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OVA「新ゲッターロボ」感想~6時間のアンチゲッターロボPVもしくは「ガクエン退屈男リメイク」

流石にこれ書いたら多方面に喧嘩売りそうだなと思って自重していた本音丸出しのつらつらとした感想である。かなりぶっ叩いている内容。盛大に水ぶっかけるつもりなら最初からこれを出してます。
以前水をぶっかけるにクリティカルな内容は自重して怒りをぶちまけた記事はこちら。漫画版初代ゲッターチームの本来の人物像などはこちらに詳しく書いたので、この記事では私には新ゲッターの人物や話はどう見えていたのかの内容がほとんどです。

なおこの記事には永井豪作品のデビルマン、ガクエン退屈男、手天童子のネタバレや個人的感想、解釈も含まれています。


【一行でまとめ】

最初に言おう。もしもあれをゲッターロボだと言うなれば
「川越監督はゲッターロボどころかダイナミック作品の本質を勘違いしたままあれを作り、盛大に脳天にブーメランぶっさしてるのを脚本が煽ってる」
そうでなければ
「制作者が揃ってわざとアンチゲッターロボとして構成し『これがゲッターだって?ww』と視聴者をバカにしている」
の二択であるとしか私には捉えることができなかった。
一番マシといえばマシな捉え方はタイトルこそああなってしまったものの、作った側の認識は元より「アンチゲッターロボ作品」であって「理性の無いケダモノは運命に抗えない」「愛╱理性が存在しない、滅びの決定付けられた世界」を前提に、漫画版と手天童子から反転構成させた結果としての「ブライとゴールと誰かわからん猿でのガクエン退屈男リメイク」であったという受け取り方で、これならばとても良くできている。
しかし、それはそれで皮肉ったものが最悪だとかゲッターロボのタイトルを使うべきではないとかせめてそれを明言しろとかはあるのだが(これは意図的なアンチゲッターロボとしての構成だった場合にも同じであるが)。

【ダイナミック作品の根底にあるもの】

根本的な話から始めよう。

そもそもダイナミック作品は「理性」を「人間性」のひとつと定義し、生物学的には「ヒト」であっても「人間」となるには理性を必要とする。
この思想が確立し以降のダイナミック作品の根本になったであろうエポックメイキングかつターニングポイントが「デビルマン(1972年╱永井先生作品)」である。

なぜ、あの作品のなかで人類は滅んだのかと言えば、理性をなくしたゆえの一種自滅であり、真に理性をもった(デーモンに自我を食われていないことがその証拠である)デビルマンという半人半魔の存在こそが「人間」として存続した。
しかし、あの世界は明たちが抗ったにも関わらず、最終的には理性を失ってしまい、暴力がすべてとなってしまったがためにサタンしか残らないし、そのサタンもより大きな力によって滅ぼされるという示唆で終わる。

「力の強い者が強いからといって弱者の生命を 権利をうばってよいはずはないのにな…」「ゆるしてくれ 明…」「わたしはおろかだった」

電子書籍版「デビルマン」5巻 204頁

ラストシーンでサタンが明に向けて語るこの部分が重要な作品であろうと私は考えている。

デーモンと人類とは本質的には同族食いであり何も変わらず「全ての生物は力によって食いあう存在であり基本的にはやがて自滅する」という運命を持ち、それに抗うためには「他者を思う」という「理性」をこそ必要とするという読み方も可能だろう。

デビルマンより以前に描かれたガクエン退屈男(1970年╱永井先生の作品だが中核スタッフとして石川先生も関わっている)という作品も同じ流れにある。

最初からあの世界には理性など存在しない。大層なお題目掲げておきながら、その実暴れたいから暴れているだけの(しかしそのために他人どころか自分の命すら投げ捨ててる気合い入りまくった)自己中心的なケダモノ=門土たちが、そのまま周囲を巻き込んで自滅に向かう話である。少なくとも私にとっては。
ガクエン退屈男は60~70年代の学生運動を背景に、永井先生が痛烈にそれを皮肉った作品である。
「権力で押し付けてくるやつらもクズだが、お題目掲げて暴れたいだけのお前らも同じだ」
「そこに正義はおろか義も理も無い。ケダモノでニセモノのお前たちは誰からもなにも認められずにそのまま滅ぶ」
そう言っているようにしか思えない作品だった。

1970年のガクエン退屈男、そして72年のデビルマン。(ここにはガクエン退屈男とデビルマンの間、71年の魔王ダンテも含まれるであろう。この作品が原型となってデビルマンとマジンガーZに繋がっていると思われる)
これらの流れの中から1974年ゲッターロボも生まれた。

元来のゲッターロボという作品は最初から最後まで「理性」があることを前提として展開する。

東映版漫画版共に共通する原案の時点にあっただろう「主人公は三人の個性ある若者である」という点からしても、作中東映版でも漫画版でも言及される「協調性」と「チームワーク」からしても、正しい意味での「個人主義」をコンセプトのひとつにしただろうことは想像に容易く、東映版はミチルの存在をして「自立した女性」を描き、漫画版は過酷なシチュエーションでもって「人間の尊厳」を描き続けた。
そこにあったものは性別や人種にとらわれない「人が人として生きるための尊厳」「生きる権利」「他者の存在を尊重し、自己の意思を尊重する正しい意味での個人主義」であったと私には思える。
また、作品の核のひとつである「三つの心」とは生存本能すらも理性で御して「死ぬときは一緒だ」と誓い、戦場に立ち続けた少年たちの命がけの信頼と絆であった。
そして武蔵や竜馬や號はその誓いを破ってまでも「生きてほしい」という思いがそこにあったから、仲間を残しひとりその身を犠牲にしたというそれ以上の愛情の話である。
異なる視点からのアプローチとしては、漫画版ゲッターロボには「デビルマンの再構成」という側面もあるだろう。

