杉原千畝のエピソードから学ぶ 改訂

この記事は3月13日に投稿した記事を再編集したものです。
3月13日に投稿した記事には「極端な内容・真偽不明の情報でないかご注意ください」という注意書きと共に『支援団体を通じた寄付』のリンクが貼られており、それでは寄付に対しての信頼を得られないのではないかという危惧があったため削除することにしました。
削除に至った詳しい経緯はこちらの記事に書いています。

R国の軍によるU国への侵攻は未だに続いている。
U国の大統領の発表によればこれまでに約1300人ものU国の兵士が死亡し、そして3月11日の時点で42人の子供を含む579人もの民間人が犠牲になったのだという。
侵攻をやめようとしないR国の大統領のことは全く擁護できない。
だが、その一方でU国の大統領は「武器は捨てない」と言い、さらには「われわれにとってこの戦争での勝利は、U国人が生き続け、U国を存続させることを意味する。U国の存続を望むのであれば勝つしかない」とも発言したらしいのだ。
翻訳によってそう見えているだけなのかも知れないが、これでは「戦いをお望みなら受けて立つ」とR国軍を煽っているように見えてしまう。
もちろん今の状況下で武器を捨てる選択をすれば十中八九U国はR国に占領されてしまうかもしれない。
だが、武器を捨てる選択をして民間人を安全な場所に避難させることを優先した場合に予想される犠牲者は戦争を続ける選択をした場合に予想される犠牲者よりも多いのだろうか?

例えば銀行がマシンガンを持った強盗に襲われたとしたら、銀行員は僕等の大切な預貯金を守るために犯人と戦わなければならないだろうか?
さすがに銀行員にそんなことを強要したら酷だろう。
それにもし銀行員が犯人に抵抗したとしたら、犯人は逆上してマシンガンを乱射するかもしれない。
そうなったら周りにいる人間にも被害が及ぶことは明白だ。
銀行によって違うかも知れないが、基本的にそういう状況になったらまずは犯人の要求通りにお金を差し出し、そして出来る限り犯人の身体的な特徴や声や口調を覚えるということが銀行員の役割なのだそうだ。
そして自分達や居合わせた利用客の安全を確保した上で警察に通報し、そして警察が動いて犯人逮捕に至るのだという。
ただ、それがベストだと言えるかどうかは不明だ。
犯人が銀行員の用意したお金を受け取ってすぐに立ち去ってくれればマニュアル通りにことは運ぶだろう。
だが、もしも立てこもられたら?
もしも「俺の顔を見たお前達を生かしてはおけない」等と犯人がどちらにせよ銀行員を殺すつもりでいたとしたら?
……事態はマニュアル通りになるとは限らない。
しかし犯人と戦うという選択をするよりは比較的安全だと言えるのではないだろうか?

3月12日に放送された『名探偵コナン警察学校編 CASE:伊達航』ではコンビニが強盗に襲われる描写があったが、やはり強盗をすぐに制圧しようとするのは危険であるらしいことが示唆されていた。

もちろん大国の侵攻と銀行強盗とでは異なるから、銀行員のマニュアルをそのままU国の大統領に提示するのは無茶かも知れない。
また、銀行員のマニュアルにU国が従った場合、銀行強盗を逮捕する警察の役割をちゃんとやってくれる機関がなければR国の侵攻は止まらず、U国の人々の元通りの平穏な生活は戻ってこないかもしれない。
また、その場合は人々が戦争によって受けた心身の傷が癒えるまでのアプローチもおざなりになってしまうだろう。
……ということを考えた場合、R国の大統領がとち狂った戦争を始めたことやU国の大統領が武器を捨てる選択を出来ないでいることの背景には警察の役割をちゃんとやってくれる者がいないと思われてしまっているという事情もあるのではないだろうか?

だからこそこの戦争に関する報道では「国連の存在意義が問われる」と言われているのだと僕は思っているが、皆さんはどうだろうか?

今回は銀行強盗を逮捕する警察の役割の1つである“ネゴシエーション”にスポットを当てて考えてみたい。
“ネゴシエーション”とは分かりやすく言うと“交渉”のことだが、例えば犯人が人質を取って立てこもっている場合に犯人に対して人質を解放して投降するように説得したりする警察官は“交渉人”、“ネゴシエーター”と呼ばれる。
この“ネゴシエーター”が果たす役割は非常に大きく、一切発砲せずに犯人を投降させてから逮捕し、人質も保護するということも出来た事例が存在するのだそうだ。

残念ながら僕自身はそういった“ネゴシエーション”能力は低いらしい。
SNSでマナー違反を繰り返している連中を説得してマナー違反をやめさせることが出来た例は未だにない。
まだまだ話術を学んでいく必要があるようだ。

