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月ノ美兎のB面にようこそ!/その清々しい堕落の方へ


先日、月ノさんのノートについて、痛いnoteを書いてしまった。勉強用にまとめている部分があるので、noteは大概読み返すのだが、これだけはまだ直視できていない。読み直すとめっちゃ謝りたくなる。

しかし、そこで事件は起きた。まず、学問のコミュニティの方々にnoteが褒められ、続きを書くように促されたこと。そしてあろうことか、続きを書こうか迷っていた時に、月ノさんのノートの担当である角川の編集さんにツイートを捕捉されてしまったのだ。恐ろしい世界線だ…。

今回のnoteは、前回のような脱線だらけの文章を控えて、適当に家にあった本やネットの記事を引きつつ月ノさんの日記や映像について、学問の言葉を使って語ってみる。どこにでもある、思いついたことだけを並べた、うっかり机の上に置き忘れたノートだ。小説やゲームのネタバレも大量にあることはご了承ください。歌詞の引用も多いので、こちらを確認しております。

またこの文章を書くにあたり、関西の方で実際にゲーム研究をやっている大学院の友達に助けを借りました。そして3年前ですが、黒嵜想さんら批評家集団である『アーギュメンツ』誌のイベントにも強く影響を受けました。重ねて、お礼申し上げます。


はじめに


わたしには、月ノ美兎さんを「天才」と呼びたくない欲望がある。それは一方では間違いなく、嫉妬に近い感情があるだろう。でももう一つだいじな理由がある。

みなさん、楽しそうな場所を見つけたらおすそわけをしてください。一緒に人生やりましょう…… 一緒に人生をね、神ゲーにしようかな、と思います……        2020/03/01 専門家の元で食事を4日間抜いてみた

これは、あまり人に物を頼むことがうまくない彼女が、珍しくファンの側に呼びかけた言葉だ。彼女は明らかに、一緒にこの人生ゲームをプレイしようよと言っている。誘っているのだ。そして、「人生を神ゲーにしよう」という言葉が言えるためには、前提として何等か「クソゲー」さを感じていることが必要になる。

彼女の不思議さに「天才」という言葉を使う気持ちは痛いほどわかる。でも、この人に「天才」という言葉を使ってしまうと、それはまるで彼女を特別扱いして、置いてけぼりにしてしまうような気がしてならないのだ。

批評を書くというのは、自分の妄想や夢を疑いながら書くことだと言ったのは確か小林秀雄だった。まさかそのバトンが、「まるでわたしにしか書けない文章があるような気がする」形で渡ってくるとは思わなかった。これ自体も妄想かもね。でも、キモく見えても、それが「痛さ」を伴うとしても、自分なりのやり方で、やってみるしかない。これが月ノ美兎から、私が最初に学んだことでした。(まあ、我ながらなぜこんな下ネタいいまくってる女の子にこんな真面目になっちゃったこと…)

※今回の文章では、かなり学術的にも込み入った用語を使っています。難易度の関係もあり、後々改訂される可能性があります。また、どうしても人の心を探るような所は存在するので、調子が悪くなったら無理して読まれないでください。

できるだけ、用いるたとえは平易なもの、音楽などの言及も有名でここ数年のものにとどめています。この文章では、特に星野源さんとササキトモコさんが重要人物で、読み進める指標になります。星野源については、月ノさんと直接の関係はありませんが、ファンの方に共通点を見出している方が多く、実際に意味のある言及だと考えています。


それでは、月ノ美兎のB面にようこそ。


声が聞こえる文章 ーー自由間接話法とメタプレシス 


竜騎士07の作品について、批評家の東浩紀氏は次のように述べている。(なんと東氏は『ひぐらしのなく頃に』の最終数ページという、流石に重大すぎるネタバレ部分を引用しているので、そこは避けつつ引用します)

引用箇所の文章は、確かに感情を剥き出しで表現しているかもしれないが、いったいそれがだれの感情なのか、そもそもだれがだれにむかって語っているのか、きわめて曖昧なまま記されている。したがってこの文章は、一般の小説の三人称客観描写のように、虚構と現実の境界を画定させる役割を果たさない。                                                       その曖昧さは、むしろ語り手と読者の距離を妙に近づけてしまう。ここで竜騎士は「私たち」と「あなた」を区別せずに使っており、(中略)語り手の感情はいつのまにか読者の感想とすりかえられ、それはさらに○○(ネタバレ防止)の感情とすりかえられていく。結果として、読者は、この文章と、そしてここまでに配置されたメタ物語的な装置の組み合わせによって、ふたたび一種の錯覚を受け取ることになる。『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(2007)

この特徴は、いくつか竜騎士作品の表現などを見て来た限り、彼の作品の特徴と言っていいとおもう。

一般的に一人称や三人称はかなり強固に固定化されたものとして考えられがちである。しかし、特に90年代に流行したやるドラや選択肢式のゲームは、「キャラクターの絵」「声優の声」「ボタンのクリック(触覚)」によって、人称を確定させることもできるため、「文章だけ見ると」こうした脱落が発生しやすい。これは、人に台詞を言わせる映画や演劇の脚本特有の現象でもある。

さて、『月ノさんのノート』の場合、この主語の脱落や、感情のすり替えが無視ができないレベルで多いのである。そもそも、月ノさんが冒頭部分で、「なんでもノート」が自分以外の人に読まれることを想定して書くのだと一人問答して勝手に納得している女子高生のような書き方をしているのだから。

わたくしは、わたくし自身とあなたに向けて、これからの文章を書くことにします。              『月ノさんのノート』(まえがき)

これは、ひとつのゲームの開始の号令である。ただし「だれに」仕掛けたかはよくわからない(あなたなんて何人でもいるし、わたくしも何人もいる)。シャフトみたいな山の旅館にぶちこまれてたんでしょ…?だから、このノートは、ガチで独り言をぶつぶつ空に向けて女子高生が書いているだけと読んでもいい。日記なんだから。

このように、読者と筆者が共通認識を持たなければ読めないような書き方を「メタプレシス」ともいう。この書法は、同時にいくつもの読まれ方のパターンをしっかり想定しなければ、意味不明になってしまう

たとえば、この部分。

当たり前だけど真っ暗。                                         頭が少し出てしまうため、首をものすごく右に傾けた。かなり態勢が辛い。「せーの!」という合図とともに、持ち上げられている感覚がした。「底抜かさないように気をつけて!」「軽い!結構大丈夫!」とのスタッフさんのやり取り。自分にできることは、持ち上げる人たちを信じてうずくまることだけだ。1段ずつ、阿佐々谷ロフトの階段を登っていく感触が伝わってくる。                     「月ノ美兎は箱の中」

段ボール箱の中に美兎さんが入っていくシーンだが、ここではわかりやすく自由間接話法が使われている。「真っ暗」という言葉は、「真っ暗だった」という事実(三人称)と「真っ暗と私は言った」と自分自身が言う(一人称)の間の語法である。

