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漫画版「ゲッターロボサーガ」の核心考察~もうひとつの「デビルマン」

前回までの記事ではダイナミック作品における
「リョウ(竜馬)の法則」:リョウ(竜馬)は友を愛している、その対象はリョウ(竜馬)と半ば同一人物である
と、「ゲッターロボ」の血脈を考察した。そして
「最初から理性のない世界」ガクエン退屈男
「途中から理性が失われてしまった世界」デビルマン
「最後まで理性のある世界」ゲッターロボ

こういった図式ではなかっただろうか、「ゲッターロボ」は「ある種の反転デビルマン」ではなかっただろうか、と提示した。
今回は作中からの裏付けや、そうであったなら描写がなくても「デビルマン」から推測できる事などを現状私が気付いた限りで整理する。


【東映版と共通する部分について】

「最初から理性のない世界」ガクエン退屈男
「途中から理性が失われてしまった世界」デビルマン
「最後まで理性のある世界」ゲッターロボ

企画(少なくとも決定稿)段階からこういった区分であったために、「ゲッターロボ」は一種の「反転デビルマン」の要素を持ったという仮説で話を進める。

漫画版「デビルマン」については「激マン! デビルマン編」などで、その根底のイメージにあったものは「戦争」と「徴兵された若者」であったと記載がある。(文庫版あとがきにも戦争のイメージがあったことには触れられていたと思う)
そのため、その「デビルマン」の要素を汲んだ「ゲッターロボ」では「戦争(第二次世界大戦)」と「航空隊(おそらくはその中でも特攻隊)」を全体のイメージベースのひとつにおいたのではないか。

初期案での恐竜帝国についてはこのように記載がある。

○地底魔王ゴールとは……
地底人類(氷河期以前に地底に潜った古生人類)の首領。
地底で独自の文化を発達させ、いま地上の人類滅亡を目論んで、活動を開始する。

「ゲッターロボ」DVDBOX特典ブックレット 「チェンジ・ロボット ゲッター3」企画案

デビルマンにおけるデーモンは氷河期の到来により氷に閉じ込められたとされている。そのイメージはダンテの「神曲」にある地獄の最下層に悪魔が氷づけにされている姿にある。
かつて地上で繁栄し、氷河期の到来と共に地下に潜み、今再び地上を取り戻そうとする種族。
滅びたはずの過去の先住民が復活して人類世界を侵略する。

大全などのインタビューにもあるように倫理観の問題などで、後に恐竜(やはりかつて繁栄していた種族)をモチーフに「爬虫人類」と変更されたのであろう。
漫画版においては地上侵略の理由についての台詞が、デーモンの説明をする飛鳥了の台詞の一部とよく似ている事、恐竜╱デーモンが人間を食うという共通項などもある。
またダイナミックプロ公式監修のダイノゲッターにおいても、恐龍帝国の描写に「コモドの台詞の主旨がデーモンと同じ」「ドラゴのメカが形態模写」「グールはダイタンと融合」とデーモンの要素をどこかに持っている。
これらから「ゲッターロボにおける敵のベースはデーモンであった」のではないかと推測される。

飛鳥了→流竜馬(流竜之進)≒神隼人(犬神隼人)←不動明(外見や性格などは入れ替わったが、核の構図は変わらずこうである)
もしも、最初からこのつもりであったなら、名前の元ネタについても別の道筋が見えてくる。

愛称の更に前時点で竜と神と巴が決まっていたのではないか。悪と神と三つ巴。混沌とした世界での調和を描こうとするなら理解できるモチーフの並びではなかろうか。
そして「神」と「明」ではウルフガイシリーズの主人公と同じになってしまうので、第二次世界大戦の兵器からモチーフを取り愛称とした。(武蔵はこの時点で戦艦武蔵で海で柔道とかっちり固まった)
決定稿ギリギリで設定を入れ換えた際に三人の名前をデビルマンの二人の「姓二文字・名前一文字」を逆転させて「姓一文字・名前二文字」で統一した。

同時に、この二人のキャラクターデザイン細部に反映されている可能性も高い。
・竜馬の茶髪青目→飛鳥了のハーフ設定(以前別の記事にも指摘したが初期案に明確なガッチャマンなどのタツノコプロ作品の影響も考えられる)
・竜馬と隼人のパイロットスーツの共通意匠→コンビ(正反対の同一人物)示唆
・竜馬のパーソナルカラーの赤→「赤い竜」新約聖書での黙示録の獣、魔王サタン=飛鳥了
・隼人のパイロットスーツの黒→不動明の服の色