竜馬に了を、隼人に明を投影してのオマージュを始め、プロットまで落とした話筋を組み替えて構成している部分が多数見受けられる。
理性が失われたから一人を残し滅んだ世界の逆転、理性が、愛情があったからこそ一人が犠牲になった世界。

これらをベースにして「暴力ヒャッハー!!」「好き勝手していいんだー!」なんてマチズモ全開の暴力擁護と取れる話を展開することのバカらしさといったら無い。
上っ面だけ見て暴力性や自己中心的な考えを肯定されたと勘違いでもした猿が、まんまと「じぶんはさるでーーーーす!!」って自己紹介してるのを、元作品が後ろから「こういうのは滅ぶから」って言ってる図である。
新ゲッターは結果論として丸々これに被ってしまっている。
正直言うと原作を知ってからは、そのあまりに幼稚とすら言える痛々しさと恥ずかしさに記憶を封印しかけた。

「ガクエン退屈男のリメイク」だろうというのもここに理由があり、最初から最後まで「理性のある世界」ゲッターロボを反転させ、「理性の無い世界」を描けばそれは必然本質としてはそうなるという話である。
それはゲッターロボではなくガクエン退屈男なのである

これを気付かずに本気でゲッターロボだと思ってやっているなら「製作者が華麗に脳天にブーメランぶっさしてる」以外の何者でもないし、意図的にやってるなら「お前ら(視聴者)はこんなのがゲッターロボだと思ってるわけ?wwww」という煽りくらいにしかならないのではないだろうか。それ以外でこれをやる必要があるのだろうか。私には想像がつかないので、あるなら教えてほしいものである。

【アンチゲッターロボとしての根拠と「新ゲッターロボ」の概要】

少なくとも脚本家はアンチゲッターロボとして意図的に構成しているのだろうと私が考える根拠としては、作中の出来事の多くが「漫画版の反転」であることがあげられる。

パッと思い出せる範囲でも
父を除け者にした空手界に「貸しがあった」から落とし前をつけにいった↔自分が893に借金という「借りがあった」のを踏み倒そうとした
達人は 正気を失い博士に殺される↔正気を保って竜馬に殺される
早乙女博士の背中を 竜馬が見ている↔いない
竜馬が校舎に殴り込み↔隼人が研究所を狙う
竜馬は 相互理解の上で↔決定的にあわず 研究所を出ていく
早乙女博士に会いに行く 竜馬↔隼人
後述する過去編も、漫画版では未来を見ていることの逆転であろう。
ラストに竜馬一人だけが分離して突っ込むのも、あの台詞からすれば無印で記憶喪失になる事件(このままでは全員死んでしまうから無事な二人だけでも逃げろと分離して自分だけが残った)の反転である。

人物像もほぼ反転している。

漫画版における流竜馬は他者の生命や権利を奪い踏みにじることに対して、理性をベースにした怒りをもって抗い戦う人間であった。
神隼人は他者に優しく信頼される人間性を持ちながら、人類存続という目的のために冷徹に振る舞い続けた人間だった。
武蔵は最初は自己中心的でありながら徐々に愛を知り最終的には紛れもない自分の意思で皆を守るために身を犠牲にする。

新ゲッターは似ても似つかないというより、意味不明に自分に自信のある新竜馬はブライ、ゲッター線に執着する新隼人はゴールと言われた方がまだその人物像の本質に近い。
ベースにあるのが漫画版(と東映版)と考えると尚更、余りにも人の心が無さすぎるろくでなしばかりな上に他者へ無理解であり歩み寄りも見せず、仲が良いのは表面上だけだと設定まで使って強く言っているように思える。

そもそも新ゲッターという作品は根本設定からして「三つの心」が揃うはずがない。
竜馬以外の他二人はストッパーだというなら、竜馬以外は物語の筋としてもパイロットとしても必要ない。
これは意図的に「この話において三つの心は絶対に揃わない」とやっているのだろうと思う。
最終盤における圧倒的な戦力差、自らの死を前に縮み上がる描写も、「三つの心」は「死ぬときは一緒だ」という誓いであることを考えれば揃っているはずがない。
(そもそも今まで他人の命を軽々に奪っておいて、今更自分の命が同じ土俵にあることに気付いてひよるとは何事か。ダイナミック作品の登場人物は門土ですら同等に命をかけていたから筋が通っていたのだ。それができないものは雑魚でしかない)

原案作成に関わった人物から「三つの心」が揃うことを幹の一つとした明言すらあった作品で「心を入れてはならない」という旨の台詞があることもおかしいだろう。
本来「ゲッターロボ」には「三つの心」がなくてはならないのである。

また、割りと基本的な理屈の話であるのだがなにをどうやったって本来は協調性などを必要とする「三人乗りの機体」で「利己主義」を据えるというのはまったくバカらしい話である。
何をするにしても他人の力が必要となっていることにも気づかず「自分がよければいい」と言うなど、「自分が社会という枠の中で生かされていることにも気づかずいきり散らかしているチンピラ」の図にしかならないのだ。
漫画版武蔵のように、インフラなどひとつも整備されていない山に半年籠って生きることができるような、本当に自分一人だけで生きていける存在が言わない限り、他人に甘えていることにすら自覚の無い甘ちゃんにしかならない。
本当にそれを貫くなら「複数の他人が作り整備や操作にも他人を必要とする」ゲッターロボなぞ使うべきではないだろう。
*なお、利己主義を貫くロボットものなら新ゲッターの翌年作品となる「ガン×ソード」が基礎設定部分から丁寧に作られている。
また、「ゲッターロボは誰か一人だけのものではない」ということはダイナミックプロ公式が監修したダイノゲッターの書籍版追加エピソードで明言もされている。

