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小説で読む幕末史

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幕末はドラマよりドラマチックです。熱く生きた彼らが刻んだ歴史を楽しんでください。
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#小説

14代将軍徳川家茂の上洛(1863年)

14代将軍徳川家茂の上洛(1863年)

 幕府は追い詰められていた。和宮降嫁の時に約束していた、攘夷の決行を迫られていたからだ。

 この時、朝廷を操って攘夷決行の勅命を出させたのは、長州と土佐の藩士達である。特に、土佐勤王党のメンバーは、暗殺という手段によって、朝廷を支配していた。

 この攘夷決行の勅命に回答するため、14代将軍である徳川家茂が上洛する。実に、3代将軍徳川家光以来、230年ぶりのことである。

 余談だが、幕府は、将

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土佐勤王党(1861年)

土佐勤王党(1861年)

 時代は少し前後する。

 1861年、土佐勤王党が産声を上げる。江戸で遊学していた武市半平太(たけちはんぺいた)は、尊王攘夷思想に感銘、土佐藩を尊王攘夷思想で染め上げるために立ち上げたのだ。

 武市は、江戸3大剣術道場の1つで塾頭を務めるほどの腕を持つだけでなく、学問にも才能があった。「自分には、世の中を変える力がある」と信じていた。

 武市は、土佐に帰国すると、200名近い同志を集める。土

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和宮降嫁(1862年)

和宮降嫁(1862年)

 「桜田門外の変」の後、老中・安藤信正(のぶまさ)は、孝明天皇の妹である和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と14代将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に尽力する。

 幕府と朝廷が協力して国政にあたる体制づくりのためである。これを公武合体という。幕府は、もはや単独で国政を担うのは無理だということを悟ったのだった。

 この時、皇女和宮には、すでに婚約者がおり、彼女自身も慣れない江戸に行くことに不安を

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桜田門外の変(1860年)

桜田門外の変(1860年)

 井伊直弼が行った「安政の大獄」は、水戸藩・藩士の信念を大きく傷つけた。藩校・弘道館で学んだ彼らは、尊王攘夷思想を強く信じていた。

 尊王攘夷思想とは、天皇を敬い、外国人を打ち払うという思想である。この思想は、水戸藩士である会沢正志斎や藤田東湖によって確立され、全国に広まっていった。

 水戸藩・藩士の一部の過激派は、井伊直弼の暗殺を計画し始める。彼らは、藩を脱藩し江戸へ向かった。そして、襲撃の

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安政の大獄(1858年)

安政の大獄(1858年)

 井伊直弼(なおすけ)には、大老として「幕府の権威を取り戻す」という強い決意があった。そして、それこそが、彼に与えられた天命だと信じていた。

 当時幕府は2つの大きな問題を抱えていた。1つは、「第14代将軍を誰にするか」であり、もう1つは、「アメリカと通商条約を結ぶか」である。

 直弼は、独断によりこの2つの大きな問題を解決する。まず、彼が押していた徳川慶福(よしとみ)を第14代将軍にした。そ

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井伊直弼(なおすけ)の天命

井伊直弼(なおすけ)の天命

 井伊直弼は、彦根藩13代藩主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれた。直弼は、大した役割は与えられないだろうと達観し、「埋木舎(うもれぎのや)」と自ら名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を過ごした。直弼は、この間、茶道や禅、居合術などを極めようとした。

 そんな直弼に転機が訪れる。第14代藩主・井伊直亮(なおあき)とその養子となっていた井伊直元(なおもと)の急死である。直弼が彦根藩

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阿部正弘の憂鬱

阿部正弘の憂鬱

 「眠れない」 阿部正弘は、頭が冴えて眠れなかった。「開国すべきか?鎖国を続けるべきか?」悩んでいたのだ。

 幕閣の意見も「開国すべし」という現実派と「鎖国を守るべし」という理想派の2つに分かれた。「今の幕府に、ヨーロッパ列強と戦って勝てる力は無いのだから、ペリーの脅しを受け入れて開国するしかない」というのが現実派の意見であり、「神君・家康公が決め、また260年間守ってきた鎖国政策を変えるべきで

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天保の改革(1841-1843)

 水野忠邦は焦っていた。幕府に金がないのだ。ヨーロッパ列強に対抗するための軍備増強をしようにも、金がなければ出来ない。

 徳川家斉(11代将軍)が酷かった。贅沢が好きで、側室も40人を越えていた。そのくせ、政治には興味を示さなかった。

 天保の大飢饉もあり、皆が疲弊していた。

 水野忠邦は、質素倹約により、幕府財政の建て直しを。風紀の乱れには、贅沢の禁止や取締りの強化を。江戸周辺にある、大名

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ペリー来航(1853年)

ペリー来航(1853年)

 老中阿部正弘は焦燥していた。四隻の艦隊でやってきた、東インド艦隊司令長官であるマシュー・カルブレイス・ペリーが、こちらの指示に従わないのである。

 これまで幕府は、外国船が日本に来ると「長崎に行ってくれ」と指示し、時間を稼ぎ、長崎では、長崎奉行が彼らの開国の要求に対して「祖法に反する」と言って追い返していた。

 ペリーには、この手が通用しないのだ。幕府役人の「長崎に行け」という指示を無視する

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マシュー・カルブレイス・ペリー

マシュー・カルブレイス・ペリー

 東インド艦隊司令官であるマシュー・カルブレイス・ペリーは航海の間ずっと考えていた。「日本はどのような国なのだろうか」と。

 アメリカ大統領フィルモアから、「日本を開国せよ」という任務が与えられてから航海準備の期間が8か月しかなかった。その間、彼は3万ドルという大金を使って、日本に関する書物を買い集めた。だが、日本に関する正確な情報はわからなかった。

  もちろん「アメリカ蒸気海軍の父」と呼ば

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薪水給与令(1842)

 江戸末期、開国をせまるヨーロッパ列強が日本に来航していた。

 これに対して幕府は、「鎖国は祖法である」として頑なに開国を拒み続けた。それどころか、フェートン号事件(1808)の後は、異国船のうち払いを命じていた。

 ヨーロッパ列強に対抗するには、軍事力の強化が必要である。アヘン戦争(1840-1842)により、そう認識した幕府であったが、そのためには、金と時間が必要だった。

  そこで、「

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アヘン戦争の衝撃(1840-1842)

アヘン戦争の衝撃(1840-1842)

 「大国清が負けただと!」
 老中首座の水野忠邦は、そうつぶやくと、考え込んでしまった。
 人口3億5千万の中国の大国清が、人口1千万の国イギリスに負けたのだ。イギリスは、植民地であるインドを経由して、2万の軍隊を清に送り込んでいた。地球の裏側から戦争を仕掛けて勝利したのだった。
 
 「戦争になれば、この国は負ける。」
 水野忠邦は、賢明にもそう悟ると、次の手を考え始めた。
 人、武器、弾薬、食

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