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「ゲッターロボ」考察~「三つの心」とはなにか

漫画版「ゲッターロボアーク」については考察を書いたが、そもそも「ゲッターロボサーガ」はどんな話だったのか、ということを書く前にこの記事を書こうと思う。
原案を同じくする東映アニメ版と石川漫画版には複数の共通項があるがその中でも核とされたのであろう「三つの心」については作中描写と資料から高い確度で推察ができる。
そのことをはじめ、「ゲッターロボ」という総括的な作品群の中核にあった共通するものをまずこの記事で整理したい。

フランクに言うと「これさえわかれば通ぶれる! ゲッターロボの中心核!」的な。
実際ここに書くことはこの20年以上派生映像化作品でもスパロボでも何故か明確に描かれて来なかった(そもそも派生作品制作者が理解しているか不明な)部分でもある。
元々のゲッターロボという作品はこれらを主軸としていたと知っていれば、各種派生作品への理解も深まるのではないかと思う。


【 前提条件 】

ここでは原案を同じくする
・石川賢先生の描かれた「サーガ版無印~號」「学年誌版」「劇場版コミカライズ」
・東映アニメ版の無印G、劇場版

のみを考察の対象とする。
(漫画版アークは「ゲッターロボ」ではあるが「ゲッターロボサーガ」ではない話筋と考察しているため基本的に除外している。また、東映アニメ版號については精査ができていないため、現状では中心としない)
  *その他全ての派生作品はこれらを下地に作者以外の独自解釈が含まれたものであるため除外する
  (ゲッターロボ原案にはダイナミックプロが深く関わっているため、ダイナミックプロ監修作品である派生漫画の「ダイノゲッター」「ゲッターロボ飛焔」「ゲッターロボダークネス」の三作品は考慮に値するだろうが、この記事では扱わない)

【 はじめに~原案者の一人、永井隆氏のインタビュー抜粋 】

永井隆 一応、裏設定というか、幹となる設定を菊地氏と作っていたときに、とにかく枝葉はどういうかたちに変わっていっても良いけれど、核になる部分は一緒にしておこう。そうすれば、どういう扱われ方をしても大丈夫だろう、と。その根幹がまさに主題歌のなかにある“3つの心が一つになる”と、敵の設定をきちんと練り込んでおくこと。

「永井豪×石川賢 ゲッターロボ40周年記念原画展」図録 43P

ゲッターロボという作品は、永井先生や石川先生、東映側やダイナミックプロのスタッフも関わって製作した「原案」が根底にある。
ゆえに、原案を親とした時には東映版と漫画版は育ての親が違う双子のきょうだいのような存在であった。
一見、全く違うように見える二つの作品は、しかしその根底の部分で描いていることに共通している部分がある。
先の永井隆氏のインタビューも踏まえれば、それらは作品の核、もしくはそれに近い部分であっただろう。

【 舞台背景 】

「戦争」、特に無印Gはオマージュ元が「第二次世界大戦」と言い切ってしまって問題はないだろう。
主要登場人物の名前は戦時兵器や戦争関係者から取られている可能性が高い。

おそらくゲッターチームのモチーフのひとつも少年飛行兵=特攻隊にあるだろう。(首のマフラーに関しても特攻隊に限らず戦前から戦闘機乗りの装備のひとつとして知られており、そのイメージがあったのではないかと思われる)
(このゲッターロボという作品が持っていたモチーフやオマージュは同じ方向性を持つもので多岐に渡っている、あくまでも多くのうちのひとつではある)

敵となる爬虫人類に関してもその初期案を遡れば

○地底魔王ゴールとは……
地底人類(氷河期以前に地底に潜った古生人類)の首領。
地底で独自の文化を発展させいま地上の人類滅亡を目論んで活動を開始する。

DVDBOXブックレット 「新番組企画案 チェンジ・ロボット ゲッター3」

永井豪 やっぱり、敵は強く、怖いほど主人公たちに一所懸命戦う理由ができると思うんです。いくら国が違うなどの設定をしていても、人間同士の戦いになると、どうしても思い切った戦いが描けない。人間同士が思う存分メチャクチャに殺し合っていいのかとか、倫理的な問題もありますしね。

