易姓革命を防いだ魔法とは? ③
「神功皇后=卑弥呼」と勘違いさせることで、卑弥呼の存在を天皇家の系図に潜り込ませることにまんまと成功した『日本書紀』。
しかし、それを信じさせる相手は唐だった筈なのに、後世の日本人まで信じてしまったという問題。
好意的に考えれば、「つい言いそびれてしまったんだろう」という解釈もできます。
現代人の我々でも、相手が自分(の地位、学歴、収入など)を実際より高く勘違いしてくれた場合、敢えてそれを正すのは勇気がいるもの。
「実はそうじゃないんです」と正直に言ってしまうと、後々気まずくなりそうで、ついそのままにーー
しかし奈良時代のエリートたちは、はじめから後世の人にも勘違いさせる(だます)つもりで意図的に「記紀」を編んだと考えます。
それを主導したのが当時の最高権力者である藤原不比等と、元明・元正の両女帝。ただし彼らが重視したのは政権の正統性とその維持で、邪馬台国などはほんの付け足し程度だったのかもしれません。
彼ら(とその後継)の優れている点は、編纂してそれで終わりではなく、アフターケアも念入りに行っていることです。
その代表が「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」。これは『日本書紀』の内容について講義・研究を行った宮中行事で、最初に行われたのが721年。『日本書紀』編纂の翌年です。
このタイミングはまさに「〈正しい〉解釈の仕方」についてのレクチャー以外には考えられません。
その次が時間があいて812年ですが、以下843、878、904、936、965年とほぼ30年おきに開かれています。この30年というのはちょうどいいスパンで、二十歳ぐらいで「講筵」を聞いた新人が、次の時には引退直前で次世代へ引き継ぐことができるわけです。
「講筵」の定期開催は、時の為政者(勝者)にとって都合の悪い歴史(敗者目線で見た歴史)が漏れ出すのを防ぐ目的があったとも考えられます。
その成果は確かにあったようで、邪馬台国について論考や記述が行われたのは、江戸中期の正徳六年(1716)に新井白石が『古史通或問』で記述したのが最初。最後の「講筵」から実に750年も後です。
これでは邪馬台国の所在地や、ヤマト王権との関係がわからなくなっても無理はありません。そして、「卑弥呼は神功皇后」もすんなりと受け入れられたのでしょう。
一方、その間敗者はどうしていたかと言えば、公式には文字として残すことはできません。代わって用いたのが口承(口伝え)です。
口承は馬鹿にできません。紀元前8世紀の古代ギリシャの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』も元は口承ですし、文字を持たないアイヌ民族も叙事詩「ユーカラ」で、数百年前の出来事を歌にして記録しています。
ヲシテといういわゆる神代文字を使った「秀真伝(ホツマツタエ)」は、偽書説が一般的ですが、『古事記』や『日本書紀』の原書だという説もあります。
この「秀真伝」が忽然と登場するのが18世紀後半の安永年間(1772~1781)。新井白石が上梓してから約60年後のことです。
これが偶然なのか、それとも口述による〈裏歴史〉を編んできた集団が、このままでは真の歴史が消し去られる危険を感じて、敢えて表に登場させたのか?
唐突ですが、そんな陰謀論的な考えも頭に浮かんできました。
(つづく)
★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、motokidsさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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