がどうなっていったのか?
をご紹介していきたいと思いますので
よろしくお願いいたします。

1、信長死後の織田家ってどうなったの?

 尾張の国に生まれ、桶狭間の戦いで
戦国の世に名を轟かせ、着実に力をつけ
天下布武」を掲げ、天下統一まであと一歩の
天正10年6月2日(1582年6月21日)に織田家の
ターニングポイント「本能寺の変」がおきます。

 その後の織田家の流れを簡単に説明します。
諸説ありますが、お許し下さい。

 栄華を極めていた織田信長に落とし穴…
「本能寺の変」がおき…「カリスマ」織田信長、
「嫡男兼当主」信忠 討死しました。

 山崎の戦いが終わり、織田家の後継者を誰に
しようかと決める際に、次男:信雄、三男:信孝が
互いに織田家を率いるのは自分だと引かなかった為
領地分配と後継者問題解決するために
「清洲会議」が開かれ、豊臣秀吉主導のもと
信忠の息子「三法師」を後継者とし信雄・信孝は
名代となりました。

 その後、三法師擁する、羽柴秀吉が力を
どんどん力をつけ、織田家での影響力が増すなか
織田家での地位が低下した「柴田勝家」と
秀吉が嫌いな三男:信孝が手を組み反秀吉体制を
作るものの柴田勝家が秀吉に敗れ自害、信孝も
後ろ盾がいなくなり結局自害しました。

 勝家・信孝が死に、ますます秀吉は力をつけ
織田家を飲み込む勢いとなっていました。
それまでは秀吉と友好的であった次男;信雄
でしたが、だんだん二人の仲は悪くなり
とうとう決裂…新たなパートナーとして
「徳川家康」と手を組み、秀吉に対抗しました。
それが「小牧・長久手の戦い」です。
 しかしこの信雄…自分で戦を始め、徳川家康を
巻き込んだくせに、秀吉にビビリ、条件を飲んで
講和したことによってこの戦いは終わりました。

 この辺りから織田家の人々は歴史の表舞台から
いなくなります。

その後の、織田家の人々を個人別に端的に
ご紹介します。よろしくお願いします。

2、それぞれの人生

■長男:織田信忠

 織田信長の長男であり、嫡男
 信長から生前に家督を譲られ2代目当主として
 織田家運営を行なっていた。
 本能寺の変で父:信長が討たれたと知った
 信忠は逃げずに、二条新御所にて明智軍を
 迎え撃ち自刃した。
 この信忠の行動は…
 明智軍の強さを現してるとも、
 信忠自身の潔さが現れているとも
 言われています。
 一昔前は凡将と言われていた。
 しかし、最近の研究では織田家運営に値する
 能力と資質があったと言われています。

■次男:織田信雄

 信長の次男として生まれる。
 信長の北畠政策のため、北畠家の養子になる。
 その後、「北畠具豊」と名乗っていた。
 本能寺の変後、清洲会議にて
 織田家当主になる為、織田姓に復姓し
 結果「織田信雄」になる。
 清洲会議で当主にはなれなかったものの
 羽柴秀吉と利害関係が一致し協力体制を構築。
 「賤ヶ岳の戦い」を経て…
 信雄の邪魔者であった、「三男:信孝」と
 羽柴秀吉の邪魔者の「柴田勝家」を倒した。

 その後、織田家当主になりかけたものの…
 出世街道まっしぐらで織田家を呑み込む
 勢いの秀吉との関係が悪化
 秀吉に対抗すべく、徳川家康の接近する。
 家康は天下取りに近い秀吉に抵抗するべく
 織田家というブランドが欲しかったので
 信雄に「神輿の役割」を期待して協力し
 起こしたのが…「小牧・長久手の戦い」である。

 「小牧・長久手の戦い」に関しては今回詳しく
 触れませんが…
 結果的には引き分けになっていますが、
 両軍引き分けの原因は「織田信雄」です。
 信雄は家康と連合軍で秀吉と戦っていましたが
 秀吉の調略を受け、家康に内緒で秀吉と和睦。
 家康有利で進んでいた戦いも、織田家再興という
 大義名分が無くなったので家康も和睦し
 戦いが終わりました。

 その後の信雄は、秀吉→家康と主君を変えながら
 大和国、上野国の一部を治める5万石の大名となり
 晩年は息子達に領地を分配し、隠居。
 京都で悠々自適の生活を送っていたそうです。

■三男:織田信孝

 織田信長の三男として生まれる。
 諸説ありますが…信孝は次男の信雄よりも
 早く生まれていたが、母の身分が低かった為
 信雄の出産報告の後に、信孝の報告がされた為 
 三男の扱いになったと言われています。
 
 信孝も生まれてすぐ、信雄と同様…信長の統治政策 
 により、伊勢国神戸氏の養子となり
 その後、長島一向一揆、有岡城の戦いなどに従軍
 していました。
 その後、本能寺の変が起きた時は四国攻めの準備で
 大坂にいたものの、脱走兵が相次ぎ行動に移せず
 中国大返しで帰ってきた羽柴秀吉と合流し
 「山崎の戦い」で名ばかりの総大将となり
 明智光秀を討つものの武功は秀吉のものとなり
 不満を持ち、「清洲会議」で秀吉との関係性は
 決裂し、柴田勝家とともに反秀吉勢力を
 形成するものの、勝家が秀吉に倒され…
 信孝も秀吉の圧力に屈し切腹という結末を迎えた