加えて「せーの!」という合図にも、人称はふられていないことによって「どこからか聞こえてくる声」を感じさせることに成功している。さらに、「史的現在」と呼ばれる過去の出来事を語る時に現在時制で語るような所も踏んでいる(うずくまることだけだ)。さらに階段を登っているのは運んでいるスタッフであり、その感触を月ノさんは「伝導」して受け取っている。

自由間接話法は、文学技術上の一大トピックであり、特に哲学者のジル・ドゥルーズがその重要性を説いていた。誰のものかわからない形で言葉を書くことによって、ある人が考えていなかった考えや情動まで浮かび上がらせることができる。ただし、それが行き過ぎると、まるで人の妄想を自分のもののように偽って書いたかのような、思わせぶりなだけで独りよがりな文章にもなる。我田引水の一種なのだ。ただ、それを感じさせないのは、月ノさんのバランス感覚が優れているからに他ならない。

また近年、純文学の世界では「移人称」と呼ばれる、「私」「僕」といった一人称で語られていた事象がいつの間にか三人称で語られてしまうような現象が、取りざたされている。おそらく『月ノさんのノート』もこの系譜に入る

この「移人称」は、①「描写」の衰退の現れであり、小説の新しい価値の算出を損なうものである(産出論・渡部直己氏)②小説家は、インタビューなどでわかるように「私がこうみえたからこう書く」という再現的な側面があり、書き直すことによる新しさがある(再現論・佐々木敦氏)という二つの論が現れた。ここでは後者、佐々木さんの意見が参考になるだろう。

写真機にも、ムービーカメラにも、撮影者が存在する。いや、レンズを除いている誰かがいなくても、シャッターボタンが、録画スイッチが押されさえすれば、映像は自動的に写し取られる。しかしそれでも、シャッターボタンを、録画スイッチを押す者は必要なわけだ。このとき、カメラという機械=テクノロジーと、撮影者もしくは撮影を可能にする何者か、という切り離し可能な二者/二体のワンセットがあるとして、ここでいう「三人称客観描写」と「私小説」の違いを映画に当て嵌めてみると、前者はカメラ=撮影者も、そしてその映画の監督も、画面の絶対的な外部に在るという設定のことであり、後者の場合は、カメラ=撮影者=監督が画面の内部に位置しているということになる。逆にいえば、ある意味で「私小説」の「私」とは、カメラが受肉化=人間化したもの、なのではないか。つまりそれはテクノロジーそのものなのだ。だが、このテクノロジーには意識と意志がある。佐々木敦『新しい小説のために』(p443)

面白くなってきた。忘れないようにしたいが月ノ美兎は「映画研究部」だった。そして彼女は映画撮影の際、「出来上がったカットを直視するのが嫌」で「自分の思想を他の人間に語らせているような映像」を見るのがヤバいと述べていた。その形式へのこだわりや、自らの考えを他者へ吹き込みすぎない、そのやさしさが「月ノさんのノートを読む人」に対して向けられていたなら…?書き方はおのずと細かい配慮の入ったものに変わってくるはずである。それが、彼女の優しい「演出」だ。

月ノ美兎はバーチャルユーチューバーである。それゆえ、この日記だけでは彼女の存在は読み解けないだろう。ここは佐々木氏が引用した、移人称の代表である芥川賞作家・山下澄人氏の文章を置いて、一度章を変えてみよう。

おぼえていることはもちろんある。だから「はい」といった。面倒くさいからではない。面倒くさいなんて思うはずがない。しかし、「はい」といっておきながら、おぼえているとぼくがいう、わたしがいう、それはどれも聞き手の期待するものとは違う。ぼくの、わたしのいう「はい」のすべては、そのときからだの中を走るカミナリみたいなもので、そこには何のつなぎ目も、辻褄も、一切ない。だからだ。ときどきぼくが、わたしがおぼえているというそれを、人が、誰かが、「それはおぼえているといわない」というのは。間違えているというのは。そんなことはなかったというのは、うそだというのは。意味がわからないというのは。山下澄人『壁抜けの谷』・孫引き



ゲーム性 ーー五感と技術をフル活用してジャンルを行き来する

自由間接話法や移人称は特にゲームや映画など五感を操るものに特に多い。ピタゴラスイッチで有名な佐藤雅彦氏は、五感を使って本を読むことに特化した本をこのように作っていた。まさに「分かり方を分からせる」本である。アルゴリズム体操は、まさに物が動いていく「仕組み」を分からせる。さらにゲームブックは、こうした楽しみを発生させる装置であろう。

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(自宅から出てきたゲームブック。学校の図書館を思い出す)

東浩紀は、『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、それまでの小説観を覆すべく、小説の分析に「環境分析」の導入を勧めている。

自然主義的な読解は、作家がある主題を表現するためにある物語を制作し、そしてその効果は作品内で完結していると考える。しかし、環境分析的な読解は、作家がその物語に意図的にこめた主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を作品に呼び込んでくると考える。そして、そのような複合的な視点の導入によって、自然主義的には単なるファンタジーで、荒唐無稽な幻想にすぎないキャラクター小説のなかに、まったく別のメッセージを読み取ることが可能になる、というのが筆者の考えだ。(p157)

月ノ美兎の日記は、ある人には「月ノ美兎」というキャラの書いた、文脈がわからないVtuberファン向け小説に見えるかもしれない(月ノ美兎はペンネームですらない「キャラクター」のはずなのだ)。一方でファンの人であれば、これは月ノ美兎という「人」「実況者」が書いた日記と素直に受け入れるかもしれない。さらにロシア文学に特徴的な、内的独白で書かれている日記文学の伝統は、本来は読まれないはずのものが読まれてしまう可能性に開かれている所にある。

そして月ノ美兎というサブカルオタクさんは、メタい読みに異常に秀でているのだ。というか、メタ読みが先に来てしまう人なのだろう。メタいということは、そこに一定の「批評性」を見ることもできる。ただ、さらに面倒なのは、これを言っているのがバーチャルユーチューバー(画面の中の人)ということでもある。

「くせえ~^^ このネコ匂うぞ~」「これスチル回収あるぞ猫耳スチル」「ちょっと待って、そろそろ(このキャラ、地獄的展開に)落とされそうだぞ」https://youtu.be/Mwxdhth4ghM?t=2655 (幻想牢獄のカレイドスコープ 44:15~)

そして、ほかならぬ彼女の好きなササキトモコさんとserani pojiは、こうしたゲームの世界観をよく知っていた(後述する)。



月ノ:「ディープなサブカルチャーに詳しい」みたいなことを言っていただくと毎回申し訳ない気持ちになるんですけど、配信って自分の知っていることや、自分に都合のいいコメントだけ拾えばいいんで、全知全能に見せかけるのが簡単なんですよね…すみません、「涼宮ハルヒの憂鬱を全話見たことがなかった、ディープなサブカルチャーに詳しいVtuber」です。(What's in!インタビュー)