そこにあるのは目的、利害の一致だけであり、相互理解には至らず、故に新竜馬は最後に身勝手な優しさめいたものを押し付けるだけ押し付けて勝手に一人で消えた。
本当に理解していたなら新隼人だけでも連れていくべきであったし、漫画版とは異なり二人を助けるために合体解除した切羽詰まった状況でも無ければ、共に死ぬ事を是としながらまだ世界に必要だと残したなどという理由があるわけでもない。
(何故か石川作品はその暴力性ばかり取り上げられがちだが、ゲッターに限らず魔獣戦線や魔界転生など人物心理が情感豊かに描かれ、その人間性を感じ取れるが故に地獄じみた様相の凄惨さが際立つという構造をしている物が多い。ゲッターであれば無印特攻未遂前の三人の会話「死ぬ時は一緒だ」を踏まえて武蔵自爆、特に隼人の反応の流れを読むとわかりやすい)

最後まで「三つの心」は揃わないし、そこに絆はおろかまともな情すら存在しない。
誰も誰のことを見ず、相互理解も無く、ろくでなしが全員好き勝手やった結果の半ば必然の話では無いだろうか。

ゲッターどころかダイナミック作品とも無関係な単体作品としてみるならば、二十歳も過ぎて社会に関わっておきながら全員メンタル幼児かと聞きたくなるほどに揃ってろくでもない(新弁慶のセクハラっぷりや新竜馬の上っ面だけ取り繕った俺様いじめっ子感は軽く腹すら立ってくる)のでどんな酷い事が起きても心が大して痛まず、ある種気軽に頭を空っぽにして見るべきアッパーでヒャッハーでドライな作品であろう。あの最後で可哀想と言えるのはギリギリ隼人くらいなものだと思う。
これは実体験なので人によるだろうが、私には居酒屋で隣り合った見知らぬ人間と二時間話したより薄っぺらい相手への理解度だなと感じた。好きなもの嫌いなもの、何を大事にしたいのかくらい一緒に生活してるなら尚更わかるはずではないのか、それほどまでに相手に興味がなくどうでもいいのかと。

そう、十中八九、彼らは自分以外の人間のことなんかどうでもいいのである

*これに関しては川越監督が新ゲッター製作時のメールマガジンで以下のように話していたという情報を当時の匿名掲示板から得た事からも「最初から彼らをろくな人間として描いてはいなかった」証拠であろうと思う。(そもそも他人様のキャラクターをお借りして身勝手に歪めておいてその言い方はどうなのかとも思うが)

新のゲッターチームを一言で例えると、バ★、キ★ガ★、チ★★★★と、川越監督が言った

【新】ゲッターロボ get6【真andネオ】

【全てにおいて上っ面で薄っぺらな話】

全部上っ面、全部薄っぺら。
作中唯一それっぽい新弁慶ですら私と弟からはこのような感想が出た。
「本当に大事に思っていたなら、どうして師匠の言葉を聞かなかった。真面目にやらなかった。ただ上っ面真似するだけなら猿でもできるだろう、お前を思っての言葉がどうしてそこまで届かなかった」
最初から上っ面にしか見えなかったのである。
セクハラを繰り返し、あまつさえヤり逃げする人間が「まとも」であるはずがないだろう。他人の気持ちを考えないからそういうことができるのだとしか私には思えない。(では何がまともだったのかと言えば「生存本能」だったのではないかとも思う)
制作04年の作品にしてもセクハラなどを許せる社会認識であったわけではない。

新竜馬もそうだった。私たちのなかで決定的になったのは彼が新宿に戻ったときの周囲の反応だった。
誰一人まともに彼を心配などしていない。別れに至っても惜しみもしない。
何故かといえば、新竜馬が誰をも愛してなどいなかったから愛されなかったのだとしか思えなかった。(ここを愛されることが当然だと思っていて真に愛さなかったから愛されなかったと解釈するなら、ガクエン退屈男での身堂「竜馬」にも幾分通じるかもしれない)
戦闘中に割と後半ですら仲間がダメージを受けただろうという時に舌打ちができる程度の絆とはなんなのか。新竜馬には仲間は足枷で本当に自分だけで良いと思ってる演出にしか思えない。
ラストシーンも結局彼のわずかな正気(っぽいなんか)を取り戻せたのは達人と同じ動作である=ここに至るまでに他二人の存在はろくに響いておらず経緯自体が無駄ではないのかとすら思った。
これは他キャラにも言えるが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の例をあげるまでもなく、悪人が気まぐれに一瞬良いことをしたことを取ってすべての行いが許され善人だと主張するには無理があるだろう。普段の行いが悪ければそれはその場の気分でイイヤツ面したかっただけにしか見えないのだ。
「本当は根がいいやつ」であるには、描写に矛盾が多すぎる。
これは昔から思っているが、「本当は根が良いやつ」は女子供を侮蔑したり弱いものいじめをして遊んだり、自ら力を誇示してでかい面なんてしないだろう。
時々上っ面だけ取り繕うただのいじめっこ、自分は悪くないと思っている性根が腐ったヤクザの鉄砲玉にしか見えなかった。

自分用メモとして追記:暴走状態の新竜馬における裂けたような口や全ての歯が牙のようなギザギザ歯など、漫画版に該当する類似描写は竜馬には見当たらない。ベースのひとつとなっているだろう手天童子やゲッターから拡大して石川作品まで広げても基本的に「敵側」には存在する。
「牙」は「喰らうもの」の記号であり、全てがギザギザの歯であるのは基本的に「理性がない存在=悪」であろう。(歯並びを脳内の理性╱臼歯と本能╱牙としての割合表示みたいになっているのが「禍」)
また、98年の小説「スーパーロボット大戦」(団龍彦=菊地忠昭さん╱ゲッターの企画から携わっている方の著作)において敵の出してきた破壊神と化している真ゲッターに使い捨ての駒として乗せられ、正気を失い身体にまで影響が出ているクローン武蔵の描写も考えられる。「血に飢えた野獣、あるいは悪魔のそれ」

