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「最初から全員を特別扱いする教育」というのがあっても良いかもしれません

国連が日本に対して障害児を分離した教育をやめるよう勧告してきました。

興味深いのがこの勧告に対してネガティブな反応のほうが圧倒的に多かったということです。

特別扱いは不公平とか、全体の学習進度が遅くなるとか、教える側の負担が増大するとか様々な理由がありますが、共通しているのが「健常児」というマジョリティの中に「障害児」というマイノリティが入ってくるという捉え方です。

そしてネガティブな反応をしている人の多くは「自分はマジョリティ側」にいるという認識ではないかと思います。

だからこそ、マジョリティである健常児には「健常児に合った教育(通常学級)」を、マイノリティである障害児には「障害児に合った教育(特別支援学級)」を、そこを無理に一緒にするメリットはない、という発想になってしまいます。

ただ”通常学級”だからと言って全員が”通常”とは限りません。

標準的な教育カリキュラムが「丁度いい」という子どもも確かにいますが、「そうでない子ども」もたくさんいるのが現実です。

  • 勉強が苦手な子ども

  • 学校の授業が簡単すぎてつまらないという子ども

  • 大人しく座っていられない子ども

  • 集中して授業を受けることができない子ども

  • 団体行動がどうしてもできない子ども

…など、様々な「個性」を持った子どもたちがいますが、これを全員まとめて「健常児」として扱い、みんなに同じことを教育していくのはかなり無理があります

そして尖った個性を持った子どもは「問題児」として扱われてしまい、いじめといった不幸なことが起きてしまいます。

そういうわけで、「健常児」と「障害児」を分離して教育すること自体は実は意味がないことではないかと考えています。

むしろ最初から「健常児」と「障害児」いう概念を持たずに、「全員それぞれ個性が異なる」という前提で教育のあり方を考えてもいいかもしれません。

もし子どもたちに対して「あなたたちは”健常児”というマジョリティです」という姿勢で接してしまうと、たまたま大人が定義した”健常児”に近い個性を持った子はいいのですが、そうでない子は「自分はみんなと違う存在だ…」と思ってしまい、辛い思いをします。

そうであれば最初から「マジョリティなんていません」、「全員マイノリティです」という姿勢で接したほうが、障害があろうか無かろうか子どもにとっては「自分は自分、他人は他人」という意識が持てるのではないかと思います。(インクルーシブ教育の本質はここにあると考えています)

もちろん実現するうえで様々なハードルはあります。

教える側の負担をどうやって減らすかは大きな課題ですが、こういう分野こそテクノロジーの出番かもしれません。

また、学校における「クラス」のあり方も大きく変わります。

「クラス」という多様性に富んだコミュニティを経験させることは子どもたちにとって貴重な学びになりますが、文化祭や運動会で「クラス全員で同じことに取り組み、他のクラスと競い合う」というようなことはできなくなるかもしれません。

この先どのような教育が良いかはわかりませんが、日本の教育も曲がり角に来ているのでこれからの教育のあり方を本気で考えても良いと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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