東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で問題にしたのは、現代の小説やゲームは、「死」を完全に描くことができるかということである。ゲームのキャラクターは確かに、HPが亡くなれば「死ぬ」。しかしその一方で、プレイヤーである僕らは、セーブデータを読み込めばキャラクターが復活することを「メタ的に」知っている。そして、作品外に飛び出した「キャラクター」が、例えばエヴァンゲリオンはその物語の悲劇性と対照的にとんでもないタイアップを繰り返している。



このように、「キャラクター」は本人の物語を無視して、「テキストから離れていってしまう」。ここで強引だが、星野源の言葉を借りよう。

僕もゲームやアニメ,音楽や演劇から人生を学んだ。ぜんぶ人が作ったモノだから。「創造」で言うなら「襷(たすき)抱いた 遊びを繰り返し」って部分ですかね。そもそも僕の人生には先祖がいて,彼らががんばってくれたから,今の自分がいる。命の襷を繋いでくれたことに敬意を払っています。僕も襷を持っているし,任天堂もそう,lainもそう,桃井はるこさんもそう。現代でモノづくりをしている人たちは,たとえ自覚がなくとも誰かの襷を受け取っている。そして次の誰かに襷を渡していくんです。

ここでの先祖は当然、血縁上の「先祖」に限らない。


かえみと・星野源の本歌取り ーーオタクの遊び心


問題です。



星野源の『夢の外へ』。この曲は何のゲームをオマージュしているでしょうか?





こたえは「ゆめにっき」である。ゆめにっきは、「自分の見た夢を日記につけることで明晰夢がみやすくなる」夢日記をモチーフに、「まどつき」と呼ばれる少女がひたすら夢の中をいったりきたりするゲームである。

星野源も、確かに扉をいったり来たりするPVを作っている。しかしこれはただ単純な二次創作ではない。この2つのコンテンツを要約してみた。下を見てほしい。

ゆめつきという少女が、おどろおどろしい夢の世界を、扉をいったりきたりしながら進み、最後はベランダから落ちて死んでしまうゲーム
星野源が、放送作家寺崎さんが「夢の中で由紀さおりとデートできました」とか謎ののろけ話をしてきたのを聞いて、「夢や虚構から大事なものを現実に連れてくる」というテーマを持ち、(ゆめにっきを参考に)扉をいったりきたりするPV

ここで星野源は、「」というモチーフのみを換骨奪胎(かんこつだったい)することにより、友達の放送作家寺崎さんののろけ話を、なんと全く関係ないゆめつきという少女を救う歌に聞こえるようにつなげることに成功している。ゆめつきそのものを明確に言及せずに、である。これは、東浩紀氏の『錯覚』を人為的に作った例として、批評的に重要である。さらに今も星野源は『創造』『ドラえもん』と様々なPVでこの『遠い言及』の手法を使っている。

これと同じことを月ノさんはよくやるのだ。この後もこうしたおもしろいレファレンスが出てくるから、楽しみにしてほしい。そして私は月ノさんが『面白い』と感じている時は、この遠回しの言及やフラグをゲーム内などで発見したときが多いなと思っている。ここでは一例を出そう。

『月ノさんのノート』の「ライン」の章の末尾には、とつぜんペットボトルが出てくる。このペットボトルは、炎上の話をしていた文脈の通り読むと『不燃物』か『月ノ美兎は嘘をついている(からフェイクである)』と読める。

しかし、月ノさんのファンなら、先日のにじFesで披露したDaokoのBANG!の中にある『ペットボトル』を思い浮かべるだろう。この場合、『みんなそもそもプラスチックで偽物だ』という意味が付加される。さらに、ある人は、生放送で彼女が敬愛するササキトモコさんの、月ノさんが一番好きだと言ったアルバムのジャケットを思い出すだろう。これが、星野源と月ノ美兎に共通する「言葉」による祖先の敬い方だろう。彼らの言葉は、過去のしるしを受けていると言ってもいいかもしれない。

星野さん:そう言ってもらえるとうれしいです。さきほども話したように,自分は幅広くアニメやゲーム知識があるわけじゃないんです。むしろオタクだったらこれ知ってなきゃみたいなものはあんまり知らない。だから自分で自分のことをアニメやゲームオタクだとは言えないんです。
 ただ,一度好きになった作品に関しては,その作者の来歴や影響を受けたモノまで知りたくなってしまう性質なんです。そういったことを調べては,どんどん深く掘り下げていくのを楽しんでいました。           梶田:オタクの定義は曖昧なものですが……重要なのは知識の有無ではなく,“好き”という感情に本気で向き合える人間のことを指すんだと,自分は考えています。その観点から見れば,間違いなく星野さんは生え抜きのオタクですよ。                               星野さん:ありがとう。僕が小さいころはインターネットもなかったし,雑誌の文通に手を出せるタイプでもなくて。ただ好きになって,ひとりで盛り上がって,ひとりで考察する。周囲と共有できない以上,そうするしかなかったんです。それを知らない人に「僕はこれが好き」と主張することもできない。僕と他者との間には常に深い川が流れていて,向こう岸に渡れなかった。 インタビュー                 

おそらく、この部分に月ノ美兎と星野源の共通点が現れている。人に言われたからではなく、自分が「好き」と思えるものに骨身にしみるまで夢中になり、自らの作品で応答すること。



実はにじさんじの中にひとり、この方法をはっきり取り入れた人がいる。月ノさんのソウルフレンド、樋口楓さんである。

            

樋口楓さんが、パワプロのことしか頭になかった時に書き上げたこの歌詞も、「野球を知っているか」「ホークスや阪神タイガースの選手を知っているか」「パワプロを知っているか」「にじさんじ甲子園での月ノ美兎・ましろ・しずりん・ギバラを知っているか」「何も知らないか」でとんでもない数の読み取り方が出来る。色々遊んでみよう。


こうした、他の物語や文脈をうまく違う文脈に活かすアイデア産出法は主に「パターン・ランゲージ」という名前で、建築や心理学の世界で使われている方法に共通点を見出せる。例えば、「ペットボトル」という言葉は、それ自体として、「不燃物」という意味があった。しかしそれをDAOKOさんやササキトモコさんはそれぞれの仕方で解釈しなおしていた。ここでペットボトルは同時に3つの抽象的な意味を持つ(「不燃物」であり、「みんな偽物であることの象徴」であり、「記憶をためるための入れもの」である)。

これを月ノ美兎という一人の人物が、ノートにある文脈の中で書き込むことで、読者側の立場や行動によって文章が何層にも分厚い意味をもつようになるのだ。

さらに、下記のアフォーダンスのマンガもこの章の参考になるだろう。



ササキトモコ ーーウサギ!ウサギ!またウサギ!