おぞましいものが、モニターに映っていた。
最初、それは悪魔のようにも見えた。顔のいたるところからごつごつした突起が飛び出している。目は白く裏返り、口は大きく割れ、鋭い牙が何本も生えているのが見える。

小説「スーパーロボット大戦Ⅱ」 218頁

新隼人の方がマシである。
新竜馬への「どうしてお前なんだ」という台詞すら、ことここに至っても新竜馬の人間性ではなくゲッター線しか見ていないという決定的な断絶と私には思えた。
最初から最後まで人間には一切興味を示さないというクズはクズだが、行動原理や人間心理にブレが少なく、他二名と違って上っ面の下手な擁護をされていないだけ腹も立たない。(初期の新隼人の様子を「自分の暴力衝動を満たすために大衆を煽って巻き込み自滅に向かう」と書けばガクエン退屈男の「早乙女門土」に通じる)

川越監督の手掛けた「ゲッターロボ」派生作品は恐らくは尽くを「協調性」を「同調性」と履き違えている。特にこの新ゲッターはその特徴が掴みやすい。
新ゲッターに関してはアンチゲッターロボであるなら正しいアプローチだが、もしも本気で言ってるなら単なる誤読である。三人が三人とも自他分離も曖昧で、自他肯定ができておらず、「同調性」をベースにした歪みを抱えているように思える。
新竜馬→他人に同調を強く求めるために攻撃性や支配欲が異常に強い。善悪よりも自分の感情(好き嫌い)を優先し、押し付けようとするなどはDVする人間の典型的な類例。他人を自分にしたがる、喰うタイプ。駄々こねて押し通そうとする赤ちゃん。
新弁慶→自分の主体性をぶん投げて他人やその場の価値観に同調=依存するタイプ。自己責任で動いていないから他責的でもある。これが強く出てるのが過去編で流されるまま嫁を取り性行為にまで及んでいながらあっさり捨てる言動など。自分を他人にしたがる、食われる=奴隷が楽タイプ。親の言うこと聞いてれば良いと思ってる幼児。
新隼人→一人だけ少々異なっていて、「自分は他人ではない」という感覚(自他分離の萌芽)がために、登場時には自分に同調しない世界を壊そうとする破壊衝動となっており、それが無理であると知って世界の拒絶に移行した。言えば盛大な反抗期の完全引きこもりタイプ。

「自他分離ができていない」とは、子供の精神性である。
「自分」と「他人」を分けられてもいないがために、「自我」すら厳密には曖昧である。他人を考える力はおろか、正しく向き合うことから困難だろう。

新ゲッターの登場人物たちには理性がない。他人を考える力がない。自分で考える力がない。
強い意思(自我)とそれがための理性を持ち、命をかけて戦い続けた漫画版の人物たちですら彼らだけで運命を変えきることはできなかった。(基本的にゲッターロボという作品は「共存」が最終目的にあり、全生命の努力なしには成し得ない。「特別な誰かが世界を救ってくれる」なんて話ではない)
ならば理性すらないケダモノ一匹に運命を変えることなど不可能に決まっている。
「あの話はゲッターエンペラーに主人公を直行させるためだけの話ではないか」とは漫画版ゲッターどころかダイナミック漫画作品すら知らない私の家族の感想であったが、私もそれに近い認識をしている。

たまねぎにもなっていない。まるで紙風船である。
表面しかない中身がない、奥行きもなければ深みもない。
物語構造としても同じだった。
考えるだけ無駄なのである。

物語構造に関して決定的だったのは「過去編にはなんの意味もなかった」ことであった。
わざわざ過去に介入し、干渉したにも関わらず、それで現在にはなにも変化がない。それどころかそれ故に「それすら運命であった」と示唆されている。
正直に言おう。あそこ丸々無くていい。
ただ無駄な映像の尺と内容である。そこで人物の変化すら得られていない。全部ちょんぎってそのまま後に続けたところで問題がないのである。
物語の筋として意味がないならそこだけやりたいロボットプロレス詰めたMVかPVで良くはないか。これに意味を求めるなら「すべては運命であり、何をしようが無意味である」ということの強調にしかならないだろう、そういった意図であるなら理解できるが。
さらに言うなればあの過去編は89年に川越監督が映像化に携わった永井豪作品である「手天童子」(76~78年)の要素も多分に含まれている。「鬼がモチーフ」「多次元世界」「時空間の移動」「平安京」「過去での行いが現代にも残る逸話となる」辺りは全てそちらに存在する内容である。
先述した「悪」の記号、「全てがギザギザの歯」もこの作品の時点で完成している記号である。(多数の鬼が出てくるがギザギザの歯を持つ鬼とそうでないものがいる)
手天童子は「愛情」を中心に驚くほどに美しくまとまった話で頼光の元ネタであろうリッキーも非常に魅力的な人物だった。
どうしてあんなに魅力を消せるのか逆に聞きたい。
そもそもどうしてなにも関係ない話筋に入れようと思ったのかも聞きたい。
石川作品でオマージュされる他作品というのは無作為ではなく、話筋に関係のあるもの、ベースになった作品であるということにすら気付かなかったのだろうか。チェンゲというより、今川監督作品も基本そうであったのに。

