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『TALK TO ME』 村上春樹の再解釈としての傑作ホラー

海辺のカフカを読んで思ったことがある。
この世界の人間はどれも優しすぎる。
もしこの中の誰かが明確な悪意を持ってカフカ少年、ナカノさんに近づいていたとしたらどのような結末となっていたのだろうか。
もし、カフカ少年が夢の中で出会った佐伯さん=仮説としての母親が悪意を持ってそれを演じていたとしたら、カフカ少年は生きてあの世界から変えることができたのだろうか。

『TALK TO ME』の  批評を主としたこの文章の始まりにいきなり『海辺のカフカ』についての感想を書いてしまい驚かれた読者も多いだろう。ホラー映画と村上春樹、似ても似つかない題材に困惑することは無理もない。しかし、冒頭でそこに触れたくなるほどにこの作品は村上春樹の作品を意識したものになっているように私は思えた。だというのに、Twitterで「TALK TO ME 村上春樹」と検索してもそれに言及している人は一人としていなかった。だから、私は『TALK TO ME』を好きだと感じた人に村上春樹を薦めるために。村上春樹を好好きな人に『TALK TO ME』という傑作映画を進めるためにここに書いていきたいと思う。
両者はその近似性において引かれあっているのだ。

傑作映画としての『TALK TO ME』

まず、大前提としてこの映画は傑作と呼んで差し支えなのないものとなっている。ホラーとしての質感の高さ、霊的なものの怖さと両軸で描かれる”自分に同情してしまった人間”の弱さ。近代コンテンツが売れるうえで主戦場とすることを強いられてしまった伏線と考察の文脈に応える伏線描写。ある意味ですっきりと終わる納得感の高いエンディング。この物語の主人公の人格への嫌悪感を除けばこの作品はどれをとってもとても高いレベルで観客を楽しませることに終始しているし、この主人公の人格に対する嫌悪感もこの物語を完成度の高いものにするために意識的に取り入れられていると言うことは疑いようもないだろう。
この作品が傑作たる所以は、これらが意図的に仕組まれたものであるといううことに集約される。
この作品はホラー映画ではあるものの、ただ観客を驚かせるということには一切重きを置いていない。確かにホラーとして驚き、恐怖させてくれる部分は少なくないが、それ以上に”人間”を描く事が強く意識されているように見える。主人公であるミアの精神の揺らぎこそがこの映画の主題であり、その揺らぎを効果的に表す手法としてホラーが選択されている。加えて、近年のホラーブームに合わせた集客手段として、戦略的にホラー映画であること選んでいる。そしてこの”人間”の揺らぎをテーマとしたドラマとホラーという手法が高いレベルでかみ合ったことによってこの映画は傑作となり得ている。ホラー映画好きからすれば、ストーリーの完成度の高い映画のように見えるし、人間ドラマを見たい人間には主人公であるミアの心のゆらぎとその行く道を楽しむことができる。そして、ホラーにも”人間”にも興味のないSNSで自身の発信を行いたい人たちにとっては、わかりやすい伏線とその回収を見せることで語りしろを与える。これら全てのマーケティング的な戦略性の高さとそれを実現しうる監督の能力の高さによってこの作品は傑作となり得ている。
監督がYouTuberであると言うのを見た時、私は正直その内容について懐疑的であったが見ているうちにそれは誤りであったと気づかされた。

村上春樹の再解釈としての『TALK TO ME』

「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
これは村上春樹の代表作『ノルウェーの森』において私が最も好きなセリフだ。
私がこの『TALK TO ME』と村上春樹とを結びつけて考えるようになったのは、映画を見ている中で何度もこのセリフが頭の中をよぎったためである。

主人公のミアはこの物語を通して常に自身に対して同情的だ。彼女は数年前に母親を自殺によって亡くし、その場にいたはずなのに助けることができなかった父親に対して不信感を抱きその存在を避けるように生活する。そして母親が健在であった頃からの友人であるジェイドの家に入り浸り、その家族の輪へと入っていく。ジェイドやその母であるスー、弟のライリーはそんなミア歓迎し、家族の一員として受け入れる。そしてその仮想家族の中でのミアは明るい友人や妹として、弟であるライリーには頼れる姉として振舞っている。しかし、ジェイドを除くその他のクラスメイトからミアはあまり好意的に見られていない。ジェイドを通してその輪の中に入ろうとパーティーに参加するも、歓迎されることはない。中心人物の青年からは「あいつは一緒にいると楽しくない」のようなことを言われてしまう。このパーティーでの描写を見た私たちは、これまでのジェイドの家での自由な楽しそうなミアを見ていた私たち視聴者はそのセリフに疑問符をつけるが、そのセリフの意味は物語が進むほどに嫌と言うほどわかってくる。