■四男:羽柴秀勝

 織田信長の4男で、家臣の羽柴秀吉の養子になった。
 初陣は、秀吉の毛利攻めで「本能寺の変」が
 起きた際の「中国大返し」に同行
 山崎の戦いでは兄:信孝と共に信長弔い合戦の
 旗印として戦いに参加した。
 しかし、その後体調を崩し…
 17歳の若さで亡くなりました。

■五男:織田勝長

 信長の5男に生まれる(4男とも言われる)
 生年は不明となっています。
 美濃国遠山家へ養子に行きますが、
 これは織田・武田家両方に服属している
 遠山家に行くことで実質武田家への人質
 して送られた形になります。
 しかし、織田・武田家の関係が悪化すると
 織田家へ帰参し、長男:信忠に仕えます。
 
 その後、信忠と共に「甲州征伐」に従軍。
 旧知の間柄の武田家家臣の織田家服属に
 尽力します。
 最後の時ですが…本能寺の変の際、
 兄:信忠と共におり、2条新御所で明智軍
 相手に奮戦するものの討死しました。

■六男:織田信秀

 祖父:信秀と同じ名前となっています。
 生没年は不明と言われています。
 本能寺の変が起きたときは…
 元服前で美濃国「仏照寺」に滞在していたので
 何事もなく過ごし、その後秀吉に仕えました。
 
 信秀の小話として、ルイス・フロイスの
 「フロイス日本史」によると信秀は大坂の
 修道院にて洗礼を受け、浄土真宗から
 キリスト教へ改宗したという話が残っています。

 秀吉の元、九州遠征、朝鮮出兵に出陣し
 一万石の大名として働いていましたが
 秀吉が死ぬちょっと前に病死で亡くなった
 と言われています。

■七男:織田信高

 本能寺の変の際は、氏家行広に預けられ
 その後、養育されました。
 兄の信秀と共に 
 羽柴秀吉に仕え、2000石を領した。
 関ヶ原の戦いでは、東軍についた説、
 西軍についた説、両方ありますが…
 戦後、領地を失ったと言われているので
 西軍についた説が有力であると思われます。
 その後、織田ブランドのおかげか…
 赦免されるものの3年後に亡くなります。

■八男:織田信吉

 本能寺の変の際は母親と共に小倉におり
 難を逃れ、後に羽柴秀吉に召し出される。
 秀吉から2000石を賜る。

  
 関ヶ原の戦いでは西軍につき、大谷吉継隊と
 共に陣を張りますが、敗走。
 大谷吉継、弟:長次は討死しましたが、
 信吉は戦場の離脱に成功。
 戦後は、改易になるものの織田ブランドで
 生き残り、晩年は京都で過ごし…
 1615年に京都で亡くなりました。

■九男:織田信貞

 本能寺の変後、羽柴秀吉の馬廻りの一人となり
 1000石を与えられました。
 関ヶ原の戦いでは、西軍に与し戦後改易となる。
 後に家康に許され、召抱えられる。
 1614年からの「大坂の陣」では徳川方として参戦。
 1624年に亡くなる。享年51歳。

■十男:織田信好

 生年は不明。
 本能寺の変後は羽柴秀吉に引き取られる。
 大きくなるにつれて武将としての活躍よりも
 茶人としての活躍が目立ちだす。
 1609年に亡くなる。

■十一男:織田長次

 本能寺の変後、羽柴秀吉に引き取られる。
 その後、秀吉の馬廻りとなる。
 関ヶ原の戦いでは西軍に与し、
 兄:信吉と共に大谷軍に所属し
 東軍相手に奮戦するものの…
 大谷軍の壊滅時に信吉も討ち死した。

3、子孫について

 信長の子供11人の人生を紹介しましたが
ここでは、子孫達のお話をしたいと思います。

 子孫の中で「大名」として家が残ったのが
なんと次男:「織田信雄」の子孫だけなんです。
信雄の子孫は、改易、転封を経て…
出羽天童藩」と「丹羽柏原藩
の藩主として明治の廃藩置県まで存続しました

 大名ではないですが、子孫の家が存続している
記録があるのが何件かありまして…

・五男:勝長の子孫は加賀前田藩に600石
 仕えていた記録があります。

・七男:信高の子孫は幕臣として召し出され
 近江、安房2000石を与えられています。
 後には「高家」となり明治の時代を迎えます。
 ※「高家」とは? → 幕府における儀式や
 典礼を司る役職。忠臣蔵で有名な「吉良上野介」も
 高家旗本でした。

 また、プロスケーターで有名な「織田信成」さん
 が信高の子孫と言われて有名ですが、これといって
 証拠があるわけではなく…微妙な感じだそうです。

・九男:信貞の子孫は徳川家に仕え、高家旗本として
 存続し、分家も旗本として生き残った。

4、まとめ

 信長死後の織田家の状況を確認してもらいましたが
歴史の主役ではなくなったものの「生き残った」という
点においては勝者であったと言うべきです。

 もちろん、生き残った要因は様々あり秀吉から
家康に主君を変え一生懸命働いたと思いますが…
やはり一番は「織田ブランド」が大きいと思います。
信長死後、秀吉は後継者の正当性を示す為、織田家の
人間を自分の配下にしました。家康も関ヶ原の戦いで
自分の敵になった織田家を許し、召抱えました。

 それは、織田信長に対しての恩返しの気持ちも
少しはあったと思いますが、外交的に…
「私は織田家を召抱えることのできる人間です」
と言うアピールの部分が大きいと思います。
ですので、織田家の人間を生き残らせるメリット
あったと言うことです。

これを見て信長はどう思うのだろう。

以上
歴史調査報告完了
ありがとうございました。

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