近頃、町でウサギが増殖してる
まだ誰も気づいていないけど
多分あたしのウサギの落書きのせい
魔法のノートの隅に描いちゃったから!
あたしのせい…                    Serani Poji/Rabbit Panic

Serani Pojiのアルバムたちを聞いてみたら、月ノ美兎やってんねえ!!!と何回も跳ねるほど驚いた。

月ノ美兎はササキトモコさんの世界観をなぞるかのように、バーチャルユーチューバーとして活動したかのようにみえる。これは後から来た人間から見るとそう見えるだけかもしれない。しかし、いくら何でもそうとしか見えない歌詞が多すぎる。特にRabbit Panicというこの曲は、文字通りノートから飛び出しあらゆる所に増殖してしまう「ウサギ」というキャラクターを描いている。

ササキトモコさんの代表曲を歌うキャラには、明らかに兎のイメージに引っ張られているキャラがいる。Ra*bits「メルティキッチン」、デレマス島村卯月、安部奈々さんたちの「アタシポンコツアンドロイド」「キラッ!満開スマイル」。ササキトモコさんは月ノさんのことを依頼が来るまで細かくは知らなかったという。ならばササキトモコさんを「一人の人間として好き」と述べた月ノ美兎側から、このウサギたちの系譜に入ろうとした可能性は0ではない。

ウサギは、年中発情している動物である。食物を確認する時は、視覚よりも嗅覚を頼りにする。もうひとつ。委員長は視覚を遮断していると「目は閉じているのに、その奥に『第2の目』のようなものを感じることがある」と述べていた(睡眠導入台本)。

ササキトモコさんは、秘密のトワレ作曲の際、ライアル・ワトソンの「ヤコブソン器官」に関する書籍を参考にしていた。ヤコブソン器官はほぼ全ての脊椎動物に共通して存在する「フェロモン受容体」である。この器官自体は、人間から退化してしまった。しかし、第三の目やヤコブソン器官は、どちらもおでこ周辺に存在している。「人間からは退化したと考えられているが、いまだにその活動は確認されていない器官」である。

月ノさんの話からは、こうした人間ならざる第六感の感覚を感じざるを得ない。それは、おそらくササキトモコさんの膨大な読書量から受け継がれたものなのである。

ところで、ササキさんの歌詞で出てきた「魔法のノート」についても、思想的に語ることができる。東浩紀は、東京大学の石田英敬教授との共著『新記号論』でフロイトの『不思議メモ帳についての覚書』というテキストを、現代の情報技術との関連で紹介している。

東:いまipadの話が出ましたが、ぼくは最近コンピュータのインターフェイスについて考えています。インターフェイスというのは、ニ〇世紀のなかばになるまでまったく存在しなかった平面なんです。映画のスクリーンとは決定的に構造がちがう。スクリーンは窓だけど、インターフェイスは窓じゃない。スクリーンは絵画の遠近法の延長で理解できるけど、インターフェイスはそれでは理解できない。スクリーンのむこうには(カメラで撮影され映写機で投影された)風景があるけれど、インターフェイスのむこうにはなにもない。あるとすれば、それはもはや視覚の比喩では捉えられないデータベースです。しかもiPadになると、そこに接触が加わります。インタラクティブなインターフェイス、つまりタッチパネルですね。タッチパネルの上になにかを書き込むと、その痕跡の記録が平面の「奥」にあるデータベースに保存される。そしてそれが呼び出されることでまた痕跡が甦る。                   じつはフロイトの「不思議メモ帳についての覚書」は、いま言ったようなタッチパネルの特徴を話題にしている論文なんです。

その後の草稿などで、フロイトは記憶を「水」のように流れ、記憶の底にたまっていくものだとして例えている。石田氏はこれをドゥアンヌの『数覚とは何か?』という本で次のように解説している。

石田:この本では、たとえば1と6のどちらが大きいかを判断するよりも、5と6のどちらが大きいかを判断するほうが長くかかるという実験結果が紹介されています。ドゥアンヌは、ぼくたちの数の感覚が、もし記号的に、デジタルにつくられているのなら、こういう結果にならないという。「1と6」も「5と6」も同じ時間で入っている水の量を判断するように数を感覚しており、だからこそ近い数字の大小を判断するのに遠い数字の大小を判断するよりも苦労すると考えるほかない。そう主張するんです。

ご存じの通り、月ノさんは「水属性」である。そして、月面には「月の水」が大量にあることが、近年の調査で分かってきた。

「実は、月にウサギがいない」というのはみんな承知だと思う。しかし、それに加えて月のウサギに見える部分は「存在していない」。それは巨大隕石が衝突したくぼみであり、その模様すら影の陰影でしかない。



囚人 ーーループ物の世界を生きるぼくら?


…おそらく、エルビス・プレスリーが腰を振ったせいで、一部美兎さんのファンたちは囚人になったのである。なんでか知らんけど。

「メリーゴーラウンドジェイルハウス」は、どうやっても夜の8時に恋人とキスをするシーンを繰り返してしまう、多幸症的なループ物の世界観を表している。また、Serani Pojiが生まれる原因となったセガのゲーム「ルーマニア#203」自体、原案はササキトモコさんである。

東:たとえば今はすべて自己決定、自己責任という話になっていて、人生の選択肢はすべて「大学に入る/入らない」とゲームのように進めることができるようになっている。昔は八百屋に生まれたらだいたい八百屋になる、それだけの話だったのが、今では長い人生のなか、ちょっとずつ異なる選択肢が多数用意されていて、毎回毎回選択肢を選びながら人生設計をするようになってきていて、したがってみなが常に「ほかの人生」の可能性を考えるようになってきている。そういう状況全体を描くのにループ物は適している。(中略)裏返して言えば、「ちょっとちがう家に生まれていれば、違う人生だっただろう」とか「あそこで別の大学のクラスだったら別の人生だっただろう」とかみなが考えるこの時代においては、一人の人間、一人の主人公が固有の大きな運命に導かれてひとつの結末に向かってひた走るという構造の話の方が共感を集めにくいのではないか。 東浩紀編『思想地図 vol.4 想像力』

では、なんでもありのバーチャル世界に「リーダー」として現れようとした彼女は、何者なのだろう。



小休止 ーー催眠とその倫理


私が素晴らしいなと感じるのは、月ノ美兎が人を操作しようと思えば、操作できてしまうことの危険性を強く意識していることだ(「臆病者に恵みの草を」)。「睡眠導入台本」の章で、彼女は前述の自由間接話法的な方法論を使って逆催眠音声なる文章を作っていた。本物の催眠家であるミルトン・エリクソンの不眠対策法の真逆を、相当な正確さで行っていた。

ここまで文章や文脈が人にどのような効果を持つかわかってしまう人ならば、危険な宗教家たちや壺売りのように、人を「自分の意志だと錯覚させる」ことも、可能である。しかし彼女は文面でも動画でも、それを明確に避けようとしていた



観察 ーーどうしようもない絶望を前に 

Non ridere, non ligere, neque detestari, sed intelligere          私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪うこともせずにただ理解することにひたすら努めた          (スピノザ『国家論』・孫引き)