ミアは、下種なのだ。自分に同情をしている下種だ。

彼女は早くに母を亡くした自分に対して誰よりも同情している。
それ故に自分はかわいそうな存在であり、他の人とは違うと自分を特別視しているし、心のそこで周りから気を使われるべきだと思っている。
そして彼女自身はその自分の溢れ出る態度に自覚的ではない。
青年のミアに対する評価は、ミアという人物を知れば知るほどに、強く印象付けられる。ミアからあふれ出る自身に対する同情的な姿勢に対して、青年と同様に少なくない嫌悪感を抱かせられる。
もちろん若くして母を失ったということは同情されて然るべきであるとは思うが、彼女はその自分の精神の弱さを向き合うことをせずに、その弱さを自撫の道具としてしまっている。他者からの受容を受けるための言い訳として利用するようになってしまっている。そういった彼女の人間としての卑しい弱さが幽霊に付け込まれるきっかけとなる。
彼女はパーティーの中で、自分を受け入れてもらうために、降霊のための依り代として自分の体を分けあたす。この物語において事件のきっかけはこの降霊儀式だ。ロウソクをつけ、人の手を模したモニュメントの腕をつかみ交言う「TALK TO ME」そうすることで依り代となった人間の前に幽霊が現れる。そして「LET ME IN」と許可をすることでその幽霊が体に入ることを許可をする。行っている事自体は古くから行われているこっくりさん、ヴィジャ盤のような人ならざる者との対話とその降霊術だ。この物語における独特な部分は、この90秒という期限付きの降霊術をドラックによるトリップの代替手段として描いているところにある。降霊を行っている90秒の間、自分の体を幽霊に預けることで、彼女たちはトリップする。この他では味わえない高揚感、降霊を行っている人たちを発信することでSNS上で注目を集めることができる。そうした中毒症状で辞められなくなっていった先でのミアの高齢だった。彼女は決められた降霊時間である90秒を越えてしまう。
ミアが初めての降霊を行った後日、次はジェイド・ライリーの家でトリップ・パーティーを開き何度も何度もそれを実行する。一見して後遺症の見えないその疑似的なトリップ体験に取りつかれ、やめられなくなる。そしてそんな姿を見ていたまだ15歳かそこらのライリー自身も行いたいと言い出すのだ。
姉であるジェイドはもちろんそれを否定する。いくら後遺症が見えないとはいえ、18歳にも満たない少年がそれを行うには危険すぎる。しかし、一人の大人として認められたい少年であるライリーは何度もお願いをする。実の姉であるジェイドは呆れ、拒絶としての意味を持った退室を行う。するとライリーの要求の対象は、意味合いとしての姉であるミアへと向かう。その部屋にいる他の男たちはこれに対しなんの意見も行わない。それは家族の問題であるからだ。ジェイドは家族としてそれを拒絶した。本物の家族であるが故にそれによって弟に嫌われたとしても今後の関係性が変わることはない。だから、自分のためではなく弟のためにそれを許さなかったのだ。しかし。いい姉でありたいミアは違う。懇願するライリーに対し、90秒ではなく50秒の制限付きでそれを許してしまう。この時の彼女はライリーのためにそれを許したのではない。彼との関係性を継続し、弟の願いを叶えるいい姉でありたいという自己中心的な欲求でそれを許してしまったのだ。本当に弟を想い愛する姉であればジェイドと同様にそれを拒絶すべきであったことは言うまでもないだろう。しかし、彼女にはそれができなかった。
ライリーは初めての降霊を行う。そして目の前にはミアの死んだ母が現れ体の中に入ってくる。ライリーの中に入ったミアの母的なものは「ミー」「ミー」と呼ぶ。そしてミアに対して申し訳なかったと泣く。ミアはその呼び方からそれが自身の母であることに気づき、その存在ともっと話したくなる。自分で条件として決めた50秒を越えても「まって、これは私のお母さんなの」とそれを止める。彼女にとってルールや倫理というものは、自身への同情の下では破られてしかるべきものであるという意識があるということがこのシーンで印象付けられる。彼女は50秒を越えて母と母と話そうとするも、ライリーは次第に壊れていく。時間とともに自身の命を落とそうと自傷行為を繰り返し。自身の目玉をくりぬき、何度も何度も机や壁に頭を打ち付ける。実の姉であるジェイドは自分の体を持ってその自傷行為を止めさせる。しかし、その原因を作った意味合いとしての「良い姉」であるはずのミアはその場を後にしてしまう。そうしてミアとライリーは呪われていく。

