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徳川家康の40代 関東への転勤編② 関東への移封

はじめに

「スキ」が累計200回を超え、また今週月曜日に私が最初に書いた記事が先週もっとも「スキ」をされた記事の1つ、と祝福コメントが出てきました(キャプチャせずに消してしまいました・・・)。noteを初めて1ヶ月になります。フォロー・すき・コメント、読んでくださっている方、いつもありがとうございます。

豊臣秀吉の北条征伐

 天下人、豊臣秀吉に従うことになった徳川家康には、秀吉の目指す天下統一そして、惣無事令を実現するため、最後の大きな課題である相模の北条氏政・氏直 父子を従属させる務めがありました。この時、西日本は九州も含め、秀吉の支配下にあり、残るは関東からの東日本だったためです。当時の北条家と徳川家の関係は、家康二女の督姫が北条氏直に嫁いでおり、婚姻関係にありました。

 家康は、北条父子に対して秀吉に臣従して兄弟衆を上洛させることを促し、応じないのであれば、同盟関係を破棄すると迫りました。これに対して北条氏は、秀吉に従属することを決め、氏政の弟である氏規が上洛し、聚楽第で秀吉への臣従を示しました。

 これにより、秀吉は関東における各大名の支配地域の確定を行いました。その中で北条家と信州真田家の係争中であった上野国沼田領の裁定が行われました。北条氏政の出仕を条件に沼田領の過半を北条家、吾妻領を真田家としました。

 しかし、北条家家臣で沼田城主の猪俣国憲が名胡桃城を攻撃し、奪い取る事件が発生します。この北条家が行った秀吉の裁定に対する違反により、秀吉は「北条征伐」の意向を示し、3月1日に京都を出陣しました。そして、20万を超える大軍に小田原城を包囲された北条氏政・氏直父子は天正18年(1590年)7月に投降し、相模北条氏は滅亡しました。

関東への移封

 天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を滅ぼしました。その戦功報償として家康に関東 への移封を打診します。家康の領土は150万石、関東移封後には240万石になり、豊臣家最大の大名となります。

 しかし、先祖代々根拠地としてきた三河をはじめ、長年にわたり苦心して治めてきた遠江・駿河を離れ、さらに北条家が長年にわたって支配してきた関東に行くことは、困難が予測されます。現代の我々でいうところの転勤でしょうか。長年、積み上げてきた仕事や担当市場を外されたような感覚かと思います。そのような中でも家康は、積極的に目の前の課題に取り組んでいきました。

 この時の家康は、秀吉の指示を受諾し、すぐさま関東に移動しています。8月1日には江戸へ入府しました。実際は、7月18日ですが、秀吉が関東の大名の領域確定を行った日が8月1日であったため、後の江戸幕府が八朔の祝賀を兼ねて8月1日としたようです。8月には、下級家臣に至るまで引っ越しが完了し、旧領は新たな大名へ引き渡されました。江戸を首府として、家康が直接管轄する「本城領」と一門や重臣らの裁量のもとに支配運営が任せられた「支城領」に分け、家臣の知行割も行いました。

 江戸に入った家康は、新しい町づくりを開始しました。当時の江戸は、水陸の要衝であり、政治拠点の一つであったようです。当時の江戸は、寒村ではなく、戦国時代の都市としてそれなりに発展していたとする説もあります。しかし、240万石の大大名の本拠地としては狭く、拡張が必要でした。そうした中で、武蔵野台地を削り、入江を埋め立てる大工事が行われていったのです。のちに江戸幕府が開かれ、「天下普請」と呼ばれる開発が行われ、またその後の発展も続き、天保8年(1837年)には人口が128万人に達し、世界最大級の都市になったのです。

関東への移封は、徳川家康49歳です。
次回、家康の40代を振り返り、まとめてみようと思います。

つづく

記事を作成する時に参考にした書籍は、以下の文献です。

小川雄・柴裕之編著,「図説 徳川家康と家臣団」,
戎光祥出版株式会社, 2022年11月
長屋良行, 「家康の10大危機, ゆいぽおと, 2023年3月
中村孝也, 「徳川家康公傳」新装版, 吉川弘文館, 2019年9月
笠谷和比古, 徳川家康, ミネルヴァ書房, 2016年12月

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