月ノさんは、生放送でも時たま「黒い話」をすることがある。にじさんじの雑な案件のことや映像業界の闇のことだ。(念のため、直接の引用は控える)。日記の方であれば、「サボり魔の委員長」での中学の顧問教師のエピソードがそれにあたる。世界の仄暗い部分まで、細かに語ってしまう自分を指して「性格が悪い」と言っているのかもしれない。放送中でも執筆中でも、聞こえる声は一人だけだ。

動画、文章双方とも、彼女は嫌な話をするときは徹底的に「主語と述語」と「時制」を確定させて喋ったり、書いている(自由間接話法の逆)。これは、相手にこの時の出来事を「伝える」けれども、「伝わらせない」喋り方だ。謙遜ともとれるし、現実が変わるわけがないという諦観であるともとれる。友達が辛い環境にあるとき、何を感じていたのだろうか。




Jホラー ーー小中理論とつきのみと                                   

(この章は、情報提供の意味合いが強いです)

小中千昭氏は、『ウルトラマンガイア』『ほんとうにあった怖い話』といった世間一般に知られた作品を世に出した構成作家である。特に、映画監督の中田秀夫氏、黒沢清氏、脚本家高橋羊氏に影響を与え、『リング』『トリック』などの「ジャパニーズ・ホラー」と呼ばれる分野の確立に大きく貢献した。そしてこの方、『Serial Experiments Lain』『なるたる』の構成作家をされていた。技術方面の話をされがちなLainだが、こう考えると「ホラー」の方から見ることが当然出来るようになる。

小中氏の本は、カチッとした理論が真ん中に一個あるというより、自らのキャリアを振り返りながら、色々なヒントや「やるべきでないこと」が各所にバラまかれている本である。使える部分をピックしてみよう。

小中氏は、スプラッター映画における「次は自分が殺されるかもしれない」というエモーションはあくまで「サスペンス」であるという。人は例えば「ホラー映画」を見に来る時、わざわざ日常では決して遭遇したくない「怖い」という感情を、お金を払ってまで得ようとする。そこに、映画監督の「怖がっていいんだよ」との共犯作用が生まれる。これがサスペンスである。

そのうえで、小中理論のテーゼは「恐怖とは段取り」である。観客が恐怖という感情を抱いてくれるためには段階的に情報を提示してもらう必要がある。そのフックをうまくつくるためには「ちょっと不思議な」「奇妙な」テイストの細かいエピソードが必要となる。

ショックの大きい描写(驚かされる描写)は、確かに観客にとって「そこが一番怖かった」と印象に残す場所ではある。小中氏によれば、こうしたショッカー場面には「バンッッ!!!!!」「ドーン!!!!」といった擬音を多用する場面が多いらしい。(ここで月ノさんのノートを頭に思い浮かべる)

さらに気になることとして、小中氏は「疑似ドキュメンタリ」に関するこだわりを述べている。映画ならば色々な趣向を凝らして、映像を作っていくものだが、それをあっさり乗っけてしまう。

製作者にとって大事なのは「本当らしく見える」事であり、観客にとって「今画面に映っているものは本物なのかどうか」は、無意識には関心下に在っても、映画に求めているものは「本当っぽく見せてくれているのか」であり、やはり「本当らしく」見せて貰いたがっているのだ。そこでは受けてと送りての要求と提供という関係は正しく機能している筈だ。「本当の事」と「本当に見える事」、映画にとって重要なのは後者である。不変的な意味での映画に於いて、リアリティはそれがどんな性質のものであれ求められるものだ。しかし特にホラー映画というジャンル作品に於いては、恐怖という情動を生み出す前提として不可欠な要素となる。  「すべてはリアリティのために」

「本当に見えればいい」のだから、そのドキュメンタリは「疑似」であっていい。

ある体験——、例えば違和感を抱かせる黒い人影を見た人物がいる。しかしその人物は、その体験を自分の心理的影響による幻視に違いないと、理性的な納得をしようとする。                                         ところが全く別の人物が、自分が見たものと同じとしか思えないものを見たと証言(したり、子どもであれば絵に描く)、"それ"が客観的に存在するのだと判明し、その人物(と同時に見ている観客)に恐怖が共有される―—。怪談物語の構成に於いて、こうした描写の積み重ねこそが、その映画の"怖さ"に繋がるのだ、と私は主張している。         「山の測量」

最後に、小中氏はLainについて次のように書いている。

このアニメ版『Lain』は、サイバースペースを黄泉の国の暗喩にした。                          第一話で自殺し、黄泉の国から玲音にメールを出す「四方田千砂」という少女の名は、『Alice6』の一話で行方不明になるモデルのアリスと同じ名前である。                                                         少なくとも『serial experiments lain』の第一話を、私はホラーとして書いていた。しかし次第に私の関心は、その時リアルに広まっていたネット世界の、未だ見えぬ暗部を拡大する方へ移った。

ここの見方に、なんとなく黛君と月ノさんのLain観が違うんじゃないかな…?と思う所がある。(とはいえ、同時視聴も見れていないので何ともいえない)

映画史研究者の渡邊大輔は、Jホラーの独創性は「呪われたメディア機器」であるテレビ、カメラ、インターネット等に日本の伝統的な幽霊物語が巧みに結び付けられていたところにあるという。しかし、二一世紀のデジタルゴーストは、テクノロジーの発展とともに人間たちとほとんど同一の足場で共生する。時々人為的な操作も受け入れ、逆に人間に親密に干渉するハイブリットとして振舞うようになったという。(「「顔」に憑く幽霊たち―—映像文化と幽霊的なもの」『ゲンロン5 幽霊的身体』)

相互干渉ウェルカム、というやつである。

小中氏の理論は、ほとんど俳優本人について触れない。むしろ音や構図などの「演出」について目線が向けられている。星野源も、インタビューでその音声効果について触れていた。


余談。美兎さんが好きそうな話として、「ホラーとAVは構成がよく似ている」という話があった。昔Jホラーの勉強会で聞いたのだ。これはこちらの東大の服部先生がご専門なので、お任せする。(美兎さんの大ファンの方です)




「わかったつもり」を理解する

人を分かった気になるということ自体は、悪いことではない。                『月ノさんのノート』「ライン」

こう述べる月ノ美兎に、「それは論文ではこう説明できましてね(メガネくいっ)」と真顔で対応してみたい。

「こどもの考えが他者の考えと衝突せず、他人の異なる考えに順応しようとすることがない限り、子どもは自分自身を自覚することがないのです」(ヴィゴツキー)

この現代社会において、同じ場所で同じ時間に同じ会社に働いている同士であっても、見ているものが同じとはかぎらない。SNSやインターネットが存在しているからだ。

田島(2010)は、「わかったつもり」とは、「生活文脈を共有する者同士の対話形式によるコミュニケーションにしようできるという意味で」理解しあっている状態と捉えられ、同時に文脈外で得た経験を仲間に伝えたりするために必要となる、内言の自覚性と随意性を伴う言語コミュニケーションには使用できないと述べる。

