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なにかを選ぶのは、他を捨てること〜神経ダーウィニズムの視点〜

ヒトは無限の可能性を持って産まれます。

こう書くと、なんだか抽象的な印象になってしまいますね。

抽象的な話ではなく、G.M.エーデルマンという生物学者が提唱した神経ダーウィニズム(神経細胞群淘汰説)という考え方に基づいた話をしてみたいと考えています。

神経細胞の話ではあるのですが、人間の生き方を考えていく上で参考になる部分が非常に多いのではないかと思います。

この記事を読むと、
●エーデルマンの神経ダーウィニズム(神経細胞群淘汰説)が少しわかる
●人間はミクロとマクロのレベルで同じような営みをしていることがわかる
●自分やクライアントの可能性について考え直す機会になる


神経ダーウィニズム(神経細胞群淘汰説)

G.M.エーデルマンという生物学者はその著書で、神経ダーウィニズム(神経細胞群淘汰説)という説を提唱しています。

その名前が表すように、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの考え方を神経系の機能に応用した考え方です。

ダーウィンの考え方とは、『生物は環境に適応し、生き残りを図る。同じ種であっても、環境により外見や能力が変化し、無限の多様性が生じる』というようなものです。

これを神経系の働きに応用して考えたのがエーデルマンの神経ダーウィニズムという考え方です。

ヒトは産まれた瞬間、その後の人生で最も多くの神経細胞を持っています。そこから一生をかけて、神経細胞はどんどん減っていくのです。

多くの神経細胞の中から何が残され、何が淘汰されていくのか。それを決定しているのが周囲の環境であり、その個体の経験です。

例えば、産まれた瞬間の人は、全ての音を聞き分ける能力を持って産まれます。

日本人であっても何人であっても、人種に関係なく全ての言語を聞き取り話すことのできる基盤を持って産まれてくるのです。

しかし、その後の環境の中で必要のない神経細胞群は淘汰されてしまうので、日本語しか耳にしない環境に身を置いていれば、「L」と「R」の違いを聞き取ることもできなくなりますし、英語やその他の外国語を聞き分けることが難しくなっていくわけです。

これは、生きていく・身を置く環境に適応していくために必要なことであり、脳や神経細胞の重要な機能なのです。

脳や神経細胞というミクロでの働きと、ダーウィンの提唱した生物としての働き(進化や環境への適応)というマクロでの営みとは、共通した部分が多いのです。


二足歩行を選択したヒトは四足歩行を捨てた

繰り返しになりますが、ヒトは無限の可能性を持って産まれてきます。

しかし、その可能性の中から何かを選び、何かを捨てる、ということを繰り返しながら、環境に適応し、生きて行くことになります。

ヒトは長い歴史の中で二足歩行を獲得してきました。

全身の筋骨格系は二足歩行に適したデザインとなり、当然のこととして神経系もそれに適したようにデザインされています。

これは、それまでは移動手段の中心だったはずの四足歩行を捨てたという言い方もできるわけです。

肩甲骨の形なんかを見るとわかりやすいと思います。

ヒトの肩甲骨は三角形に近い形をしていますよね。

これは自由度もしくは可動性に優れたデザインです。

このデザインによって、肩関節は非常に広い可動域を持つこととなり、ヒトはその上肢で様々な行為が可能となっています。

四足歩行をする犬や猫、牛なんかの肩甲骨を見たことはありますか?

四足歩行をする動物の肩甲骨は、四角形に近いような形をしているのです。

これは、肩甲骨が重量を支えるという機能を重視したデザインになっているためです。

ヒトも四足歩行をしようと思えば一時的に可能ではありますが、それは非効率的な移動手段であり、長続きはしませんよね。

ヒトは長い長い歴史の中で、四足歩行を捨て、二足歩行を獲得してきたのです。

筋骨格系の話になってしまいましたが、神経系についても同様の取捨選択が行われてきたと考えることができるのです。


リハビリテーションも多くの可能性から一つを選ぶ作業

理学療法士は、歩行にフォーカスしがちです。

極端な場合、寝返りも起き上がりも、立ち上がりも十分にできないのに、歩行を改善しようとアプローチしてしまうような理学療法士も稀にいるようです。

ヒトの時間は有限です。リハビリテーションもしくは理学療法を行える時間というのは、その中でもより限られた時間です。

歩行にアプローチするということは、その他の動作や行為を捨てているということなのです。

自宅復帰のために必要な移動手段は、なにも歩行だけではありません。

そもそもベッドから起き上がれなければ、歩行だけできても自立した生活を営むことはできません。

極端な話、生活環境とご本人の価値観、身体機能といった面から許されるのであれば、歩行ではなくずり這いでの移動をメインにしたって良いわけです。

そうすれば、起き上がる必要もなく、歩行中に転倒する心配もありません。

これは極端な例ですが、言いたいのは、そういった可能性をどれだけ考え、意図的に捨てているのか?ということを考えてみて欲しいということです。

神経細胞群の数で言うと、産まれた瞬間が一番多いというのは前述の通りです。

目の前のクライアントは、もちろん産まれた瞬間に比べると、神経細胞群の数は減少しており、産まれた時点よりは可能性は狭くなっているかもしれません。

それでも、残された神経細胞群が環境に必死に適応しようとします。それが神経細胞群の働きである、というのが神経ダーウィニズムの考え方なのです。

目の前のクライアントの可能性を狭くしているのは実は理学療法士なのかもしれない、というのは常に意識して、目標設定や計画の立案を行いたいですね。


まとめ

エーデルマンの神経ダーウィニズム(神経細胞群淘汰説)から出発し、ヒトの可能性について考えてみました。

産まれたばかりのヒトが成長することも、病気やケガを負ったヒトが回復する過程も、私たちが日々の研鑽を積むことも、全て神経細胞群淘汰説で考えることができます。

何かを得るためには何かを捨てる必要がある、ということを肝に銘じておくと、自分にとって本当に必要なもの、本当にやりたい事を選ぶときの助けになると思います。

目の前のクライアントの生活を考える上でも、自分自身の将来を考える上でも、知っておきたい考え方だと思います。


より深く学びたい方へ

『脳から心へ-心の進化の生物学』
今回紹介した、エーデルマンの著書です。
神経ダーウィニズム・神経細胞群淘汰説について書かれています。
『心』とか『意識』といったものを神経系の働きから解き明かそうとする試みがなされています。


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