「永井豪×石川賢 ゲッターロボ40周年記念原画展」図録 24P

この図録の永井先生のインタビュー部分は、大全での対談などでも似たような主旨の発言が存在している。
これらから、元々ゲッターロボにおける敵はより人間に近い種族であったと読み取れる。
本質的には人と人の戦い、戦争を描こうとしていた、と。
先のインタビューにある「敵の設定をきちんと練り込んでおくこと」も、背景が戦争であるのならば多岐にわたり必要にもなるだろう。
だからこそ敵側の心理描写も増え、ストーリーやドラマ性重視の作風となったのではなかろうか。

東映アニメ版はGに入り「反戦的な作品」であったとは各所の説明に見られるだろうが、なぜ全体的に「反戦的」となったのかと言えば、そもそも無印時点から「戦争」を描いていたからに他ならない。
DVDBOXブックレット解説にもこう指摘されている。(製作関係者によるものではなく考察の対象外だが、DVDBOXブックレットは情報確度も高く、鋭い視点だと思ったため記載する)

 即ち、先行の『マジンガーZ』にはいささか希薄だと言える要素――“悪のロジック”を積極的に描いたシリーズとして『ゲッターロボ』と、続く『ゲッターロボG』の認知は高い。勿論『マジンガーZ』にも“悪のロジック”は存在するが、例えるなら、それは非常に「ゲーム」的なもので、民族間紛争との解釈も可能な設定を導入した『ゲッターロボ』の方が、遥かに「戦争」的だ。
 とは言え、『ゲッターロボ』が「戦争」のみを執拗に描いたシリーズだったのかと言うと、さにあらず。リョウ、ハヤト、ムサシの青春群像やタイプ・チェンジを駆使して行われるスピーディーなロボット・アクションなど、魅力あふれる「子供向けテレビまんが」であったのは、もはや説明の必要はないだろう。その枠のなかで、送り手が目指し、描こうとした「戦争」とは、何だったのか?

DVDBOXブックレット スタッフ・インタビュー序文一部抜粋


石川漫画版も原案、基本設定は共通となる。

ここまでに記載した名前の元ネタ、敵の設定は言わずもがな共通するものである。
更に、サーガ版無印Gには竜馬の神風未遂をはじめとして、武蔵の自爆、隼人の自決未遂など、戦争を想起させるエピソードは複数見受けられる。
また学年誌版には戦艦大和が登場もする。

漫画版號(91~93年)もモチーフのひとつは多国籍軍が結成された「湾岸戦争(90~91年)」であろうし、「ベトナム戦争(55年~75年)」へ言及もある。
(ベトナム戦争に関しては、隼人に関係する70年代の学生運動に繋がる話でもある。元を辿れば反戦運動とも関係し、人間の尊厳を根底とした女性や同性愛者の解放運動、そういったものも同時期の背景に存在していた)
終盤、崩壊した早乙女研究所の描写は「チェルノブイリ原子力発電所事故(86年)」が想起されよう。
(厳密には「サーガ」ではないと考察しているが)漫画版「アーク(01~03年)」についても、カムイ母の境遇背景に「北朝鮮による日本人拉致問題(大きなニュースとなったのは02年)」などがあるのではないか。
やはり戦争に関わる描写が多く含まれている。

石川先生は自身の他作品において、このように近代の歴史的な出来事を明確なモチーフとして描くことは非常に少ない。
電子書籍で配信されている石川作品90冊を全て読んだ(2023年1月)が、ここまで近代の戦争とそれに関わる事件を明確なモチーフとしたものは見つからない。自爆や特攻、自決といった明確な描写にしても同様である。代表作の多くは時代物やSFであり、それらにはこのような描写は見受けられなかった。
ならば、作者の趣味嗜好ではなく「ゲッターロボ」という作品では意図的に取り入れ描いた、ということにもなるだろう。
何故かと言えば、それが原案時点に存在した中核のひとつであったからではないだろうか。

余談に近くなるが「ゲッターロボ」の中に描かれているもののひとつは「侵略戦争に対する防衛戦争」であろう。
「元々我が国の領土であったのだから、取り戻すことは正当である」という理屈に思い出すものはないだろうか。
2022年現在、私たちは約50年という年月を経て、あの中で描かれていたことの一側面を現実として目の当たりにしていると私は感じてならない。