これは警察官が犯人に対して行った交渉の例ではないのだが、何しろ高い“ネゴシエーション”能力を持っていれば「6億円以下では売りません」と言われたものをその4分の1の価格である1億4000万円で購入することが出来たという例もあるのだから、いかに話し合いが大事なのかはお分かり頂けるだろう。

……6億円と言われたものを1億4000万円で買うって、そんな無茶なと思われるかも知れないが、これは机上の空論などではなく実際にあった話なのだ。

その交渉を成功させた人物の名は杉原千畝。6000人のユダヤ人の命を救った外交官としても有名な人物だ。

僕は彼のことを描いた伝記漫画『小学館版 学習まんが人物館 杉原千畝』を読んだことがあるのだが、その漫画では上記の千畝の交渉術がこんな風に描かれていた。

1933年(昭和8年)に千畝は日本代表としてS連を相手に北満鉄道(東清鉄道)の譲渡をめぐる交渉を始めることとなった。
その前年の3月1日の満州国建国を期に日本は元々S連が所有していた北満鉄道を自分達で手に入れようとしていたのだ。
当時千畝の上司だった大橋忠一は「S連と戦争をして北満鉄道を手に入れれば良い」という軍関係者の意見に反対し、こう言った。

「戦争は避けなければなりません。あくまでもS連と話し合って鉄道を買い取りましょう。その話し合いが出来る人材がうち(満洲国外交部)にいます」

大橋が言うその人物こそが千畝だったのだ。

軍関係者は反論してきた大橋に対して怒鳴り散らすと去って行った。
丁度部屋の外でそれを聞いていた千畝は軍関係者の態度の悪さに不快感を示し、怒鳴られた大橋も軍関係者の態度にうんざりする描写があった。
千畝が話を聞いていたらしいことに気付いた大橋は千畝に対し、「聞いていたのなら話が早い。君のR国語が頼りだ」と言ったのだ。
実は千畝は英語だけでなくR国語も話せるバイリンガルで、話術にも長けていたのだ。

北満鉄道購入のための話し合いを有利に進めるため、千畝は現地へ赴いて鉄道の様子を調べることにしたのだが、そこで思いも寄らぬことが判明した。
北満鉄道を走る列車の本数はS連の報告と比べて少なかったのだ。

線路の枕木を交換していた作業員に話を聞くと、列車の多くはS連に引き揚げられてしまったらしい。
また、線路もあちこちが痛んでおり作業員が外していた枕木はすっかり朽ち果ててしまっていた。

千畝が作業員達からいろいろと話を聞いている内に彼等は千畝がロシア語が上手いことに感心し、「この枕木持ってけ。腐ってるけど薪くらいにはなるべーよ」と枕木を渡したのだった。
遠慮しつつも結局枕木を受け取った千畝だったが、朽ちた枕木は本当に役に立つこととなる。

そしていよいよ北満鉄道購入のための交渉が始まった。
S連側の代表はこう言った。

「この鉄道は6億円以下では売りません」

この発言に対し、千畝は立ち上がるとテーブルの真ん中に腐った木の板を置いた。
その木の板こそ千畝が鉄道作業員から渡された枕木だったのだ。

「この通り、線路はあちこち酷い状態です。これでは脱線事故が起こります。それにあなた達は貨車や機関車を自分達の国に引き上げてしまっている。これでどうして6億円という数字が出るのですか?」

千畝はS連側が提示した6億円という金額に疑問を投げかける根拠を提示し、逆に何故S連が6億円という数字を提示するのかを問いただしたのだ。

S連側の代表は6億円という金額を提示した根拠を答えられなかったらしく、こう返してきた。

「じゃあ一体いくらだと言うんだ?」

これに対して千畝は手でパーの形を作る。
5という数字を示していた。

S連側の代表は「5億円か……」と言うのだが、それに対して千畝はとんでもないことを言いだした。

「5000万円です」

漫画ならではのギャグ的な表現でS連側の代表は「ヒエー!」と驚いた。

「それは酷い!」
「そうだ!いくら何でも安すぎるぞ!」

……と、さすがにこれはS連側の代表が怒るのも無理はないだろう。

当時と現代とは物価が違うから現代の価値での5000万円で鉄道を買おうとしたというわけではないのだろうけど、6億円という数字を提示してきた相手に対して5000万円まで値切ろうというのだからとんでもない話だ。

これはさすがに以前の記事で書いたような創作物特有の極端表現だろうと思っていたので今回の記事を書くに至って杉原千畝の関連記事を調べてみたのだが、こちらのサイトによればS連側が6億2500万円という価格を提示したのに対して日本が用意した金額は本当に5000万円だったらしい。

すると千畝はにこやかにこう言った。

「それではゆっくりと話し合いましょう」

そして千畝は椅子に座ったのだ。

あくまでも僕の忖度だが、この漫画を描いた方は千畝が「話し合いましょう」と言って椅子に座る場面で“対話の席に着く”ことを表現していたのではないだろうか?

