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歴史探偵エッセイ 2024in京都③

皆さん歴活してますか?
歴史探偵Qです。

今回の記事は「新選組」の史跡を
中心に巡ったことを記事にしたいと
思います!よろしくお願いします。

お昼ご飯を食べ、英気を養った状態で
午後からは「新選組」を中心に回っています。

今回は、なぜ「新選組」に注目するのは
私が歴史好き・大河ドラマ好きになった
作品が「新選組!」でした。

香取慎吾さんの近藤勇や、山本耕二さんの
土方歳三に目を奪われた記憶があります。
高校時代の修学旅行で京都へいった際にも
新選組に関する史跡に行ったのですが…

今回はより細かいところへ行きました。

皆さんは新選組はどのくらいご存知ですか?

■新選組とは…
 江戸時代末期に幕府によって組織された
浪士隊であり、京都の治安維持に従事しました。
最初は14代将軍:家茂、上洛の際の警護を
目的として結成されたが京都到着後、
浪士隊の方向性の違いから江戸へ帰る組と
芹沢鴨・近藤勇などが京都残留組に分かれ
京都残留した組が後の新選組となります。
その後、色々あり「池田屋事件」などで
名前が有名になっていきますが江戸幕府が
衰退していくとともに新選組も
弱体化していきます。

そして鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争へ
となっていき明治新政府と旧幕府軍の
最後の戦い「箱館戦争」で新選組も降伏し
歴史の表舞台から消えていきました。

凄まじく簡単に説明してしまいました…

新選組に関しては再度詳しく記事を
書きたいと思います。

■新選組の史跡
 今回の記事の軸は「新選組」の史跡です!
京都を歩いて、新選組の足跡を辿りましたので
ご覧下さい!

①京都到着後の新選組
・八木邸+前川邸

 京都到着後の浪士隊は壬生村にある
「八木邸」、「前川邸」に屯所を置き
京都治安維持の仕事を始めた
新選組「はじまりの地」となりました。

今回は、前川邸だけ行ってきました。
一応八木邸にも行ってきたのですが…
現在、八木邸をみる際は案内人の方と一緒に回る
方法のみで、ちょっと待ち時間が長かったので
今回は遠慮しました。

そして隣にあった、前川邸を見にいきましたが
前川邸も見学は土日祝日だけとなっていました。
平日に行ってしまったので少し残念でした。

②訓練の場・憩いの場:「壬生寺」
 壬生寺は八木邸の横にあり、境内では
新選組隊士が剣術訓練などを行なっていたと
言われています。
ここで訓練を行い、力をつけていった新選組が
「池田屋事件」で名を京都中に轟かせます。

※ちなみにのお話ですが…
 壬生寺には初代局長:芹沢鴨の墓や
切腹させられた隊士の墓が建てられていますが
ほとんどが合同の墓の中に「河合耆三郎」の
墓だけ個人の墓になっている事がわかります。

河合耆三郎は新選組で勘定方を任とした隊士で
実家は裕福な米問屋と言われています。

勘定方として優秀だった河合は
突然切腹となります。

原因は今となってはわかっていません。
ある幹部隊士に金の融通を勝手に行なった説や
私用にお金を使った説などいろいろありますが
結局お金が足りず責任を取る為、切腹するか
実家に頼んでお金を補填するかという
話になりましたが…実家からお金が届かず。
ついに切腹となりました。

その後実家からお金が届いたという話もあり
その話を聞いた両親が怒り、新選組に対して
当てつけのように豪華な墓を建てたという事で
個人の墓が壬生寺に残ったという事なのです。

③絶頂の極み:「西本願寺」時代
 池田屋事件や禁門の変で活躍した
新選組を待っていたのは「朝廷・幕府・会津藩」
からの賞賛でした。

池田屋事件後、どんどん大きくなる新選組は
壬生村の八木邸・前川邸の屯所では手狭となり、
「西本願寺」に屯所の機能を移し
約2年間屯所として利用しました。

西本願寺に移転した理由は1つは
先ほども説明した通りどんどん大きくなり、
隊士が200人を超えるようになり
手狭になった理由と
もう一つは、西本願寺が敵対する長州藩と
縁が深い為、監視する理由もあったそうです。

新選組は西本願寺の境内にあった「北集会所」と
「太鼓楼」を屯所として利用してましたが…

評判は非常に悪かったそうです。

それもそのはず 
・境内で大砲や銃の訓練を行う
・死刑、切腹など人の死
・男達の集団生活なので汚い
・境内でバンバン肉を食う(宗教的問題)
・夜もうるさい
などなどお坊さんだけでなく、お西さんとして
親しまれていたので門徒さんにも迷惑を
かけていたそうです。

現代で言うと…
家の近所に大学生がたくさん住んでたら…
と思ったらイメージしやすいかと!笑

 西本願寺は観光寺院では無く、
信仰寺と言う事で基本的に拝観は無料でした。

自由に中に入れますしゆっくりと見学できます。
新選組も同じ景色を見てたかと思うと
少し感動すら覚えます。

現在、西本願寺に残っている新選組の足跡は
「太鼓楼」だけとなっていますが、西本願寺は
また行きたいと思いました。

④無料で移転した屯所:不動堂村屯所
 約2年間いた西本願寺の屯所ですが…
我慢の限界がきて移転をお願いされました。

その際に新選組が出した条件は
費用は西本願寺持ち、新選組が欲する機能が
備わっている建物を用意するでした。

非常にハードルの高い話ですが、
よっぽど嫌だったのか…
西本願寺側は即対応したそうです。

完成した不動堂村屯所は大名屋敷と
見間違うくらい立派な屯所だったそうですが…
時代は幕末、鳥羽伏見の戦いまでの6ヶ月間
と言う短い期間で引き払ったそうです。

現在は「リーガロイヤルホテル京都」の一角に
石碑があるだけとなっています。

⑤試衛館時代の仲間と分かれの地
 新選組が大きくなるにつれ、色々な思想を
持つ人間達が現れます。その代表的な人物が
「伊東甲子太郎」です。

新選組初期からの幹部で試衛館時代から
一緒にやってきた「藤堂平助」と
古くからの知り合いということもあり新選組に
参加することとなったが、1年も立たないうちに
思想の違いにより脱退することとなりました。

脱退した一派の名前が「御陵衛士」と名乗り
尊王攘夷側として活動することとなり、
結局、新選組に潰される結果となります。
それが「油小路の変」です。

その際に、伊東甲子太郎はもちろんですが
藤堂平助もここで命を落とす結果となります。

■まとめ
 京都へ来て2日目。
非常に濃い1日を過ごしました。
新選組の歴史に関してはまだまだ
あるので今後、記事にまとめたいと思います。
また、京都市だけでなく、伏見にも行きたいし
やはり、東京の日野市に行って新選組を
感じたいし絶対行かなければと思いました。

次回は、史跡祭りを行います。
歩いて、歩いて、歩きまくった
歴史探偵Qの足跡もお楽しみに!

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