余談だが川越監督が担当したゲッターロボ作品、特に新ゲッターは「ゲッターロボとはあまり関係がない」作品要素を入れる傾向が強く、石川作品と永井作品を総当たりしなければ元ネタを探せず非常に面倒だし、構成としてあまり綺麗ではない。
そもそも「虚無戦記」と「ゲッターロボサーガ」は繋がってはいないとゲッターロボ全集の中で石川先生が明言されているし、当時担当編集であった中島かずき氏もアニアクのブックレットにて「繋げてはいけないと思っていた」と話されている。他記事にまとめているがあれらの世界観の成立過程と意図の推測がつけば尚更に虚無戦記の要素を取り込むなどやらなくて良いことであったとしか思えない。

監督が関わった作品だからお遊びの域を越えて大きく入れているというなら作品それ自体よりも自己顕示欲や自己満足、身内ネタ的なものを優先したということではないのか。それは上っ面のリスペクトでなければなんだというのか。

これに関しては脚本時点で意図的に「石川先生が描いた愛情の物語」ゲッターロボの逆転、「愛=理性が無い世界の話」として構成する上で、「永井先生の描いた愛情の物語」手天童子の要素を敢えて入れ込んだ可能性が高い。
このつもりで、頼光の元ネタがリッキーであろうという事も踏まえれば
新竜馬:愛情の無いままに人から鬼と化して異界へ赴く↔子朗:愛情ゆえに生まれ愛情によって鬼から人として現世に留まる
新隼人:理性なき人類と地球に残される↔戦鬼:人間の負の側面の写し絵である鬼を引き連れて人間のいない星へ移住して暮らす
新弁慶:平安時代へ行ったが血を残さない、現在から武器を持ち込む↔護鬼:平安時代へ行って子を成し、その子孫が童子を守る一族(家族)として現代にまで血と武器(過去起点)が残される
というこれもまた人物の主要ラインの逆転や結果の反転であったのではないだろうか。(こうであるならゲッターロボの人物要素など最初から表層と名前にしかなかったとも言える)
清明とアイアンカイザーも、平安時代から現在に↔未来から平安時代に追いかける形でこれもまた逆転である。
先の「過去編が全て無意味であった=すべては運命で定められていた」ことも手天童子における愛情ゆえに始まり愛情ゆえに終わった一種の定められたループ構造を「そこに愛も未来もない」形で再構成したように個人的には感じる。
ミチルのデザインも東映版のミチルからどうしてああなるのかと不思議だったが、線画で見れば手天童子におけるヒロイン、白鳥美雪がモデルであろう。達人が勇介、早乙女博士は子郎の父親の逆転存在。
(同時に、ちらほらとまぶされた時代物石川作品要素は反転手天童子であるためのオマケかカモフラにすぎず特に意味はないだろう)
前述の漫画版の反転であろうという部分にも通じるが、ひとつやふたつなら偶然と言えようがここまでその文脈で説明がつくのであれば意図的に逆転の話にしていると判断するより他ないだろう。
そうであるならばアンチゲッターロボとしては正しいアプローチでその面では評価に値すると思う(私の好みであるかは別として)。

【総評:「ゲッターロボとしてはお話にもならない」】

ゲッターロボの原典である二作品と比較してみるとよくもまあここまで薄っぺらにできたものだと逆に感心するレベルに「なにもない」。
話筋やそこから得られる人物像に主に着目する私から言わせればあの話は5時間以上かけて見せられた虚無に近かった。

最初に出した設定(こいつらはケダモノでここにはなんの絆も思いもない)から予想される結論(運命を変えることは不可能であり、周囲を巻き込みながら自滅する)からなにも変わらないのであれば、それこそ4話2時間で充分ではないのか。
そういった点からの「物語を鑑賞するもの」として見た時にはこの作品より30年前の東映版を大筋拾って12話分見る方が余程実があると感じた。

勘違いされがちなので追記するが、下品で下劣でしょうもなく、意味がなかろうと私はそれはそれで価値や面白味はあると思っている。B級スプラッタゾンビ映画とかに高尚さを求めないのと同じである。ゲッターロボとは全く関係のない作品として見るならば、それと似たような区分の頭空っぽにして見る娯楽としての評価はしている。
ただそれは一貫したテーマ性を持って展開した「ゲッターロボ」として見るには天地の差がありお話にもならないと言っている。

そもそもにして原点二作品の「ゲッターロボ」は「戦争」をそのベースに置いていた。
これははっきり言うが数ある石川作品の中でも一番暴力や破壊の肯定に結び付けてはならない作品だった。
漫画版や東映版が何を描いていたのか理解した時に、私は正直新ゲッターという作品を「楽しめてしまった自分」に物凄い自己嫌悪に襲われた。
破壊や暴力を「自分とは関係ないもの」として娯楽として消費する。新竜馬をはじめとする登場人物達の姿にも重なる、破壊や暴力を自らに振るわれるものとは思わない、「死」を身近になどまるで感じていない、幸せに平和ボケした00年代らしいそれ。(最後の最後になってビビる描写があるのはそういう事だろう。結局彼らは自らの死などあの段まで感じることは出来なかったのだと思った)
ベースにあるものがわかれば、この作品におけるそれはそうできる人間への強烈な皮肉にすら取れた。「お前たちは結局暴力=戦争すら娯楽として消費している」と。ことごとくを反転させた内容もどこか悪意的で「こんな物がゲッターロボだと言うのか」と嘲笑う脚本家の声がそこかしこから聞こえるようでもあった。
(ましてこの作品が作られたのは04年。製作真っ最中だろう03年にはイラク戦争が開戦しているのである。現実世界で戦争が起きていて、自分達は元来反戦をテーマのひとつとした作品を手掛けているという状態でやるには心の無さすぎる所業だとすら感じる)