また、竜馬のパイロットスーツの「緑」は東映版デビルマンの肌色であったかもしれない。

漫画版で二人にハイネックの色違いが見られる(隼人に黒が多い)のも、パジャマの元もデビルマン(東映版含む)だろう。漫画版の不動明と言って思い浮かべる服装は黒いハイネックではないだろうか。飛鳥了も白いハイネックを着ている。

(ここまで書いてハッとしたのだが竜馬役声優の「神」谷「明」さんは元々隼人役でオーディションを受けていた、という話があったはずで、それも真偽が定かではないといえこの一連の流れに符合するのはなんだかいっそ怖い話である。隼人役で受けた時には性格が入れ替わる前だったなら……?)

*何処にメモとして残しておこうか迷ったのでここに書くが
「2号、隼人、赤いマフラー、戦闘服における身体の横ライン」
はアニメと特撮の違いはあるが同じく東映で製作され、永井先生がアシスタントをされていた石ノ森先生が漫画を描かれた「仮面ライダー」(71年~73年)における仮面ライダー2号、一文字隼人がモチーフであった可能性があるだろう。(この服の特徴は後に1号ライダーと同じになり、ラインの本数と手足の色の違いなどとして差別化されるし、漫画版の内容を考えれば尚更に1号と2号の両方かもしれないが)
仮面ライダーとデビルマンには「敵と同じ力を持ちながら人類を守るため裏切り者となる」共通項もあり、少なくともデビルマンが仮面ライダーを意識していなかった可能性は著しく低い。仮面ライダーがデビルマンに影響を与えていたというなら、これを双方取り込んだというのも不思議ではないだろう。
そう考えるならば首のマフラーの他、竜馬と隼人で同じ動きやポーズをしている「別人だが同じである」示唆の方法の根は東映版1号2号にあるかもしれないし、漫画版後半における竜馬の「感情(怒り、悲しみ)により浮かび上がる顔の傷跡」は彼等の改造跡がモチーフであったかもしれない。目の上を走る傷は「隼人」のものであったことも気にはなるが。
また「改造(されかけた)人間」「起動の切っ掛けになるのは(対象こそ本人と隼人の違いはあるが)電撃」というようにデビルマンと並んで話筋にプロットからの再構成が含まれている可能性も存在する。
隼人が「富豪の息子」であること、漫画版においては「文武両道」の「科学者路線」にあったことも本郷猛から来ているかもしれない。
同時に彼等の戦闘服のモチーフは「当時子供に知名度が一定あった作品の主人公たち」にあり
竜馬:デビルマン(72~73年)、隼人:仮面ライダー(71~73年)、武蔵:赤胴鈴之助(アニメが72~73年)
であったかもしれないという可能性も見える。

2023.10.15追記
また、さらに遡ると
石川先生にも永井先生にも影響があったと思われる白土三平先生の代表作「カムイ伝」も引っ掛かる。
1964~71年『月刊漫画ガロ』 第一部
1965~67年『週刊少年サンデー』に『カムイ外伝』不定期連載
こちらに「隼人」と「竜之進」の名前があるし、そもそも主人公の「カムイ」が「非人部落の出身。自由と誇りを求めて忍者になる。しかし、忍者の世界の非情な掟に馴染めずに抜け忍になる」設定持ちの双子存在のため、こちらの影響も考えられるが未読のためメモ止まりとする。

【もうひとつのデビルマン】

「最後まで理性のある世界」ゲッターロボを描く上で、石川先生は「途中から理性が失われた世界」(不動明は理性をもって抗い続けたし、飛鳥了=サタンも最後には愛が残っていたと読めるため、より正確に言えば「理性が抗いきれなかった世界」であろう)漫画版デビルマンをそのベースのひとつにおいた。
そして、元の「デビルマン」をプロット状態にまで落とし、そのカードを組み替えるようにして、状況に合わせて(主に理性の有無での判断だろう)意味合いを逆転させながら再構成したのだと思われる。
そのため、この読解には必然的に「石川先生は漫画版デビルマンをどう読んでいたのか」も見えてしまうだろう。
あくまでも石川先生はこう描いていたのだろう、という推測にすぎず、それが合っているかはわからず、更に永井先生の意図としてはまた異なっていたかもしれない(要はこれが正解だとは限らない。作者から明言が存在しない以上はあくまでもひとつの可能性でしかない)ということは念頭に置いて進んでいただきたい。
ついでに、ここで記載しているのはあくまでも「作者意図とその思考経路を辿る」という視点において私が出せる考察であり、世に出た作品に対しての「個人の解釈」となると正解不正解の話ではそもそも無いのだということは注意願いたい。明らかな誤読や捏造は違うだろうとも思うが。

