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ヨシツグ:歴史で磨く会代表☆オンライン歴史講義開催中@フォロバ百
2021年2月27日 15:14
時代は少し前後する。 1861年、土佐勤王党が産声を上げる。江戸で遊学していた武市半平太(たけちはんぺいた)は、尊王攘夷思想に感銘、土佐藩を尊王攘夷思想で染め上げるために立ち上げたのだ。 武市は、江戸3大剣術道場の1つで塾頭を務めるほどの腕を持つだけでなく、学問にも才能があった。「自分には、世の中を変える力がある」と信じていた。 武市は、土佐に帰国すると、200名近い同志を集める。土
2021年2月11日 10:03
「桜田門外の変」の後、老中・安藤信正(のぶまさ)は、孝明天皇の妹である和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と14代将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に尽力する。 幕府と朝廷が協力して国政にあたる体制づくりのためである。これを公武合体という。幕府は、もはや単独で国政を担うのは無理だということを悟ったのだった。 この時、皇女和宮には、すでに婚約者がおり、彼女自身も慣れない江戸に行くことに不安を
2021年2月7日 11:44
井伊直弼が行った「安政の大獄」は、水戸藩・藩士の信念を大きく傷つけた。藩校・弘道館で学んだ彼らは、尊王攘夷思想を強く信じていた。 尊王攘夷思想とは、天皇を敬い、外国人を打ち払うという思想である。この思想は、水戸藩士である会沢正志斎や藤田東湖によって確立され、全国に広まっていった。 水戸藩・藩士の一部の過激派は、井伊直弼の暗殺を計画し始める。彼らは、藩を脱藩し江戸へ向かった。そして、襲撃の
2020年8月17日 08:36
水野忠邦は焦っていた。幕府に金がないのだ。ヨーロッパ列強に対抗するための軍備増強をしようにも、金がなければ出来ない。 徳川家斉(11代将軍)が酷かった。贅沢が好きで、側室も40人を越えていた。そのくせ、政治には興味を示さなかった。 天保の大飢饉もあり、皆が疲弊していた。 水野忠邦は、質素倹約により、幕府財政の建て直しを。風紀の乱れには、贅沢の禁止や取締りの強化を。江戸周辺にある、大名
2020年8月29日 19:55
老中阿部正弘は焦燥していた。四隻の艦隊でやってきた、東インド艦隊司令長官であるマシュー・カルブレイス・ペリーが、こちらの指示に従わないのである。 これまで幕府は、外国船が日本に来ると「長崎に行ってくれ」と指示し、時間を稼ぎ、長崎では、長崎奉行が彼らの開国の要求に対して「祖法に反する」と言って追い返していた。 ペリーには、この手が通用しないのだ。幕府役人の「長崎に行け」という指示を無視する
2020年8月29日 18:38
東インド艦隊司令官であるマシュー・カルブレイス・ペリーは航海の間ずっと考えていた。「日本はどのような国なのだろうか」と。 アメリカ大統領フィルモアから、「日本を開国せよ」という任務が与えられてから航海準備の期間が8か月しかなかった。その間、彼は3万ドルという大金を使って、日本に関する書物を買い集めた。だが、日本に関する正確な情報はわからなかった。 もちろん「アメリカ蒸気海軍の父」と呼ば
2020年8月16日 07:24
江戸末期、開国をせまるヨーロッパ列強が日本に来航していた。 これに対して幕府は、「鎖国は祖法である」として頑なに開国を拒み続けた。それどころか、フェートン号事件(1808)の後は、異国船のうち払いを命じていた。 ヨーロッパ列強に対抗するには、軍事力の強化が必要である。アヘン戦争(1840-1842)により、そう認識した幕府であったが、そのためには、金と時間が必要だった。 そこで、「
2020年8月15日 08:30
「大国清が負けただと!」 老中首座の水野忠邦は、そうつぶやくと、考え込んでしまった。 人口3億5千万の中国の大国清が、人口1千万の国イギリスに負けたのだ。イギリスは、植民地であるインドを経由して、2万の軍隊を清に送り込んでいた。地球の裏側から戦争を仕掛けて勝利したのだった。 「戦争になれば、この国は負ける。」 水野忠邦は、賢明にもそう悟ると、次の手を考え始めた。 人、武器、弾薬、食