【 三つの心 】

ではそのような「戦争」を背景に、絶対的な指標として設けられたのであろう「三つの心」とはなんだったのか。

「三つの心」にはおそらく複数の意味が存在する。
ひとつは先輩格の(特に漫画版)マジンガーから引き続いての「ロボット」を「拡張された人体」と捉えての、その中にある「時として反発する心の戯画」。(マジンガーではパイロット=頭脳╱理性)
そして、以下に記載する「死ぬときは一緒」という命がけの信頼を三人ともが持った時を「三つの心が一つになる╱揃う」と定義したのであろう

そもそも、ゲッターロボサーガという作品は「三つの心」が揃うまでの話ではない。

(単純な理屈の話として)もしもそうであるならば、本編中はすべて過程となり、作中の出来事はあの三人でなくとも良かったとなってしまうし、最後には揃うというならチームの誰かが消えるという結末を武蔵、竜馬、號と数度に渡って描いたことも、弁慶や凱も消え規定チーム3人のなかでは2号機乗りただ一人だけが残されることも矛盾するだろう。
「三つの心」は中盤には成立し、以降「あの三人でなければならなかった」として展開する物語が「ゲッターロボサーガ」である。
(漫画版アークだけは「三つの心」が揃わない話である。その概念を根底としながら「揃わない」事に意味がある、「ゲッターロボ」ではあるが「ゲッターロボサーガ」ではない複雑な作品と考察している)

「三つの心」が成立するためには大前提がある。

「ゲッターロボは三人乗ることで100%の力を発揮する」「三人でひとつの機体に乗る」
このため、協調性とチームワークが重要であることが漫画版、東映版双方に言及される。
(協調性とは全員に主体性があり譲り合って協力をなすことを言い、その対象となるものはすべて対等である前提がある)
しかし、「三つの心」に必要なものがこれらだけであるならば、あの三人である必要はない。
早乙女博士をはじめとして、ゲッターロボに乗ることができ、協調性を持てる人間なら作中に存在し、実際に搭乗もしている。

「三つの心」とはゲッターロボという作品の核であり、「あの三人でなければならない」絶対的な理由である。そしてこれは漫画版を読み解けば記載がある。

「死ぬときは一緒といこうや」

電子書籍版 ゲッターロボ 2巻 212P

この言葉が「三つの心」の成立を意味している。
(これが武蔵からの言葉であるのも話筋には重要なのだがここでは触れない)

重ねて言うが、死を目前にした戦場で同じ機体に乗り意見を揃えて戦うだけで良いのなら、博士でも新人でも良かった。
しかし「三つの心」はそれは大前提として、「お前たちとならば共に戦い共に死のう」という「命がけの信頼」「生死を共にする覚悟」を必要とした。
だからこそあの三人でなければいけなかった。
絶対に死ぬであろう状況においても臆することなく敵に立ち向かい、地獄のような戦場で共に戦った果てに共に死ぬことをも覚悟して彼らはそこにあり続けた。
(これが如実に現れているのがG終盤ウザーラとの絶望的な状況下での対峙の場面であると個人的には感じている)
近いもので言えば「桃園の誓い」であろうか。(「三つの心」は主従となる縦の関係ではなく、あくまでも対等な横の関係であることは重要だが)

漫画版號序盤のパイロットが死への恐怖により合体を失敗するシーン、真でも竜馬や弁慶と共に搭乗した新人たちが恐怖に怯えながら殺されてしまうシーンなどはこの前提があるからそう描かれている。
「竜馬・隼人・武蔵╱弁慶」「號・翔・凱」の三人でなければ「三つの心」は持ち得なかった、ひとつにはならなかったと、そのための描写であろう。