《登場人物は「誰」だったのか》

流竜馬→飛鳥了の核+不動明の性格╱思考と外見特徴
神隼人→不動明の核+飛鳥了の性格╱思考と外見特徴

これまでの記事でここまでは説明をした。
この二人の元となった漫画版デビルマンの二人は
飛鳥了:実はデーモン族(厳密には更に異なる神の一族だが)で人類に擬態したがために恐怖や愛を知り、人間に近くなった
不動明:元は心優しい人間であったが、デーモンと融合してデビルマンとなった
という設定を持ち、異なる方向から境界線上に近くなった、双方が共にデビルマンである存在と読むことができる。

しかし、「ゲッターロボ」は「三つの心」の物語である。
三人目は、武蔵は誰だったのか。
二人がデビルマンであるなら、三人目もデビルマンであるべきではないのか。
ここで東映版「デビルマン」を思い出してほしい。
東映版不動明(アモン):元はデーモン族であり、人間の体を得て牧村美樹に恋をしたことから人間に近くなる(周囲への愛=理性を獲得していく)
こう書けば東映版明は漫画版飛鳥了と似通った存在である。
おそらく、漫画版における武蔵のベースはこの東映版の不動明(アモン)だったのではないだろうか。
これならば流竜馬をブリッジとして、三人ともがデビルマンであり、同一人物である、という構図である。
ここに関しては正直東映版デビルマンを視聴後に、デビルマンの構造を考えていてはたと結び付いたもので確証とも言えるほどのものは持っていない。
上記のアモンの流れと武蔵の流れが一致すること以外には、神風未遂時の「搭乗前に怪我を負う」「搭乗して傷が開く」はアモンの「変身前におった傷が変身後にも残る弱点であり、変身╱巨大化すると傷が開く」ことのオマージュではなかろうかとは考えているがその程度である。
ただ、武蔵が竜馬と同じように「元々はデーモンの論理をもっている」存在であることは後述のように確かだと思う。

そして「アモン╱武蔵」が一目惚れした(最終的には真の愛情を持った)対象を「東映版美樹╱ゲッターロボ」と置いた。
何故ミチルではなく機体に置いたのかと言えば、「リョウが同性を愛した」ことにも共通する「性愛や恋愛によらない愛情」また「異性愛へのカウンターのひとつ」という可能性も存在しよう。

この記事では以上の仮説で進めようと思う。

《デーモンの特徴を持つものたち》

弱さは 死を意味する 強い者だけが生きのこる力の歴史だった!

電子書籍版「デビルマン」1巻 54頁

「デーモンは戦いが生きがいなんだ!」「生き物を殺すのがよろこびなのだ!」「デーモンの心に愛はない!」「まさしく悪魔だ!」

電子書籍版「デビルマン」1巻 76頁

デーモンという種族はこれらの台詞からもわかるように「力がすべて」の種族である。その融合能力からしても、強者が弱者を取り込み、食い、強くなる=進化する。生き残るためには強くなければならず、強くなる=他者を取り込むためにも戦うことを前提とする。誰かから奪い続ける。そうせねば生きていけず、それが生き甲斐となる種族。
それゆえ、そこに弱者、他者への思い=愛、理性を持つことが非常に難しいのであろう種族。

ゲッターロボ作中では、まず敵となるものたちが、多かれ少なかれのこの特徴を持つ。愛を持たず、理性を持たず、他者から奪い続けるものたち。
そして、その特徴ゆえに、他者を同等の存在と見なさないために、他者を見下す。自分は特別だから、他者は劣っているから奪っても良いという「選民思想」となって表れる
(この敵の持つ理屈は石川作品全体に共通するものでもある)
無印の最後、武蔵の自爆から恐竜帝国の撤退にかけて、爬虫人類側、バット将軍が驚異を感じるシーンや帝王ゴールの最後など人類を対等の存在と認めかけていた描写が挟まれている。
彼らが全滅を免れていることの理由のひとつはおそらくここにあって、他者を対等に認めて「共存する」可能性が残されていた。(基本的に侵略への抵抗であって引っ込んでさえくれれば追い討ちはかけない人類側の基本姿勢も大きいだろう)
一方の鬼は完膚無きまで叩き潰されたのはこういった描写が存在せず、他人を支配したり操作することしか考えない、共存は到底望めない、侵攻してくる以上は倒すより他無い存在として描いていたためではないかと思う。