漫画ならではのギャグ的な表現でS連側の代表は「ぐぎぎぎ……」と悔しがっていたが、やはりちゃんと話し合ったらしく、交渉が始まって2年後の1935年(昭和10年)3月に日本は北満鉄道を1億4000万円で買い取ることが出来たのだった。

高い“ネゴシエーション”能力を持っていれば相手が提示してきた金額の4分の1の価格で鉄道を買い取ることも出来、さらには戦争を回避することも出来るという好例だ。

だが北満鉄道購入のための交渉で成功した結果、千畝はS連から睨まれるようになってしまう。
1937年(昭和12年)に彼は外務省からS連のモスクワ大使館赴任を任命されたのだが、この時S連は彼にビザを出さなかったのだ。
先程紹介したサイトでは、S連は千畝の手腕、高い“ネゴシエーション”能力を恐れたためだと考えられていると述べられている。

彼の最も有名なエピソードは1940年(昭和15年)の6000人のユダヤ人の命を救ったビザの発行だが、これについても外務省は戦後、本国の訓令に反したとして彼を退職させているのである。
それどころか彼は「ユダヤ人から金(賄賂?)をもらってビザを発行した」というあらぬ噂まで立てられ、辛い思いをしていたのだそうだ。
また、彼の三男である晴生君が僅か7歳で小児癌によって亡くなってしまったということも重なり、彼にとって戦後の時期はまさに地獄だったようである。

しかし、かつて千畝の発行したビザによって命を救われたユダヤ人の1人であるニシュリ氏と28年ぶりに再会した1968年(昭和43年)を期に彼は再びビザの発行は正しかったと思えるようになったという。
また、その翌年の1969年(昭和44年)にはイスラエルのバルハフティック宗教大臣(千畝がビザを発行した当時はユダヤ人難民代表として彼と会っていた)から勲章を受け、改めて千畝のしたことは正しかったと証明されたのだ。

だが、日本の外務省が間違いを認めて正式に千畝に謝罪したのは彼が1986年(昭和61年)に亡くなってから14年後の2000年(平成12年)だった。
最終的に千畝の汚名を晴らすことにはなったものの、何故それほどの時間がかかったのだろうか?

杉原千畝のエピソードから学ぶことはいくつもあると思う。

挙げ出すと切りがなくなるからざっくりと言うと、まず、高い“ネゴシエーション”能力を持って且つ驕ることなくきちんと話し合おうとする姿勢を見せれば相手を説得することは出来るということだ。
次に真に人を思いやる心を持ち、何よりも命を大切にしようとすることを忘れてはならない。
そしてそういった人が恐れられたり酷い扱いを受けたりして辛い思いをすることがないように僕等1人1人が人道的見地に立とうとする人を支えられるようにしなければならないということだ。

これらがきちんと出来ていなければ……否、出来ていないという情けない現実があるから杉原千畝のような“ネゴシエーション”能力を持った人物を国際社会は輩出することが出来ていない。

今回のR国によるU国への侵攻を見て「他人事ではない」「R国のやっていることは許されない」という人は多いだろう。

U国の武器を捨てないという選択にも疑問を抱く人はいるだろうし、僕もその1人だ。

だが、戦争は許されないという当たり前のことを発信する時こそ、僕等は6億円と言われた鉄道を1億4000万円で買い取り、戦争を避けることに貢献した杉原千畝のような人物を輩出出来ずにいることを反省しなければならないのではないだろうか?

少なくとも僕等1人1人が形作る国際社会が“ネゴシエーション”能力を持つ人材を輩出出来ていればR国の侵攻を止めることも出来たかも知れないし、侵攻に遭ったU国が武器を捨てる選択をしてもU国の人々の生活は守れる状況を作れたかも知れないということは理解しておきたい。

最後に、杉原千畝についてもっと知りたいと思われる方にはこちらのサイトをご覧頂けると幸いです。

尚、3月23日現在は『杉原千畝記念館』の「最新の動き」をクリックするとU国への人道支援のための募金とメッセージに関する情報が見られますので、困っている人達のために自分に出来ることはないかと考えておられる方は参照にしていただけばと思います。

また、YouTuberのバイリンガールちかさんは困っている人達への支援のためにこちらのプロジェクトを立ち上げておられますので、動画をご覧になって頂けると幸いです。


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