この物語の主軸はミアとライリーだ。ミアは死んだはずの母親の幻影に操られ、悪手を打ち続け、実の父さえ手にかける。一方で自傷によって意識を失ったライリーはその夢の世界の中で悪霊によって飲み込まれそうになっていく。

この世界は、村上春樹の『海辺のカフカ』の世界に酷似している。しかし、登場するものは徹底的に逆で悪意を孕んでいる。『海辺のカフカ』の世界はに存在する人々は誰もが自身の善性によって動いている。主人公であるカフカ少年は、幼少の頃に母親を失うものの、自身の強さだけを拠り所として他者に対してその喪失を振りかざすことはしない。徹底的に父的な強さを持つことでそこに対応する。そんなカフカ少年に対し、意味合いとしての姉であるさくらや、大島さん、佐伯さんは善意を持って彼の強さによって隠そうとする弱さに向き合う。亡霊となった幼少の佐伯さんですらそこに悪意は孕んでいない。ただ愛の記憶だけで動きカフカ少年に正しい道を歩むように支援する。彼が家族の喪失から真に自立できるようになるために。もう一人の主人公であるナカタさんも、自分の中の失ったものを便宜的に受け入れ、自身の氏名のために行動し、それを星野さんやカーネルサンダースは支援する。この物語にとっての唯一の悪意はジョニー・ウォーカーでである。しかしこの物語では悪意は長く成立しえないのだ。カフカ少年の父親でありジョニー・ウォーカーであり、唯一の悪意はカフカ少年の夢によって、ナカタさんの手によって殺されてしまう。そして、カフカ少年は、夢の世界で父を殺し、母と交わり、姉を犯し大人となった。その過程で彼は夢の世界=死の世界(リンボ的なもの)に囚われそうになるが、佐伯さんの少女時代の亡霊の善意によって救われる。しかし、カフカ少年の夢の遂行者として生かされたナカタさんはこのタイミングで自身の役割を全うし死に至る。

これとは対照的にミアはカフカ少年のように母を失ってしまっているが、その喪失から逃げる手段として強くなることではなく、弱くなることを選択してしまっている。彼女は自分に同情してしまったカフカ少年なのだ。

弱さを選択してしまったミアには、その弱さに付け込もうとする悪意が近寄ってくる。その悪意こそが彼女の母親の亡霊なのだ。カフカ少年の母親の亡霊としての佐伯さんは、彼と寝ることによって彼を大人にし、縛るものを解き放ち、死へと至る道を回避させた。しかし、悪意を持った母親の亡霊は、ミアへの甘い言葉によって彼女を母を必要とする少女へと戻し、その依存によって死を誘引した。
カフカ少年は姉となるさくらを犯すことによってもまた成熟を果たす。しかしミアは兄的なダニエルとの性行為を失敗する。悪意を持った夢はミアは兄と交わることによって彼女が成熟する事を許さない。
また、彼女ははは親の亡霊の見せる夢によって実の父に手を掛ける。カフカ少年が夢の中で父を殺すように、ミアは夢の中で父を殺そうとする。しかし、その夢はすんでのところで消えてしまう。悪意を持った亡霊は夢ではなく、現実のミアの手と意識をもってして父を殺させようとする。しかし、この世界では悪意では人を殺せない。夢の中でしか人を殺すことができないのだ。『海辺のカフカ』の世界がそうであったように。だから直前で夢から覚めてしまった彼女は父親殺しを失敗する。兄を犯すことと同様に失敗する。

母に子であることを許されて、兄を犯すことを失敗し、父を殺すことを失敗する。このすべてが逆になってしまった世界でミアは生きる意味を失ってしまう。夢の世界で母の子として生きること以外にその存在を許してくれるものはなくなってしまう。だから彼女は最後、カフカ少年が選ばなかったもう一つの可能性として、夢の世界に残ることとなったのだ。
他方、本来であればナカタさんの立場に位置付けられたであろうライリーは、ミアの代わりにミアの父を手に掛けることもなかったし、夢の世界から帰ってきて生きながらえることができたのだ。

私はこの物語を見て、村上春樹の、『海辺のカフカ』の世界の再解釈であると強く思った。
世界はそのままに、カフカ少年が自分の弱さを認め他者に愛される道具としてしまう現代的な人物に、大島さん、佐伯さんやその亡霊が善意ではなく悪意でカフカ少年に近づきその弱さをエンパワメントするのではなく自身のために利用するというIFストーリー的な再解釈を行ったのだ。2002年に作られたこの性善説的なストーリーを2023年という現代に性悪説的に再解釈したストーリーなのだ。