たとえば「こんばんワニノコ」という言葉がある。この言葉、月ノ美兎のリスナーの方なら、それが異常な言葉だと認識することすらなく、挨拶として発言することができる。しかし「こんばんワニノコ」という言葉が何か?と知らない人に問われた時に、その文脈すべてをはっきり答えることができる人は何人いるだろうか。

説明がうまくできないとき、「こんばんワニノコ」という言葉は、内言(つまり頭の中の言葉)に近い、文脈を知らない人にうまく説明できない「反射」にちかい言葉だということが出来る。これが「分かったつもり」の言葉ということになる。厳密にいうと、「こんばんワニノコ」の場合、何故広がったのか、厳密には月ノ美兎さんにもよくわかってはいない言葉になっている。

ところで、月ノさんは自分の音楽について次のように述べている。

音楽から入った方が配信を見てしまうかも・・・・・という事態になりかねないんですよね? それって凄いことですよね・・・。音楽で入ってきたファンを配信で手放さないように気をつけます(笑)。オーディエンスの方には無意識でわたくしの曲を路上で鼻歌して欲しいし、そういう関係でいたいです。それ関係なのかな・・・。まぁいいか・・・。(What's in? インタビュー

実は、自分の独学仲間に『それゆけ!学級委員長』を勧めたところ、お子さんが、月ノさんの曲で踊り狂って止まらなくなったらしい。鼻歌どころやないやん

もう一人だけ、バフチンという思想家を紹介させてほしい。(以後、バフチンへの言及は桑野隆『バフチン』を参考にしている)

ロシアの哲学者バフチンは、「創造的な出来事」には必ず他者が必要と述べた。その「他者」とは、文字通りの他人もそうだが、何より作者が自分自身に対して他者にならないといけないと考えた。一方でバフチンは、感情移入というものの存在に否定的でもあった。例えば二人の間で会話があったとき、そこで交わされるのは声音と文字列だけである。受け取った情報をどう解釈するかは、個々人次第である。でも、言葉で伝えても、受け取れるのが言葉だけだからこそ、そこに<新しい意味>が生まれる可能性がある

月ノさんはデレマスの音声に勝手にアテレコして、何故かドラマの中に潜り込む(?!)謎の技を繰り広げていた。でもこれ、よくよく考えると普通の会話もそうなのだ。すべての会話は独り言の連続である。ただ、それを聞き手として誰かがキャッチして、応答するかもしれないというだけなのだ。この一文に月ノさんがうなずいているかどうかは、妄想するしかないのである。バフチンは「人間はそもそも徹底的にわかりあえないから、わかりあうことが出来る」と言った哲学者である。さらに言えば、口から出た自分の言葉は、それを聞く自分とは違う人間であるのが普通なのだと言った人でもある。

バフチンはドフトエフスキーの『貧しき人々』という小説で、主人公が自分で自分に対してツッコミを入れることで、まるでもう一人隠された他者との闘いを挑んでいるような文章に高い価値を見出している。作者の自意識を徹底的に広げ、いくつもの対話を起こすことで、新しく生まれる個性を肯定する。(これをポリフォニーと呼ぶ)これは月ノさんが分身したこの企画を見ると、考える所が多い。

以下はバフチンの言葉である。

「人間の内には、本人だけが自意識と言葉の自由な行為のなかにあきらかにすることができ、外側だけを見た本人不在の定義だけではけっしてとらえられない何かが、つねに存在している。『貧しき人々』においてドフトエフスキイは、人間における内的に完結しえない何かを示そうとした」と(バフチンは)述べるとともに、「人格の真の生は、それに対話的に染み入ってはじめてとらえられる」ことを強調している。     桑野隆『バフチン』

特に、バフチンは作家から自律して、作品内で勝手に生まれ動いてしまう人格を「主人公」と呼んだ。故に、作者は生まれてくる人格(キャラ)に対して、事後的に応答するしかない

○○○○は、ネット世界の中で生まれてくる、にじさんじという物語の主人公となった「月ノ美兎」に、どう接しているのだろう。私に答えはない。

自分自身との相互関係のなかに不可避的に顔を覗かせる虚像や嘘。思考、感情を外側から見た像。魂を外側から見た像。私は内側から自分の目で世界を見ているのではなく、私は自分を世界の目で、他者たちの目で見ている。私は他者に憑依されているのだ。 バフチン「鏡の中の人間」『ゲンロン9』


(参考)月ノ美兎はこの記事で、言葉のうつろいやすさに言及している。



映画 ーー自意識過剰と見えないもの 

「鏡」を見るとは、自己の内面とむきあうことではない。(ブルース・)リーは内面的なものを批判してもいる。それはたんにおのれの技がどのようなものかを確認するために見るということであり、表象された技を見るためであるのだ。どのようなものかを確認するために見るということであり、表象された技を見るためであるのだ。「鏡」に映し出される「突き」や「蹴り」は、だれにもあたることがないため、そこでは存在としてあるものはなく、対象も消え、あるのは相手のいない闘争が繰り返される場ばかりだ。反復は否定されるが、無意識による反撃は、たえざるパターンの訓練=反復によってしか生まれない。「鏡」を見ながらの技の確認は、いつしか見る側に立つものが反映された自身の技へおのれの身振りをちかづけているというような逆転現象を生じさせるであろう。「鏡」を見ることによって自分の技を変化させ、修正させることで、見る側のものが、「鏡」に表象されたおのれを模倣し、反復しているのである。「自覚」を推しすすめることによって、「自己」が消える瞬間。そこに残されるのは「日常性」だけである。もはや、闘いの相手は消え、自己も消え失せている。そのときはじまるのは、すべての『型』を無効にしてしまう現実とのたえることのない闘争ではないのか… 『アメリカの夜』(p13-14)

芥川賞作家であり、映画評論家として有名な阿部和重のデビュー1作目は、ブルース・リーを論じる不思議な文章で始まっている。

『アメリカの夜』は、映画学校を卒業しアルバイトを続ける青年・唯生が、他の芸術を志す青年と同じく、他の人と違う「特別な存在」でありたいと切実に願い、ひたすら体を鍛え、思索にふける小説である。彼は自意識過剰で、「特別」になろうとして、ブルース・リーに憧れて、型を覚えようとしたり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に憧れて「日常性」を否定するために睡眠を拒否し「人間」であることをやめようとしたり、なんか人格が二つに分裂したりする。最終的に、撮影の現場ですら特別な人間でありたいと考える唯生は、映画現場でも諍いを起こしてしまい、映画を作ることも叶わず、彼はまた自意識の中でぐるぐると思索を続けてしまう。が、突然、「自分は普通の人間である」ということを受け入れる物語である。

(一本筋でまとめられる小説ではないので、乱雑な要約なのはお許し願いたい。そして何より、この小説の凄みは単純な要約ではまとめられない脱線と描写にある)