これを踏まえれば「アンチゲッターロボ」として構成した結果の「ガクエン退屈男」のリメイクとしてその皮肉と悪意さえ含めて理解できる内容ではあるのだが、あまりにも悪趣味すぎる。苛烈な生存闘争のなかでも品は忘れずにあり続けたこの作品の名前でやる事じゃ無かっただろうと思う。
その路線でやりきるなら全滅させた上で世界を滅ぼしてほしかったとも思う。「理性を失った世界は滅びる」のであれば、せめても「ダイナミック作品」としての筋は通せたのだから。

「新ゲッターロボ」を「ゲッターロボ」と無関係な作品として評価することは可能ではある。
そうした単体作品として見た時には言い方は悪いが下品で下衆で頭が悪いから面白い作品の類。特殊性癖ホイホイかよと画面の前で呟いて軽く引いてしまった程度に主に隼人に対する拗れた性癖の塊みたいなものをひどく感じたのはこの際置いておく。(これは単に私が基本的に特殊性癖に興味が無いというだけで好む人間がいるのは知っているし、別に構わないと思っているし否定する気も非難する気も無い。頼むから公共の場に流す時には成人の分別としてせめてワンクッション入れてくれとは心底思うが。嫌なら見なければいいというのは回避手段をとっている人間だけが言うべきであって、SNSのオープンアカウントで垂れ流すなど、白昼の往来堂々大声で叫んでいるような人間が言うべきではない)
BGMは特に文句はなく、映像自体も悪くはない。ロボット戦闘は頑張っているとも思う。
しかしそれにしたとて原作と比較しないよりマシであるだけで先述の通り話自体にほぼ「意味がない」のがなかなかに致命的である。
ここにはなんの意味もないと重ねてくる内容なのだからそう示してくる通りに作品自体が無意味であると断じたところで問題無いようにも感じてしまう。様々な根本設定を変えずにストーリーだけひっくり返しているがために矛盾なども多々目につき、自分に都合の悪い部分だけ棚上げしている詭弁、まさしく子供だましであるという感覚が強い。
「無意味」で「空虚」な作品としての評価が先のものになるというか。

根本的にも、その看板を使う必要性をまず感じないのだが、原作と切り離して見ろと言うのは自らタイトルを堂々とつけてしまった時点で不可能だし、姑息な逃げでしかない。
まして「アンチゲッターロボ」であることや「ガクエン退屈男リメイク」であることには一切触れていないのだ。
ビッグタイトルの名前だけ借りて好き勝手やってるという図は、兄貴の影でいきり散らかしてる雑魚チンピラのそれであってその姿勢の時点で格好よさなど微塵もない。それがロックだのパンクだの言うなら鼻で笑ってしまうくらいにはただただダサいとすら思ってしまう。

また、私には「新ゲッターロボの本質はガクエン退屈男である」と考えた時に思うことがある。
この作品が製作されたのは04年。インターネットが一般普及し、匿名掲示板が全盛を極めていた時代である。
90年代後半頃から、そういったサブカルオタク層には「アナキズム」なるものが広がり00年代前半には随分と目につく存在であった。
これは元を辿れば60年代~70年代の学生運動とも関わる話で、本来は「無政府主義」を指す思想の事であるのだが今は割愛しよう。
当時、アナキズムによる反逆を掲げて露悪趣味と暴力肯定に暴れまわるオタクによく持ち出されたのがダイナミック漫画作品であった。
ガクエン退屈男は「学生運動の御大層な名目掲げながらお前ら暴れたいだけじゃないか」と、当時の大衆を痛烈に批判する内容であった。「そこに理性の無いお前達は滅ぶ」と。
もしかすると、同じではないだろうか。
「アナキズムとダイナミック作品を盾にただ暴れまわってるだけのお前らの言動にはなんの意味もないし、いずれ滅ぶ」と。
もしもこういった意図であったのなら、繰り返すがタイトルを変え、退屈男でもやらなかった全滅世界滅亡エンドを見せてくれれば私はいっそ絶賛したであろう。

新ゲッターが好きなことはなにも構わないが「これがゲッターロボだ」などとは描いている内容からして臍で茶が沸く妄言にすぎない。様々な描写を意図的に逆転させておいて「新」とは呆れる話である。なにも新しいことなどありはしない。単に無闇にひっくり返しただけであるのに。
批評においては悪趣味なアンチ作品であるということは理解しておくべきだろう。

本音を言うと、新規がこれをゲッターロボとして見て気に入ってしまえば漫画や東映などは感触が違うので受け付けなかろうし、逆に原典を知る人間からは「わかってない」と言われるしかなく、結果的に分断と孤立化が進んでコンテンツの発展には寄与しないだろうとは最初から目に見えている。
尚且つこれをアンチゲッターと明言しなかったことから、スパロボがこの設定を本筋と勘違いしてか意図的にか構成した結果、ネット上の様々な媒体での誤情報の蔓延に繋がっていると予想もでき、コンテンツにとって害悪になり果ててもいる。(少なくとも私は騙された)

また、石川先生は作中「個の本質は内面、人間性、理性、魂にある」とおいて、その表層だけを借りて騙ることを「個の唯一性、尊厳を損なう」「個を尊重しない悪」と度々描いていた。
それを理解していたなら、このような内容は作者への暴挙でしかなく、敬意もなにも感じられるはずのものではないだろう。
そういった作者の意思を尊重していないという意味でも酷い作品だと思う。
石川先生は他人の解釈などを尊重する方だったから敢えて黙っていたのだろうし、表面上優しい言葉だって仰られただろうが、それで調子こきでもしたのか作品の私物化のような事を平然と行うなどお話にもならない。クリエイターたる姿勢としての問題である。
この作品の打ち上げの際に「いずれやるだろうと思っていましたが、ついにやりましたね」と石川先生が仰られたと南Pがアニアクブックレットにて語っていたが、私には「ついにあの世界を滅ぼしましたね」という石川先生の内心の怒りや悲しみの言葉であったのではないかと思えてしまう。
他者を尊重する事ができない悪への抵抗を描いていた作品で、作者の意思を踏みにじり、視聴者に「弱者は食われろ、強者の奴隷であれ」と語るなど馬鹿にするにもほどがあるだろう。

