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【言葉の温度】「友達以上、恋人未満」と「知り合い以上、友達未満」

「よく言われる サム(somethingを略した造語で、友達以上、恋人未満を意味する)というのは、愛に対する " 確信”と”疑い”の間の戦いさ。確信と疑いは、潮の満ち引きのように入れ替わるものだ。そうして疑いの濃度が薄まって確信だけが残ると、そこで初めて愛が始まるんじゃないだろうか」

「言葉の温度」(イ・ギジュ著、米津篤八訳、光文社)


上記は、韓国の作家 イ・ギジュさんのエッセイの翻訳本「言葉の品格」の中で、著者が、哲学書を出している出版社の社長さんから聞いた話として紹介されている一節だ。この一節は、恋愛ドラマ「ボーイフレンド」で登場人物のセリフに使われたこともあり、よく知られているようだ。

気になる異性について、ただの友達だと考えると何か違う気がするが、一方で、恋人にしたい人かと考えると、それもしっくりしない状態、「友達以上、恋人未満」の状態を、どう表現したら適切か?

「確信と疑いの戦い」という表現を読んで、なるほど、そうかもしれないと思った。

恋愛の可能性がある異性とのはっきりしない関係には、「友達以上、恋人未満」があるが、もう少し対象者を広げて、はっきりしない相手との距離感を考えると、「知り合い以上、友達未満」がある気がする。
この「知り合い以上、友達未満」の関係については、大学生の頃、男子同級生と意見が合わなかったことを思い出す。何がきっかけだったのかは忘れたが、大学の同級生が「友達の数は減らせる」と口にしたことが妙に心に引っかかった。

「互いに気が合う」とか「一緒にいて楽しい」などが前提になって、人と人は「友達」の関係になる。大学の専攻が同じとか、趣味が同じ、サークルが同じなどで、互いに存在を知っている「知り合い」はできても、「ただの知り合いの一人」から「友達」になるには、互いに距離感が縮まるような何かを共有しているはずだ。人数をカウントして、増やしたり、減らしたりをコントロールできるかのような考え方は、当時の私には、しっくりこなかった。

今、振り返ると彼が言おうとしていたことが少し理解できる。

例えば、SNSのFacebookの「友達」を考えると、どこかで1回お会いして「友達」になったものの、それ以降はお会いすることがなく、SNS上でも特にやりとりすることもなく、そのままになっている人がいる。

大学生の時の私なら、それは「友達」ではなく「知り合い」と位置付けるような関係だが、Facebook上は「友達」だ。Facebook上の「友達」の数は、アカウントの保有者の意思で、減らすことができる。

ただ、SNS上であっても、リアルであっても「知り合い」と「友達」の間、「知り合い以上、友達未満」と言える関係性は存在するだろう。

「友達以上、恋人未満」の状態を、「確信と疑いの間の戦い」と表現するなら、「知り合い以上、友達未満」の状態は、どのように表現したらいいか?

「共感や共有と、非共感・非共有の間の戦い」だろうか?。表現がなかなか難しい。

「知り合い以上」の場合、関係の方向性が「友達」ではないこともある。
私の場合、パラスポーツの情報発信の活動で関わるライターやカメラマンさんは、「恋人」でも「友達」でも「知り合い」でもなく、志を同じくする「仲間」、「同志」のような存在と言ったほうが適切な気がする。

自分にとって「知り合い以上」の相手との関係性が、その後、どのような方向性に進むのか。「友達」に向かうのか、「同志」なのか。それとも人生で教えを乞う「恩師」か。
ただの知り合いから、友達や同志、恩師など別の存在に向かいつつある状態にある時、私の心の中で、潮の満ち引きのように入れ替わるものは何だろうか?


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