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<小説>半夏生(はんげしょう)の男② ~前田慶次米沢日記~

   二
 慶次郎が上杉家に仕官したのは豊臣秀吉の死後間もない頃で、関ヶ原の戦いの二年ほど前である。
 北の関ケ原と呼ばれた長谷堂城の合戦において、最上領に攻め入った上杉軍は関ヶ原で西軍があえなく敗れるとの報せを受け、撤退を余儀なくされた。追撃する最上軍の猛烈な攻撃により、総大将の直江兼続も一時は切腹を覚悟したほどだった。
 そのとき慶次郎は殿軍の将として獅子奮迅の働きを見せた。朱槍を手に最上勢の本陣に斬り込み、敵の武将たちを怯ませた。その勇猛果敢な戦ぶりは、上杉家の正史である『上杉家御年譜 景勝公』においても、
「敵兵ヒシト喰ヒトメテ討テ掛カルヲ 前田慶次利貞槍ヲ取テ敵兵ヲ突崩ス」
〈敵(注・最上)兵が上杉の攻撃を食い止め、逆に討ってかかるところを、前田慶次が槍を取ってその突進を突き崩した〉
 と称賛されている。
    *
 上杉家が会津百二十万石から三十万石に大きく減封されたのに伴い、慶次郎も米沢に移った。はじめは兼続の屋敷に仮寓していたが、縁あって堂森善光寺の和尚と親しくなったのをきっかけに、善光寺境内の一隅に庵を編んだ。
 米沢城から東へ一里、無苦庵と号したこの庵に住まうようになってからすでに三年が経つ。
 庵は簡素な佇まいながら、花鳥風月を愛でるのにまことに具合がよい。掃除や洗濯、風呂焚き、食事の支度など身の回りの世話は老僕の弥助ときえに任せ、中間も置いていない。

 慶次郎がこの地に居を構えると聞いて、はじめ村人たちは恐れた。噂に聞く戦場での鬼神の如き働きぶりから、鬼のような乱暴者が来ると思ったからである。
 噂はいつの間にか独り歩きし、槍で三人まとめて串刺しにしたとか、敵の大将首を刎ねたら高く舞い上がって松の枝に載ったとか、尾ひれがついてしまった。
 だが現れた慶次郎は身体こそ逞しいが、いつもにこにこ笑っている好々爺だった。
「鬼みてえなお人だと聞いてたから、おら奉公するの、おっがねぐて泣きたかっただ。でも前田さまはいっつも笑ってて、いっつも縁側で眠っとる。まるで猫みてえだ」
 縁側で眠るときの慶次郎は、鳥のさえずりや虫の羽音さえも子守唄にしている。

 この日の朝餉は麦の入った飯と小茄子の浅漬けに味噌汁だった。丸い小茄子がぷりぷりしてうまい。夕餉には塩鮭や干物、時には釣ったばかりの岩魚の塩焼きがつく。
「前田さま、これも食ってけろ」
 食事が終わると、きえが山桃を籠に入れて持ってきた。甘酸っぱい赤い実が山盛りになっている。
「おしょうしな」
 慶次郎が言うと、きえは目を丸くして、林檎のようなほっぺたが耳の後ろまで真っ赤になった。〈おしょうしな〉は、ありがとうという意味の米沢の方言である。
「やんだあ。しょうしくなる」
「なぜだ。そなたらが使う言葉ではないか」
「けんど、前田さまが言うとなんかおかしいべ」
「まあ、いいだろう」
 〈おしょうしな〉は「ありがとう」という意味だが、〈しょうしい〉は「恥ずかしい」という意味である。「笑止い」が転訛したのであろう。
 米沢に来たばかりのころ、慶次郎はその微妙な違いが分からず戸惑った。だが慣れるにつれ、味があって面白いと思うようになった。
 近ごろは積極的に土地の言葉を使うようにしている。
 きえはくりっとした目の、はきはきとして心映えのいい娘である。肝煎である太郎兵衛の親戚筋にあたる三人きょうだいの末で、今年十四になる。長兄が百姓の跡継ぎで、次兄が大工見習をしているという。

 朝餉が終わると、慶次郎は自ら茶を点てた。茶菓子はきえが持ってきた山桃である。
 ふだんの慶次郎は雑器のような茶碗でも構わず茶を喫(の)む。しかしこの日は夢のこともあり、敢えて白天目にした。
 天目茶碗は本来は天目台に載せて供される武家の茶碗である。しかし慶次郎は畳の上に置いた茶碗をそのまま手に持ち口に運んだ。夢に囚われず、作法にも縛られぬという慶次郎のささやかな意地である。
 米沢に来るにあたって、家財道具のほとんどは処分した。そんな中で茶碗だけはいくつか手放さずに持ってきた。
 そのひとつが白い天目茶碗である。京にいたころ、馴染みの茶道具屋が持ってきたもので、茶の素地に乳白色の釉薬がかかった艶のある抹茶茶碗である。てのひらに包んだときの肌ざわりが手に吸い付くようで、まことに心地がよい。
「これは前田さまがお好みなはると思うて、わざわざ取り寄せましたんや」
 京・建仁寺に近い東大路に店を構える茶道具屋は、桐箱から押し頂くように取り出して袱紗を開いた。
「織田信長さまが茶会でお使いにならはったもので、天下に二つとあらしまへん」
 聞き覚えのある話だった。白天目茶碗は、天正のはじめに織田信長が茶会で用いたのがきっかけで、多くの武将が好んで使うようになった。
 だが信長が本能寺の変で斃(たお)れると、縁起が悪いものとして敬遠されるようになった。
「信長さまから下賜されて、いっとき柴田さまが持ってはったとも聞いとります。それが巡り巡ってうちとこに来たんで、まずは天下一の傾奇者(もん)であらしゃる前田さまにお見せせなと思いまして」
 茶道具屋は皺だらけの手をもみながら、精一杯の笑みを浮かべて言った。油断のならない合図である。
 信長に柴田勝家とくれば、ともに非業の死を遂げた武将である。言うなれば不運の二つ重ね、これ以上縁起が悪いものはほかにあるまい。
 武士は縁起をかつぎ、戦で勝利するために神仏に祈るのが常だ。だからこんな不吉な茶碗に手を出そうという物好きはまずいない。
 むろん慶次郎が稀代の傾奇者であるだけでなく、風流も愛した数寄者であることを見越しての釣り口上である。
「面白い。買った」
 たまらず慶次郎の口から出た――

 酸っぱさの中にほんのり甘味がしみる山桃をほおばったあと、濃茶をたっぷり味わった。
 端正な白い茶碗に濃茶の緑が映えて、鬱々とした気分が少し晴れた。
                             (つづく)

◆<戦国きっての傾奇者>と呼ばれた前田慶次が、晩年を過ごした米沢での暮らしぶりを描いた小説です。親友である上杉家家老の直江兼続との交流や、老いてなお盛んな慶次の活躍を綴っていきます。

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