総じて、制作姿勢や作品解釈から問題が存在する、そもそも根本的な企画の時点からの失敗作ではないか、と個人的には思ってしまう。

頭すっからかんにして見るロボットプロレスPVとしては悪くなかったよ。それ以上でも以下でもないけど。編集してロボットプロレス部分だけにしてくれ。

〖余談〗

新竜馬のその後についてだが、おそらく物語のベースにはヤクザ映画的なテンプレがあると思うが、そのセオリーで行くと死ぬ。(ガクエン退屈男の最後もその文脈であろう)
違う見方でも漫画版でエンペラーについて語られていた事などを踏まえるとゲッペラー一直線である。まず間違いなく抗い切れない。その上ストッパーもいない。
意図的かどうかは不明だがゲッペラーから竜馬の声しかしない事や、あの世界のゲッター線には皆がかえっていると思いがたい=あの世界のエンペラーは竜馬単独の存在ではないかという部分とも合致する。
更についでに言うと最後のあの台詞から考えても、記憶喪失+敵に回る(初期案では死ぬ)展開になる。
「希望のある終わり方ではない」と重ねられているようで、総じて「確定バッドエンドでは??」という気持ちが強い。
少々邪推してしまうのはどうも「ゲッター線に選ばれた特別な存在である人間性に欠けて狂った流竜馬」単推し(ついでに隼人の評価を下げ、漫画版に強く存在した竜馬との友情や信頼もオミットしたいのではと思える歪みが目に付く)の雰囲気がすんごい脚本なので「将来ゲッペラーになる竜馬凄い!」思考ならある意味ハッピーというかトゥルーエンドな事である。

地獄変における新隼人のまっぷたつ描写も、原典の再構成元のひとつとなる「デビルマン」ラストシーン、また後年永井先生が描いた「あっけなく両断されてしまう不動明」ではないかという感触がある。(99年刊行「ネオデビルマン」1巻 188~189頁)

「力の強い者が強いからといって弱者の生命を 権利をうばってよいはずはないのにな…」「ゆるしてくれ 明…」「わたしはおろかだった」

電子書籍版「デビルマン」5巻 204頁

サタンは愛した不動明さえもその手にかけ、世界には彼一人しか残らず、後悔し涙を流した。
しかし、新竜馬は同じものを目にしながら最後に言うのは「弱いから食われるんだ」という、「自分が強くなって食ってしまえば良い」という「弱肉強食の肯定」である。(恐らくこの台詞自体がサタンの台詞の反転である)
そこには無惨に殺された新隼人への悲噴も自分の行いへの後悔も反省もなく、むしろそうして生きてきた自分への肯定「あいつは弱いから食われた」という一種の上から目線しか感じられないだろう。そこには自分が生き延びることしかない。
漫画版號の序盤、隼人は號に「戦ってはならない人間もいる」と話した。弱いことは罪ではない。戦えない人間は死ねというなら、真っ先に死ぬのは女子供である。多様性を確保する事ができない弱肉強食とは人類の繁栄の歴史の上では負け理論なのである。

この話は最初から新竜馬をエンペラーに仕立てる道筋を作る為の話だったのではないか? という感覚は拭えない。
作ってる側はどういうつもりかは知らんが、私としてはゲッターエンペラーはゲッター線における絶対悪のイメージの具現化と石川先生が全書のインタビューで仰っていたのを考えてもよい未来は見えない。
そもそも、仮にも石川作品を名乗るなら「理性の無いケダモノは滅ぶ」という文脈が全体に共通して存在する以上は、全滅して世界が滅んでくれないと石川作品として認めがたいのだが。

……結構残酷なことを言うと、結局石川作品における最終目標というのは「全ての意思あるものによる共存」であり、それを成すためには理性を必要とする図式なので、新竜馬にもそれ以外の人類、延いてはこの世界事態にまともな理性が存在している描写がろくになかった以上は新竜馬がいなくなかろうと(ゲッター線の基本性質が原作と同じであるなら、彼が死んだところで違う人間が選ばれるだけでもある)、そもそもこの世界にゲッターロボがなくこの話そのものがまるごとなかろうと、どこにも確固たる理性、他者を思う愛が存在しない以上は最初から世界は緩やかな自滅に向かっていたのではないだろうかとも思う。特別な力なぞなくても現代兵器だけで自滅は容易い。
大きな要素のひとつとして使われている手天童子にも人間の負の部分である、「理性なき人間の写し絵」である「鬼」の末路が、人間から離れとある星で暮らしたその先が描かれている。
「文明を築き宇宙へ進出しようとしたが、狂暴な性質を持つがために宇宙戦争を引き起こし滅びた」と。
少なくとも、脚本家は「愛╱理性の存在しない世界」「最初から滅びが決定付けられた世界」として構成しているように思える。