「元々は」このデーモンの出身となるのが竜馬と武蔵である。
「強くなることこそが男の生き方」「強いものを倒す」ことが彼らの目指した武道であったと竜馬の出自では語られる。
この論理はデーモンが持つものであるが、竜馬には他者を思う「理性」が存在している。そのため、弱者を戦う対象とはせず、強いもの=他者から奪って強くなったものを対象としていたのではないだろうか。そして誰かを支配しようともせず(作中通して押し掛け弟子などはいても手下などが存在しない)、奪おうともしなかった(敵討ちのシーンからそうだが必要以上に痛め付けたり追い討ちしない)。
飛鳥了の核、出自を持ちながら、完成とした人格としては、怒りをもって抗う不動明に近くなっている。
一方の武蔵には登場時は「理性」が薄い

武蔵「こいつらを支配してるのは力だけらしいや」「強い奴には絶対逆らわねえんだ」
リョウ「まるでけだものと同じだ」
武蔵「こらっ!!」「しっかり見張れよ」
猿「ごほっ」
武蔵「な」「素直なもんだろう」
リョウ「ふうん」「奴らがおまえに従うのがわかる気がするよ おまえ ゴリラそっくりだもんな」

電子書籍版「ゲッターロボ」1巻 275頁

デーモンの論理を持つ「けだものと同じ」存在に似ているゴリラに「そっくり」だと。そのため武蔵はけだものを倒して支配する事も行う。
怪我の手当てやゲットマシンの修理手伝いを始め、武蔵は素朴な善性や正義感は持ち合わせているのだが、リョウや隼人のような明確な「理性」には届いておらず、そのためこの話の最後では数多の犠牲が出たことに怒るリョウ達はそっちのけで自分が惚れ込んだゲッターロボに夢中となっている。他の二人とは違い世界の平和が真の目的ではなかったのだ。まだ美樹しか目に入っていない序盤の東映版明(アモン)のように。

《神隼人と「隼人の校舎」》

流竜馬と巴武蔵は元々はデーモンの論理を持つもの達である。
しかし神隼人はこれに該当しない。
なぜかと言えば、彼の核は漫画版不動明であり、元々は心優しい人間であったが、サバトを通ってデビルマンとなり、飛鳥了の性格に近しくなった人物だからと考えられる。

「隼人の校舎」はガクエン退屈男における学生運動の狂乱の文脈を持って、サバトに見立てた話だったのではないか。

だから、神隼人だけは「死の恐怖」に「理性」を失う。
核が漫画版不動明であるために人間からデビルマンとなる過程を描かれる必要があったのではなかろうか。
「力を得るために理性を捨てようとしたが捨てきれず、恐怖でこそ吹き飛んだ」
この校舎エピソードでの隼人の顔が特徴的な前髪が無かったりと一定していないのは、不動明のサバトでの様子に寄せて描いている部分もあったからだろう。
神隼人の核は不動明にあるが、立ち位置は飛鳥了でもある。そう考えれば、覚悟の足りなかった生徒の粛清は飛鳥了がデーモンを呼び出すために血を求めたことのオマージュだったかもしれない。
この一連のシーンでの隼人が引きつった、極限状態にある表情をしているのも、元々はそういった人間ではなかったからこそ精神的な負荷が凄まじかった事を表しているだろうし、このエピソードの後、後年に至るまで細々と彼の優しさが描写されたのも「元来の性格はデビルマンとなる前の不動明」のイメージの前提があったからではないか
また、彼に与えられたイメージのもうひとつの人物は「三泥虎の助」であるが、この人物もまた見た目は恐ろしいが内実は優しい人物であったのだろう描写が存在する。化け物と迫害されたものたちを庇護していたのだろう「心のやさしいご主人」と言われ、身を呈して庇われる。これからしても表面上の冷酷さと内面の優しさのギャップがある人物だったのではないかと。