なぜ、亡霊は悪意に支配されてしまったのか

『海辺のカフカ』ではカフカ少年を大人の男たらしめる亡霊は、なぜこの映画ではミアを子どもへと閉じ込め、その命を奪ってしまったのだろうか。

 「『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』は、10代の若者が自分の感情をどう対処したら良いのか分からず葛藤し、そのはけ口を見つけようとして混乱する姿を真摯に描いています。僕たちがこの作品をデビュー作にしたいと思ったのは、これが現在の僕たちの世界に最も近い物語であり、それを表現したいと思ったからです」

https://gaga.ne.jp/talktome/about.html

この映画の脚本・監督を行ったダニー・フィリッポウとマイケル・フィリッポウはこのように語る。村上春樹が少年の成長を描いたということと彼らが描こうとしてるものは同じように見える。しかしそれによって描かれるものは全く逆のものとなっている。これはなぜか。私は、『海辺のカフカ』がかかれた2002年と、本作が制作された2020年代の若者を取り囲む環境について着目する。

悪意と常に接続された時代。SNS的な悪意が表出し、それがモラルでは抑えることができず存在を許されている時代こそが今私たちを取り囲んでいる。
SNSをやっていれば誰もが顔も知らない他者の悪意に晒される。それは多くの場合自分に向けられたものではないが、そういった負の感情の公に対する表出がモラルの上で忌避されてい時代は今は昔となった。
少なくとも、SNS以前の世界では、公に対する個人の取るべきスタンスはモラルを持った自立であったはずだ。
カフカ少年は、他者に依存しない大人の男=父性をもつ人間であろうとする。結果的に母的な存在を犯すことで達成することとなるが、これはカフカ少年が自分の不幸を他者や環境のせいにせず、それを自分のものとして受け入れて前へ進もうとするモラルを持っていたからこそ成り立っていた。
カフカ少年がそうであるように、村上春樹の小説において父であろうとする男性は往々にして一人でのそれを失敗し、母的な存在に体を預けることによって初めて、それを達成している(それが母的な存在のゆりかごの中だとしても)。そして戦後に生まれ、学生運動を経験した村上は、少なからずはこの前時代的なモラルを持ち合わせた父性に心を惹かれている。

これは悪く言えば戦後的なマチズモをベースとしてた弱さに目を向けない父性を基調とした前時代的な思考であると切り捨てることができるだろう。他方で、このモラルこそがカフカ少年を強くし、他者の善意を受け入れ、生きる理由を与えてくれていたことは論を俟たないだろう。
村上だけでなく私たちにとって、否応なしに自立して生きなければならない大人にとって、モラルとは唯一の拠り所だったはずだ。自分の弱さに負け、一人の大人として自立することを諦めそうになった時、それを許してくれないのは自分の中のモラルであった。

しかし、SNSを中心としたネットワークと共感の時代にこのモラルは崩壊している。弱さを肯定し、強者の倫理よりも弱者のルサンチマンがアテンションを稼ぎ、他者の同情を始めとした自身に対する感情を集めることができることが裏ワザ的に見つかってしまった現代において、弱さこそが個人の立場を逆接的に強化する。モラルを持ち自立することは辛く孤独な闘いでありながら、効率よく共感もアテンションも集めることができない”無駄”なものとなったのだ。私を含む今の若者はこうした旧時代のモラルを拠り所としない。それはダサいことだし、古臭くて自分には合わないと切り捨てる。故に弱さを自身を優位にするタグの一種として持ち続け、自分に対する不利益を全て他者や環境のせいだと公に発表して他者に対する悪意を振りまく。そしてその自身の弱さから生まれた悪意を亡霊によって利用されてしまう。

監督は舞台挨拶の中で、この作品を「自分の悪意の犠牲になる話」とまとめている。ミアはまさに自身の悪意を殺し克服し大人となることができず、その悪意に飲み込まれることによって、母の子どもとしてその生涯をおえてしまっている。
その意味で、村上春樹が『海辺のカフカ』で「モラルを持つことで悪意を克服し大人になる」という一面を上げているのに対し、この映画『TALK TO ME』は「モラルを持つことができず悪意に飲まれ子どもに留まることを選択する」と、同じモチーフを逆側の視点からこれを描いている作品であることがわかる。ホラー映画というモチーフを用いながらこの過程を緻密に描いた『TALK TO ME』は改めて傑作以外の何物でもないと言えるだろう。


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