ここににじさんじの緑仙が取った写真がある。この写真、おかしなことが起こっていることに緑仙本人は気づいているだろう(写真は、そのカットの取り方に、取る人の意志が入るものだ)。これがVtuberの方々が普段向き合っている世界だ。Vtuberは自分たちのダンスに対して、自分から見える身体ではなく、スクリーン上の身体と動きを合わせることを要求される。この事に鋭く自覚的なのが緑仙である。彼らは、右下の星川さんのように、波打ったスクリーン上にしか自分を見出せない。これが彼らのライブをやって、生放送をやる日常である。

では月ノさんはどうだろうか。緑仙は、「嘘をついている」ということをかなり早い段階で告白している(アルバムのタイトルを見よ)。一方で月ノさんは、同じく嘘はついていることに自覚的だが、それを「演出」と呼んでいた。また、どっちかというと隠そうとしがちである。さらに、その映像作品からもわかるように、嘘というより「」を生み出すことを得意としている。

映画とテレビやyoutubeの視覚体験をはっきり区別してみよう。映画は、作られ方として「固定した時間」「同じ場所で」「画面を凝視する」ことを前提として作られている。しかも、どういう目線で画面をみるかは、映画監督やカメラマンが完全にディレクションしている。そこには、最初の佐々木敦さんの引用にあるように「意識」「意志」が宿る。

一方、テレビの番組やYouTubeはテロップやワイプなどの装飾がキモになる。テロップは確かに文字内容を伝える。しかし、重要なのはその文字内容に加えて、色や笑い声(ガヤ)などの演出である。小中理論の言い方で言えば、サスペンス(ここでこう反応していいですよ)がコントロールしやすいのだ。ハートが出れば、それは「かわいいと言っていい」の合図である。この合図は、シナリオそのものというよりも、「ピンク色を見た時の人間の反応」に近い。だから、ここ数十年の映像は「映像編集技術の進化の歴史」と言われることが多い。ただ、編集技術の向上は逆に言えば、いくら残酷な現実があっても、それを画面に笑い声などを入れてしまえば、喜劇化できてしまうことの現れである(繰り返すが、月ノさんはそんなヤバい使い方はしていない)


画像2

2021/03/25 【#みとの新衣装​】kawaii力を貯めてプリプリ新衣装を見よう!【にじさんじ/月ノ美兎】)

謎は、意味がないはずのところに現れるものだというのは、以前つきのみと没カット集の説明で結論づけた。さらに先ほどの緑仙のスクリーンで説明したように、この画面を○○○○は見ているはずである。つまり、ひとりごとを繰り返して言葉を覚える子どものように、コメントとハートと絵の情報から、彼女は自分の無意識を更新している。そして彼女は自分の人格を更新するかのように、文字通りKawaiiパワーを溜めてKawaii衣装で出てきた。まさに「応答」なのである。にじFesを見た方なら、冒頭で彼女がリスナーに向けた言葉が、新衣装放送の伏線になっていたことを思い返してほしい。

(この段落は月ノ美兎には見えません)これは批評とか分析というより…わたしが普通に生放送を見ていて感じることである。例えば月ノさんはエヴァンゲリオンについて相当熱く語っていることがある。わたし自身はこのご時世にエヴァを1話も見ていない不届きものである(ほんとにすいません)。でも、ササキトモコさんの話含め、映画についてこれだけ語れる人が、「忘れてしまったもの」である、『月ノさんのノート』では、「映画研究会」であることを強く言うのだろうか。万一、彼女の周りの人と喋れる機会があったら、わたしは一言こう聞いてみるだろう。月ノ美兎さん、映画をつくりたがってない…?

それが実現するかどうかはわからない。実現するべきかもわからない。阿部和重の場合、「映画を作ることができない」エネルギーを小説など他の分野で活かしていた。しかし、彼女の場合、もうすでに明確に映像に関わるスタッフさんが周りにいて、放課後に集まる演劇好きの人たちはじめ、にじさんじの仲間がいっぱいいる。

余計なことを言っただろうか。では阿部和重が『アメリカの夜』の中で引用した、大西巨人の『神聖喜劇』の一節を孫引きしてこの章を終わろう。

ただね、こういうかすかな予感のような物が私にないこともないのです、——人生に「本筋」と「余計」との区別なんかはないのではないか、「本筋の人生」がそのまま「余計な人生」であり、「余計な人生」がそのまま「本筋の人生」であるのではないか、つまり人生はすべて「余計」なのではあるまいか、あるいはつまり「余計な人生」を耐えて生きることがすなわち「本筋の人生」なのではあるまいか……なんだかごたごたして不明瞭だが、そんな予感のような物も……かすかながら……。          (p176)


(参考 阿部和重は最近の作品で疑似ドキュメンタリーの問題に取り組んでいる。やはり、このあたりの語り方の問題は、奥深いものがありそうだ)


たましいといれものーーなにがにせもの?

妖怪・・・・・・妖精・・・・・悪魔・・・・・・                              化物・・・・・・鬼・・・・・竜・・・・・・・                      人間が形而下で捉えられない存在に便宜上つけた名前・・・・・・                            器・・・・・・殻・・・・・未完成なもの・・・・・・                        そして わたしは                          あなた                  鬼頭莫宏『なるたる』(1)                                                                                                   

「月ノさんのノート」と本人自身の活動に通底するモチーフは、入れものである。箱、コップ、カワ(謎ノ美兎)、家、窓…。問題は、その入れものの扱い方である。

人間の身体は、確かにいくつものパーツに分解することができるが、分解した一部(頭や心臓)だけを指して人間だとは言わない。Vtuberの例で言えば、ねづみどし先生の描かれた絵だけで、それが「月ノ美兎」とは言わないだろう。魂が無視されてしまう。ライプニッツの解釈をそのまま適用すると、「月ノ美兎」は入れ物の中に閉じ込められており、他の物と関係せず独立している。これをライプニッツは「モナドには窓がない」と表現した。

『月ノさんのノート』を読んだ時、終盤、これに近い表現をしている所があってびっくりしたが、何か委員長は「魂」とか「属性」がきっぱり決まっているハンターハンターのような作品が好きと言っていたので、そこから発想したのかもしれない。

これは、簡単に言いなおすと全ての物は「媒介物(メディア)」であり、それぞれの考えを鏡のように反射(時に中途半端に照応)し、影響しあっているということである。故に、ライプニッツが元である「予定調和」とはフラグ(予測通り物事が進む)ことではなくて、まるで万華鏡やオーロラのように、一つの動きが全体に影響を及ぼすような世界観になる(微小表象)。部分と全体が照らし合い、でも統合することはなくバラバラに乱反射している。だから「何が起こるかわからないこの世は面白い」のである。それと同時に、残酷なことも起こりうる。それをライプニッツはまとめて、全て「予定調和」とした。