漫画版號での「三つの心」の成立は最初の合体シーンであろう。一歩間違えれば全員が死ぬという状況において三人ともが死を恐れず他者と機体をも信じ、それを成功させた。
それを根拠として、ここに「三つの心」が揃ったとして、隼人は本来パイロットではない凱を三号機乗りとして認めた。
同時にゲッター線を使用していないにも拘らず「ゲッターロボ」足り得るのもこれを根拠としているだろう。
「ゲッターロボ」とは動力源に拘らず「三つの心」が揃うことを前提とする機体であって、同時にパイロット候補は複数存在しても(新人どころかなんなら博士や恐竜帝国兵士でも動かせはする)「三つの心」というマインドセットの問題で戦場での実力が左右されるのである。

東映アニメ版にはこれに該当する台詞は放映分には存在しない。
しかし、シナリオ時点では存在していたことが資料に明記されている。(下記引用内の太字は記事筆者の判断)

リョウも操縦席と計器盤に足を挟まれ、脱出すら出来ない状態となる。「逃げろ、このままだと一緒にやられてしまう」と、ハヤトとムサシに脱出を呼びかけるリョウだったが、ムサシは「三人一緒だおれたちゃ、死ぬ時もな」と拒否。

DVDBOXブックレット 「シナリオ解題」30話 元シナリオとの差異の部分

東映アニメ版は無印も序盤から三人ともが死を覚悟して戦う場面は幾度となく存在した。
そのため、明文化しなくても良いだろうと判断されたのかもしれない。

「ゲッターロボ」といえば「三つの心」である。
そして「ゲッターロボサーガ」という作品群は三つの心が揃うまでではなく、揃っている上で、共に死ぬことをも覚悟した相互理解や信頼はそこに存在した上で、それ以上の人間の意思や思いを描いている。

特に漫画版は無印における武蔵の最後や號ラストの竜馬の行動、そしてそれらに対する残されたものの言動などはこの武蔵から言われ、無言の内に三人で誓った約束を前提にしている。
詳細な話筋は後々別記事に書くつもりであるが、この部分さえ把握していれば概ねの理解はできるのではないだろうか。

【 派生作品での「三つの心」について 】

ここまでに述べたように原典とダイナミックプロ公式が監修した派生作品の「三つの心」の定義は上記であり、そこには揃っている。
しかし、これが公式未監修作品となると悉く揃わない。今まで読んだ中で揃っていたのは長谷川祐一先生のスパロボ漫画「竜が滅ぶ日」だけで、これは長谷川先生の考察が非常に優れた一冊であったと思う。
派生映像化作品で「三つの心」がギリギリ揃っている(3話ラストのミサイル阻止シーンが一番そうだと思っている)と言えるのはチェンゲだけである。
新ゲはアンチゲッターロボ作品といった方が近く、原典そのままの上記の定義であったならあの最後になるはずもない。
ネオゲもまた本編内だけでは満たしてはいないが、(改変はあるものの)武蔵のシーンが冒頭に存在するため初代チームは満たしていたと考えることは可能である。アークはそもそも漫画版時点から揃っていない事に意味のある作品である。
これはそう判断するしかないため明記するが、川越監督は「三つの心」の定義を理解していると思いがたい(もしくは理解はしていてわざと描いていない)映像化ばかりである。

またZ以降のスパロボのライターも川越監督と同様に「三つの心」の定義を理解していないかわざと描いておらず、そのために竜馬だけで問題がなさそうなゲッターロボなどを書いていると思われる。これが現在の誤情報や誤解の大半を担っているのだろう。

「選ばれた特別な竜馬」などという言葉は現状調査の限りではスパロボにしか存在せず、スパロボを発祥としたものである。(おそらくアンチゲッターロボである新ゲッターをベースにして他作品にまで適応してしまったがための誤解釈で、もちろんチェンゲにも存在しない)
そもそもの話として、元来「三つの心」とは三人ともが対等である事が大前提のさらに前に存在する
「三つの心が揃う」ことのひとつのベースとなる「命がけの信頼」というものは、厳密に言えば友情が発生する以前にも形成が可能で発生には「そこにいる人間たちが同等にその命を懸け相手に預ける」ことを前提とする。(ガクエン退屈男や極道兵器などを見ればわかりやすい)
この時点で「少なくともその人物間では命の重さに優劣があってはならない」はずである。誰か一人の命が特別というなら他の人間はその特別なものの命を守るために自分の命を懸けることとなり、それは対等ではないだろう。
大体にして、元々「三人ともが主人公である」として正しい意味での「個人主義」を描いていた作品でもあるのだ。
「ゲッターロボ」は東映版も漫画版も全ての敵がある種の「選民思想(選ばれた、特別な自分や種族には何らかの特権がある)」をもって他者を蹂躙する。「全体主義」「選民思想」「性差や国籍(種族)をはじめとする差別」こういったものに対しての抵抗と闘争の話であるのに「選ばれた特別な竜馬がすごい」などという選民思想の権化を肯定しては普通に考えて筋が通らないだろう。この設定があるだけで「三つの心」も複数内包したテーマ性も形骸化したお題目にしかならない。
「ゲッターロボ」を悪党同士の潰しあいの話とでも勘違いしているのならとんでもない誤解である。

