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【読書感想文的エッセイ】あの地平線輝くのは3

 ここからは、しばらくの間『星の王子さま』に登場する個性豊かなキャラクターたちと対話をしてみようと思う。子供の王子さまには分からないことがあったかもしれないけど、ぼくなら多少なら分かるところもあるような気がするからだ。
 王子さまが訪れた最初の星には王様がいた。この王様は、王子さまを自分の家臣と思い込んで、いろいろ言ってくる面倒くさい人物なのだが、よくよく会話を聞いてみると、実は結構良い奴なんじゃないか、そう思えてくるのである。いや、まだ素直なだけマシな大人ということかもしれない。王様は偉い。当たり前のことだ。では、どうして王様は偉いのか? この問題はさまざまな哲学者がさまざまな答えを出してきた。例えばイギリスの哲学者トマス=ホッブズは、人間社会の初期状態—つまり社会を形成する前の状態—を「万人の万人による闘争」と形容し、人は自分の利益を自分勝手に追求するために、常に争いあっていると言った。利益を求めるということは、最悪の場合、自分が嫌っている人間のことを殺してしまっても別に構わないわけだ。まだ法律というものが成立する前の社会だから困ることもない。しかし、殺人が起こると復讐される可能性がある。それに加えて他の人も殺人によって物事を解決しようとするかもしれない。そうなれば、自分の利益を追求した結果として、身の危険にさらされてしまう。では、どうすればいいのか? 最初から、殺人なんてしなければいいのだ。「お互いに手を出すのはやめましょう」というわけだ。これは、自分の利益になるからと言って、何をやってもいいわけではないよねという合意形成をしたということになる。そしてこの合意形成は自然権を国家(コモンウェルス)に譲渡するという形で行われると考えた。つまり、自分たちの権利を一斉に譲渡し、代わりに王様を立てることで社会が作られるとしたのだ。
 しかし『星の王子さま』に登場する王様の星には、国民もいなければ、家臣もいない。王様曰く、宇宙を統べる王だから、それは王様にとって取るに足らない問題なのかもしれないが。ホッブズの議論を採用すると、全宇宙の人間がこの王様に権力を移譲したことになるが、この王様は―仮に王様なのだとすると―神から権力を与えられた人物だと説明する方が、まだ説得力がある。ホッブズの社会契約説は結果的に王権神授説を下支えするものとなったが、こちらの王様はそんな回りくどい話をしなくても、神がそう命じたから、王様だから王様なんだといった程度の話で十分だろう。
    この王様は自分が人に命令できるのは、自分の命令が道理に適っているからだと言う。王子さまが座っても良いかと聞くと、王様は王子さまに座ることを命令する。こういうコントじみた会話がしばらく続くのだ。そしてこの王様は自分の間違いを認めることが出来る。その人が命令を実行できなかったのは、道理に適っていない命令をした自分のせいだと言うのである。ウン、言っていることは間違ってない、むしろすごくいい人に見える。でも、何か引っかかる。何が問題なのか? それは王様個人の問題ではなくて、もっとメタ的な、つまりこのシーンで何を伝えようとしているのかという問題である。往々にして王様が何かのメタファーとして機能する場合、それは傍若無人で腐敗した権力として描かれる。しかしこの王様にはそういった点は見えない。では、何を表しているのか? それは「孤独」ではないだろうか。この作品は全体として「孤独」が通奏低音として響いている。広すぎる宇宙の中でやっと会えた人間、でも王様は王様だから、その人を「臣下」としてしか扱うことができない。権力と言うよりも、プライドの高さと言った方が良いくらいの素朴さと人間臭さがある王様である。王子さまが星を出ていくとき、王様は王子さまに自分の大使になるよう命令する。何回、この別れを王様はしてきたのだろうか。王子さまは大人って変だと言って、星を去る。子供特有の純粋無垢で真っ白で想像力のない言葉だ。王様が自分の間違いを認められるのは、最初からいい人だったからではない。人間関係が上手くいかないことを考え、欠点を見つめ直した結果だからだ。そのことに王子さまは気付かないのだ。だから「変」という言葉で片付けてしまう、というのはあまりにもひねくれているだろうか。


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