そして順番は前後するが
「(無自覚に愛していたがために)リョウが明╱隼人を同じ地獄に引きずり込む」
「リョウに被せられたものの中で敵がどんな存在かを知る」
不動明がデビルマンになるまでのエピソードプロットを組み合わせて、隼人の校舎を描いているのではないか。

他にも
・リョウが明╱隼人を迎えに出向く←デビルマンの冒頭
・リョウが傘を持っていて武器として使う←デビルマン3巻デーモン狩り
・サバト╱狂乱の最中にデーモン╱爬虫人類が外部から侵入し人類を惨殺する
・隼人を背負って逃げる→美樹を背負って逃げる明?
と言った漫画版デビルマンと共通するものも見られる。

また、このエピソードには少々気になる点がある。
隼人を迎えに来てからどうもリョウの理性が薄いのである。隼人以外の生徒の心配をしていなかったり、隼人に対してここ以外では誰にもしなかった強制的な言動をする。
運命の片割れを見つけて内心ウキウキでテンション高く隼人以外目に入って無かったという解釈も可能ではあろうが、
もしかすると、石川先生は明がデビルマンになることを決め、リョウと涙するあのシーンなどには、リョウに確かな「真の愛」「理性」があると考え、反転の構成をしたのかもしれない、とも思うのである。

《武蔵の最後まで》

三人の説明をしたところで、武蔵の最後までで気付いたことを並べてみる。

そもそもゲッターロボという機体自体に「デビルマン」「理性持つデーモン」のイメージがあったために、変形合体がモーフィングのような形(メタモルフォーゼ)なのかもしれない。
主人格が弱者を食って自分のものと取り込む(食う)のではなく、三人ともが並列してひとつの身体の中に存在し、入れ替わり立ち替わりその能力を使用するようなイメージ、「共存」のシンボルも見えてくる。
(このイメージは魔獣戦線における慎一の能力にも通じる。明確に相手を食うことと、その存在の自我を残しつつの一体化のニュアンスの違いも明確にならないだろうか)

最初の早乙女研究所襲撃での「人を操る本来は下等生物のトカゲ」←人を操る本来は下等生物の大蜘蛛
敵に支配され理性を失い焼き殺される達人←敵に支配され理性を失い焼身自殺した飛鳥了の父親。「リョウが敵を知るきっかけとなる」「敵による最初の身近な被害者」も共通する。
大雪山トラック運転手のシーン←シレーヌ編冒頭トラック運転手のシーン
大雪山での隼人の台詞の主旨「人類という種を残すためにこの命は切り捨てる」↔飛鳥了「お前一人生き残らせるために人類全体は見殺しにする」(+ガクエン退屈男の身堂竜馬「人間の社会はけだものを必要とはしない」?)
巨大クラゲ←ゲルマーではないか? であるなら、地リュウ一族終了(三つの心が揃う)までがシレーヌ編で、ニオンがシレーヌに相当する存在だったから美形なのかもしれない。牧村邸の夜から始まり日が上って終わる元構成をゲルマー=クラゲを昼に持ってきて早乙女研究所の夜から連続して日が上って終わりとしているとも考えられよう。
クラゲ突入時の「エンマ様」の台詞はサバトへの扉を開けた時と同じ「地獄への案内人はリョウ」と読める。

リョウ記憶喪失からの「三つ巴」←アーマゲドン編
ゲッターロボは理性ある世界のため、デーモンと人類とデビルマンの三つ巴ではなく、恐竜帝国と百鬼帝国と人類(代表となる三人にイメージが与えられているデビルマンは真に理性持つ存在)と変換されたと考えられる。
自分が人間であったことを忘れる(記憶喪失で理性を失う╱隼人の台詞「ケダモノの目」「リョウじゃねえ」)流竜馬↔自分がデーモンであったことを思い出す飛鳥了
ここまでで配役が見当たらない漫画版美樹が漫画版ミチルであった可能性もある。(そうであったなら武蔵=東映版明╱アモンがミチル=漫画版だが美樹に恋愛感情を抱く形にもなる)

そして武蔵の最後。
流竜馬:自分が人間、流竜馬であることを思いだし「もっと早く思い出していれば」「許せ」
飛鳥了:自分が人間と同じ存在であった(やってたことが同じ)ことを思いだし「気付くのが遅すぎた」「許して欲しい」