漫画版においてタイールが言った「ゲッターに選ばれる」とは、竜馬や號といった特定の一人を指したものではない。この物語の根底にあるものは戦争であることを考えれば、いわば「赤紙」「召集令状」であって、それをいっそ誇らしげに話すタイールは「ぼくも兵隊さんになるんだ!」と無邪気に話す戦中の子供の戯画にも近いと私は感じた。
それがために竜馬も號も「自分の意思で乗ることを決めた(選ばれたからではない╱全体主義・選民思想の否定)」という描写があるし、そう生きることしか、自分の意思で選択決定し生きることを知らなかったタイールの人生は、だから號には「つまらない」のではないだろうか。
そういった描写が存在する漫画版がすべての派生作品のベースなのである。私には賛同しかねる。

また、スパロボでは「三つの心」の代名詞的にシャインスパークの「ペダルを踏むタイミングを合わせる」を使用しているのだろうが、
・シャインスパーク自体がG後半からの後付け必殺技
・漫画版では1回しか使われない上に、ペダルについては完全ノータッチ
・無印時点から「三つの心」は揃っていたはずである
これらから原典二作品においてシャインスパークの重要性は高いとは思いがたく、そもそもにして「タイミングを合わせる」という瞬間的なシンクロ(同調)を指すような解釈自体がスパロボ発祥である可能性が存在する。

もしも「利益や目的の一致」が「三つの心」の定義であるならば、ゲッターロボを製作しメンテナンスを行っていた博士をはじめとする多くの早乙女研究所職員や同じ目的を持って防衛を担当していた自衛隊等の存在が真っ先にその中に入らなければおかしいだろうとも指摘できる。

以上から派生作品、特に新ゲッターからスパロボZ以降の文脈における「三つの心」はそもそも存在しないか、定義が異なっていると考えられる。
この流れにはスパロボ解釈のさらに二次創作であるデヴォゲなども含まれている。原典における「三つの心」が揃っていない作品はすべてそちらの流れにあると考えて良いだろう。
(ゲッター線に関しても同様で、全て同じとして考えることは無理があろう)

では、それらの作品においての定義はどうなっているのか、というと、私には原案に携わられた方の「ゲッターロボの核は『三つの心』である」という証言が存在する以上、私が愛したゲッターロボとは考えられず興味がないため、どなたか他の方に考察していただきたい。
(嘘さえばらまかれなければ別にそれはそれでいいんじゃないと思ってもいるので単純に派生二次創作が「not for me」でそこまでやる気ないですっていう話)

【 泣かなかった理由 】

ゲッターロボの登場人物、特にゲッターチームは漫画版も東映版も悲嘆にくれ落ち込むシーンがほぼ存在しない。堪えながらも涙が流れる男泣き、瞬間的な慟哭で精々である。
これを理由にであろうか、特に漫画版などは冷酷であるなどという評価も見受けられるが、それは誤りである。
(漫画版號で隼人を「冷たい」と罵った號への泣きながらの渓の反論「なにもわかってないのはあんたよ、バカ!」を覆す理屈があるなら話は変わるが)

G移行時案プロット、劇場版、劇場版コミカライズ、G1話元シナリオに「泣くのはすべてが終わってからだ」という主旨の共通した記述があり、これを理由として双方泣いているシーンを描かなかったのだろう。
原案と劇場版含む東映版、学年誌版含む石川先生の描かれた漫画版には共通したものがあるという証拠でもあるため、以下に該当箇所をそれぞれから抜粋する。

