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【殺人者の記憶法】記憶が曖昧になることを巧みに活かした小説

薄暗い森の中、大きなスコップで地面に穴を掘る。
大きな穴に、自分が殺した人間の死体を落して、再び土を被せた。
「私は、知りません」。
自分がしたことを知られてはならないと、必死に隠そうとしている。
隠し通せるはずはない。嘘をつき続けるのは苦しい。
そう思ったところで、パッと目が覚めた。
夢だった。

なぜ、そんな夢を見たのか、 思い当たることがあった。
数日前に見た映画の中で、主人公が殺人を犯して、その死体を森の中に埋めるシーンがあった。 そのシーンが特に気になったわけではなかったが、記憶にこびりついていたらしい。 夢の中で、私自身がその主人公とすり替わってしまった。

目が覚めて安心はしたが、 夢の中で味わった、罪が暴かれることへの恐怖、プレッシャーを思い返し、 しばらくの間、気持ちが重かった。

小説「殺人者の記憶法」(キム・ヨンハ著、吉川凪・訳)は、アルツハイマー型認知症と診断された男の独白で構成されている。

男は、猟奇的な連続殺人を犯してきたものの、警察に捕まらず、今まで生きてきた。
認知症により、男の記憶が曖昧になっていく中、 男が語る「事実」と、 男に関わる人々が口にする「事実」とが交錯し、 物語の終盤に向かって、その乖離が示されていく。
客観的な事実が明らかにされていくのだが、 男の頭の中にある「事実」のほうを信じるように、 読者は巧みに誘導されているのかもしれない。

男の語る「事実」のほうが、事実であるような気がして、 周囲が説明する「事実」とのズレが奇妙に思えてきた。 私は、作者の仕掛けに、まんまと嵌まった読者になったのだろう。

読後に思い出したのが、自分が経験した夢のことだ。
もしも、あの夢を夢だと思えなかったら?
想像を超える恐怖、不安に襲われそうだ。
自分の人生、生活は、自分の記憶を基盤に成り立っているのかもしれない。

さらっと読めるが、深いテーマに触れている作品だった。


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