なお私はこの作品の後に原典二作品を履修した身であるが、結果巷で言われるゲッター線に選ばれた竜馬、それを特別視して持ち上げるような言説も心底無理になった
原点二作品における竜馬はゲッター線とは髪の毛一筋ほども関係ないただ肉体的にも精神的にも強いだけの人間であった事もあるが、それ以上に「なら武蔵の死をお前達はなんだと言うのか」と思ってしまった。
特に漫画版でのあれは明確に自爆特攻であった。原典におけるゲッターに乗る、選ばれるというのは言ってしまえば「赤紙」「召集令状」だった。(ただし戦うことやその末の選択を決めたのは彼ら自身の意思であることは重要で、全体主義や強制にならないよう気を使われている)
その意味を考えたことはあるだろうか。
最初にゲッターに還ったのは紛うことなく武蔵である。彼のあの死に対して「君は選ばれたんだ、特別な存在だ」とでも?
それは神風を万歳三唱で見送った第二次世界大戦の焼き直しでしかないじゃないか。あまりにも強烈な皮肉すぎて反吐が出る。漫画版無印で神風未遂の時に竜馬にドン引かれた敷島博士と変わらないじゃないか。
少なくともそう思ってしまった私には、この作品とその解釈(といってもそもそも原典からはそうは読み取れないし反証も存在するのだから実質ただの集団幻覚)はあまりにもつらい。

ついでに漫画版におけるゲッターへの同化というのは個の喪失、いわば人格の死であり、真ゲッターへの搭乗にはある種の人柱のニュアンスもあった。(號のラストは2001年宇宙の旅とその続編の台詞まで同じモロなオマージュであり、竜馬=ボーマン船長でもあるし)それゆえエンペラーになるとかゲッターに選ばれる()などということが良い事かと言えば全くそんな事は無く、むしろ永劫の戦いという地獄の始まりでしかないだろうと私は思う。
私は流竜馬という個人が好きなのでその人格が消失するという事は悲しいし、少なくとも好きで戦ってた訳でも無い真っ当な人間達の記憶を宿して延々戦い続ける事は悲劇じゃないかと思う。最強厨的な思考であるならその辺繋がるのかもしらんが、人柱を神に奉るような物も感じて、個人的には忌避感があるし正直何言ってんだかちょっと理解しがたい。あれは聖別では無く、避けられなかった犠牲だと描いてるだろうにそこも無視なのかい。
それゆえ新ゲッターの結末にも、例えエンペラーがあの割とどうしようもない人間性してた新竜馬単独の存在だったとてなんだかなーという気持ちが先行する。

とりあえずこの脚本書いた人間とはゲッターに関しては死んでも仲良くできそうにないなと思う。私は選民思想も全体主義もましてや暴力、ひいてはテロや戦争の肯定などに同意、賛同する気は甚だ無い。
ゲッター関係無い完全なオリジナルとしてならまあまあ面白いと思うので、これはアンチゲッターロボだと明確にした上でSKLみたいに登場人物の名前を全員変えて別人にしてくれればそれはそれとして評価できただろう。

それにしてもアークのアニメ化もそうだったのだが、きちんと情報を選別して作品に向き合えば、適切な資料があれば1年もかからずに核部分には辿り着けるだろうに、仕事として20年以上も関わっておきながらあの作品理解度とは、川越監督をそもそもゲッターロボというよりダイナミック作品の映像化に起用しない方がいいのではないかとすら思ってしまう。
彼の作品自体は嫌いではないが、根本的に理解できてないから何回やっても「三つの心」は描けないし、流竜馬の核も描けていないし、一号機乗りは個性殺されて全員ヤクザの鉄砲玉入ってくるのだろう。
さっと見るだけでもその設定時点で個性を重要視し正しい意味での「個人主義」を描いていた作品であるとはわかろうに、そこから理解できていないとは思いたくないが。協調性と同調性を履き違えているなどは「辞書を引け」という、話にもならない誤読にもすぎていっそ見ていて恥ずかしいすらあるが。
あんなに描けないなら原案を同じくする東映版準拠でやった方がまだ漫画版に近くなる分マシだろう。

どうにもダイナミック作品は90年代頃からの漫画版を主軸とした派生作品が公式監修が入らないと何をやってもその本質を描けていないことは気にかかり、監督か更にもっと上が悉くをねじ曲げているような感覚は覚えるが……関わったプロが揃いも揃って読解力皆無などそんな馬鹿な話はないだろう。
ましてトップやデモンベイン、グレンラガン、プロメアといったオマージュ作品ならばその本質を描けているのも、そもそも96年時点のナデシコ劇中作であるゲキガンガーでは原典の意図を理解していたのに、その後同じ人間が作画に主要で関わったチェンゲの川越監督担当時点でおかしなことになっているのも不自然だし、ダイナミック公式監修の派生作品には川越ゲッターへのカウンターなどが透けて見えもする=ダイナミックは川越ゲッターとかの方向性でやっていきたいわけじゃないだろう。永井先生や石川先生が描いている作品はそれこそ70年代から理性を重要視する一貫性が存在しているし、星先生もその流れの上にある。
どうにも気味が悪いし、ねじ曲げたい人間が川越ゲッターはじめとするダイナミック派生作品を通して「全体主義と選民思想のもとに弱者はひれ伏し文句をいうな」と啓蒙しつつ馬鹿にされているようで腹しか立たない。
ついでにいうけど、どれもこれもそうやって根本設定からおかしなもの突っ込んでねじ曲げるから脚本時点で細々噛み合ってなくてがちゃがちゃなんだよ、視聴者舐めてんのか。

しかしそれにしても、流竜馬を描こうとした結果が「早乙女門土に憧れてイキリ散らしてるチンピラ」ってふざけてんの??とも言いたい。
命の重さも知らずイキリ散らかしてるクズなんてダサすぎて門土にも及ばねえよ。きちんと読んだら門土は理解して最初から自分の命かけて他人を手にかけてたからイカれてたし肝据わってたしかっこよかったのに台無しじゃんよ。頭お花畑のイキリモブじゃねえよ。

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