星野源は、このPVを見る限り、こうした「魂」や入れ物に関することを、これ以上なく強く意識しているようにみえる。


伝達欲というものが人間にはあり、その欲の中にはいろんな要素が含まれます。こと文章においては「これを伝えることによってこう思われたい」という自己承認欲求に基づいたエゴやナルシシズムの過剰提供が生まれやすく、音楽もそうですが、表現や伝えたいという想いには不純物が付きまといます。それらと戦い、限りなく削ぎ落とすことは素人には難しく、プロ中のプロにしかできないことなんだと、いろんな本を読むようになった今、思うようになりました。                                       作家のキャリアに関係なく、文章力を自分の欲望の発散のために使うのではなく、エゴやナルシシズムをそぎ落とすために使っている人。それが、僕の思う「文章のうまい人」です。   星野源『いのちの車窓から』あとがき

(ネタバレ注意。月ノさんが夏の風景をえらく大事にするのは、なるたるから来ているような気がする)


はじまりの契約:月ノ美兎は「推せない」

嘘をただの悪事、「してはいけないこと」だと思っているなら間違いだ。嘘とは実は制約であり、契約なのだ。                           「嘘をつけば逃げられる」と信じるのは幼子だけだ。嘘はむしろ、ついたもの行動と未来を縛り、拘束する。例えば、嘘がばれないようにするためには、嘘を重ねなければならなくなる。嘘を信じてもらえなくなれば、より深刻で重大な嘘をついて相手の気を引かなくてはならなくなる。            多くの嘘つきは、はじめのうちは、自分が選択肢を失い、未来の可能性を減じてしまったことに気づかない。だが、後に思い知る。自分と世界との関係が、嘘をつく前とは一変してしまっていることに。自分と世界の間を取り持つのに今や必死の努力が必要となってしまったことに。                             読書猿「三月のライオン」紹介より『人生を変えるアニメ』
Contract(コントラクト)・・・①契約 ②感染

スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発が告げられた日に放送された、Coldplayの曲を聴いていた時に気が付いた。

アイドル「推し」という言葉は、最初AKB48が総選挙の際に、CDについている選挙券を使って誰かを推薦することから生まれた用語だ。だから、月ノ美兎は推すことが出来ない。なぜなら彼女はすでに「委員長」という選ばれている立場にいる。「設定上」そもそも推せないキャラなのだ。このことを、アイマス好きの彼女が察知していた可能性は十分にある。(ここで、ウイスパー配信の一曲目を想起しても良い)

いや、さらに正確に言えば選ばれていたことそのものすら事実ではない。勝手にどこかのベンチャーが作ったよわよわしい虚構だった。彼女は、にじさんじアプリの「器」の宣伝人にすぎなかった。誰も委員長というキャラなんて信じているやつはいなかった。誰も待ってなんていなかった。

迷い犬のように、何者でもない、臆病な○○○○。



同時に、月ノ美兎は推すことができる。

○○○○は、新しい日常を作ることを決める。それは、軽いノリで爆発的に、自分のウサギを広めてしまった、彼女の覚悟だった。

部屋も片づけられないポンコツで、人とは違う事を言って困らせる嫌な奴なのは承知の上だった。なら、わたくしはわたくしなりの言葉で、「真面目」で誠実な委員長を、この日常を演じてみせましょう!

月ノ美兎は嘘を言わなかった。モツは赤子の拳にしか見えなかった。道草を食っていたのはガチだった。ギルザレンは早く放送しろ。好きなものに対しては、覚えていることをめいいっぱい話した。



すべてが嘘で、全てが本当だった。嘘がもはや意味をなさないところに、秘密は宿る。樋口楓さんはじめ元一期生の人たち、リゼさんを始めみんなが、「何故か」自分のところについてきてくれた。私の考えではあなたもどうしてかはわかってない。

言葉という演出で埋め尽くしたはずの、偽物のペットボトルが、虹もオーロラも出した、のである。







終わりに

泣けも笑えもしないわたしは、たくさんのものを失って、ちっぽけなものを得ました。感動は存在せず、大仰な出来事は発生しない、退屈なこの世界。ふと気を抜くと殺されて、すぐそばで誰かが食べられて、世界のすべてが死んでいく、わけのわからない世界。                       だけど、それでも生きていく。日常を、居場所を、わたしは見失わない。同様の鈍感か、あるいは面倒くさがりか、適当なひとがいるかぎり、人類は滅ばない。絶望しても、皆殺しにされかけても、まぁ、どうにか未来を築きあげていくのでしょう。                    日日日『平安残酷物語』(p326)

なんというか「わかったつもり」というか、思い切り自分の妄想をすべて書きつけてしまった気がする。まー、私はこの程度です。星野源も、ササキトモコも、委員長も相当の化け物でした…。

正直、このレベルでイメージや比喩に対して誠実な方であると、論じるとなると本当に10万字を超えていきます。月ノさんのサムネやノート(note)を見返すだけでも、「あっこれってあれの事だな…」と考えるものがいっぱいあるのですが、全ては書けません。Jホラーや東浩紀氏の『死』、あとアドリブ力に関しての話はどこまで突っ込んで言及していいやら…あー!ダメダメ!書き終わった後に色々いっちゃだめ!

ネタ晴らしをすると、ノートを見た時の最初思いついたのはこれでした。

ジョニー・デップの『パイレーツ・オブ・カリビアン』という映画を見てたら、なかに面白い場面がありました。海賊たちが檻に閉じ込められている。このままでは人食い人種に食われてしまう、窮余の一策で、『檻ごと転がってゆく』というソリューションを採択する。みんなが檻を持ち上げて、隙間から足を出して、ほいほいと転がっていく。へえ、よくできたメタファーだなと思いました。檻に入っている人間でも、檻の特性、木で出来ているとか、丸いとか、隙間から足が出せるとかいうことを理解していれば、檻ごと動くことができる。それどころか檻を利用して、縦横無尽に野原を駆け巡ったり、ふつうに落ちたら死んでしまうような急峻な崖を転がり落ちることだってできる。檻に入っているせいで檻に入っていないときにはできないことができる。そういうことってあるんです。 内田樹『街場の文体論』(p260)

内田さんは、自分の言語のローカル性(全ての人に届くわけないこと)を意識して、それを身体的に内面化することを説きます。神を欺くことができるのは、神のことを全て知ってしまった堕天使しかいません。

ただ、逆に言えば月ノ美兎さんのような一見天才に見える人でも、その歩みの最初はこうした、小さな努力と真面目さの積み重ねだと思うのです。それが、今一番最新の研究をしているあたりの批評でたまたまキレイに説明ができた。そして、星野源さんという補助線により、彼女の方法論が「自分の好きだと感じたひとつひとつの作品や世界や人を丁寧に愛すること、それを受け継ぐこと」に尽きることもわかってきました。だとすれば、どれだけこの人は、どれだけ人間のことが好きなのでしょう…。

なるたる!Lain!ダンジョン飯!

そういえば以前、地方都市の駅の本屋で、一人の少女が立ち尽くしているのを見ていました。長髪黒髪で内気そうに見えるその子は、確かCONTINUEか、何かにじさんじ特集の雑誌をじっとみていました。その様子が、どこか委員長に重なったのは、私の目の、ちょっとした錯覚です。




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