かくて、爬虫人類は滅んだ。だが、地上へ出て早乙女研究所へ帰る三人の胸に去来したものは勝利の喜びではなく、リョウ、ムサシを失った悲しみだった。思えば、彼らの死を悲しむ余裕すらも三人にはなかったのだ。今ようやく、すべてが終わった。ジョー、ハヤト、文治の三人は、改めてリョウとムサシがすでにこの世にいない事を思い出し、深い悲しみに包まれるのであった。

ゲッターロボ大全G 強化プロジェクト資料公開!「ゲッタードラゴン登場!」 111~112P

博士「君たちと同じように、私も所員一同もムサシくんを思う気持ちは同じだ。しかし、リョウくん、ハヤトくん、今泣いていてはムサシくんの死に報いることはできん」「今まで以上に、闘志を燃やして、宇宙からの侵略者を叩きのめすんだ! 新ゲッターロボでな!」

劇場版2作目「グレートマジンガー対ゲッターロボG 空中大激突」

(グレートを出せずムサシが死んだことを自分達の責任だと悔やみ嘆く鉄也に対して)
ハヤト「鉄也 おめえがそんな考えじゃムサシが空の上でなくぜ」
リョウ「ムサシが望んでるのはないてもらうことじゃない くやんでもらうことでもないはずだ」
「ムサシの意志をうけついで人類の平和を守ることじゃないのか」

ゲッターロボ大決戦 34P「ゲッターロボ《テレビマガジン・石川賢版》グレート対ゲッターG・空中大激突」

ミチル「あなたが死んでも私達は泣かなかった、なぜだか判る?」
リョウ「それはな、俺達にはまだ仕事が残されているからなんだ」
ハヤト「すべての仕事が終って、この世界に平和が来た時……」
ミチル「私達はあなたの面影を噛みしめて、思いっきり泣くわ」

GDVDBOXブックレット「シナリオ解題」1話

彼らは過酷な戦場で戦い続けていた。悲嘆にくれる余裕などはそこにはなく、すべて終わったら、そう心に秘めて涙を堪え続けていたのであろう。

【 その他 】

漫画版と東映版に共通して描かれたものは他にも存在する。

・竜馬と隼人の関係性、同一人物性

おまけ程度ではあるが
・ゲッター線の色は緑ではなく白か赤


この記事に記載したものは全て原典となる漫画版と東映版の双方に共通し、しかしその後の派生映像化作品やダイナミックプロが監修しなかった派生漫画では描かれなかった事柄である。
せめても作品の核であった「三つの心」の意味と、漫画版に一番近いのは東映版であったことはもう少し知られていいのではないかと個人的には感じている。

「ゲッターロボサーガ」という作品群、特にそこにあった「人間の心」の話筋に魅了された身としては「三つの心」をきちんと描いた映像化作品を1本くらいは見てみたい次第である。


《余談》
「三つの心」をはじめとするゲッターロボの核は、ゲッターロボを換骨奪胎して再構成したのだろう作品には多く見ることができる。
「トップをねらえ!」とか「デモンベイン」とか「グレンラガン」とか。
「破邪大星ダンガイオー」も部分的に組み込んだのだろう。
様々なロボットものやそれ以外のオマージュ、パロディも含めた話ではあるのだが、「4人の心がまとまらなければ出力が上がらない」という設定を持っており、最終的に操作の主導権を握るロールが言うのは「皆の命は俺が預かる」という系統の言葉である。
少なくとも、これを製作した人たちは「三つの心」をそう解釈し、そこに反映したのではないだろうかと思う。ロールの声優や設定も見れば尚更に。
*実はダンガイオーには原案とされている「無敵少女ラミー」という作品があり、こちらの原作者が石川先生と記載があったり、そもそもの企画の変遷で元々はマジンガーのリメイクから始まっている事などもあの作品が少なくともダイナミック作品の血が濃い裏付けとならないだろうか

……87年にはもうこれができていたのに、どうしてその10年後以降、よりによってタイトルついたものでできなくなるのか正直意味がわからないが。

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