反転しているならば、本来はここで死ぬのは流竜馬であった
初期案ではリョウと武蔵を死なせようとしていたことが大全Gの資料から読み取れる。
最初は「三つの心」の意味合いも考え三人ともを死なせたかった?(石川先生以外の描いた学年誌版の元?)→隼人だけは殺したくないと早々に東映勝田Pから入り、ダイナミック側提出のリョウと武蔵の初期案となる。本来生き延びていた人物(飛鳥了と東映版アモン)と死んでいた人物(漫画版明)を逆転させるならこれで綺麗に収まる→リョウを死なせるかどうかでダイナミックプロVS東映+TV局の壮絶バトル(再放送が4週挟まっていたり、漫画版も一度第一部完状態で間が開いたのはこのせいかもしれない)→死ぬのが武蔵だけになる
と、このような経緯だったのかもしれない。
しかし、結果として死ぬのは武蔵だけとなったことで、石川先生は漫画版デビルマンのラストを反転させずにそのまま持ってくることとした。
飛鳥了→流竜馬≒巴武蔵←東映版明(アモン)
この構図であれば、あのシーンは漫画版デビルマンでの飛鳥了(流竜馬)が不動明(東映版明=武蔵)に語りかけるラストシーンとなる。

ゲッターロボの一度目の終幕はここ(武蔵の最後と恐竜帝国の顛末)であるというのも、この意味合いを含んで二重となっている。

《G以降》

二重の意味で綺麗に一度終わらせてしまったせいであろうか、壮絶バトルでの予定変更に思うところがあったのか、理由は不明だが無印のように一年通した話筋ではなく、ここまでで使用しなかったデビルマンの要素を拾いつつの短編エピソードを積み重ねる形となったのだろう。

なお、大全Gの移行時初期案に、百鬼帝国は死体蘇生術に長けていること(これが號でのランドウのゾンビ兵士となっていると思われる)、鬼は常に人間社会に身を置いている記載があり、人類に理性がなければ悪魔狩りならぬ鬼狩りが始まっていたかもしれない。

ドラゴン(竜)、ライガー(虎とライオンのネコ科)、ポセイドン(??)
このポセイドンは「バビル二世」からではないかと名前の元ネタ推測時に記載したが、流竜馬の声優=バビル二世の声優であり、1≒3の構造であったなら連想ゲーム的に取り込まれても理解できるかもしれない。
声優の主演作から連想的に取り込まれている作品の可能性は、
流竜馬の使うピストルが何故か飛鳥了のライフルではなくリボルバーに多い→「荒野の少年イサム」のイサムが使うコルトSAAにもあると思う。(やはり主演声優が同一)

前回までの記事で魔王鬼の竜二は「もう一人のリョウ」であると指摘したが、そうであるなら竜二は流竜馬が持ち得なかった役割「隼人を学生運動というサバトに招いた」人物でもあっただろう。
(この「もうひとりのリョウ」を翻案したのが東映版暴竜鬼「イサム」の可能性はないだろうか)

細菌兵器のエピソードは
バイクに乗って銃を撃つのはリョウ
理性があるはずの人類に理性がなかった↔愛を知らないはずのデーモンが愛を知っていた
と、シレーヌ編のエピソードの要素が見受けられる。

アトランティス編
ここでもやはり「三つ巴」となるため、アーマゲドン編のイメージと推測される。
そうであるなら、ウザーラの登場後に隼人と弁慶が捕まり、リョウが全てを知って「アトランティス人は鬼と同じだ」と激怒する場面は、牧村夫妻が捕まりその無惨な遺体を前に「人類こそが悪魔だ」と激怒する明のオマージュではないか。
ウザーラの上に仁王立ちのドラゴン←最終決戦でヤマタノオロチの上に腕組みして立っているサタン
(ゲッターロボはパイロット=機体の性質が強いためドラゴン=リョウ←サタンであろう)

ウザーラにはマジンガーの機械獣のイメージも取り込まれているようには思うが、最終決戦でサタンの乗るシンボルであったなら、どうやっても他者を尊重できない、愛を持つことができない悪(鬼)を倒し、ウザーラの強大すぎる力は宇宙へ見送って理性あるものたちでの共存を示唆する終わりであったかもしれない。
(そもそも「ゲッターロボ」という機体自体が「ひとつの枠組みのなかで三人のデビルマンが食い合わずに並列存在する」共存の象徴であろうし、この終わり方というのは號の最後にも通じている)

《號と真》

ここまでで記載したように、「ゲッターロボ」は基本素地がデビルマンであると思われるが、同時に血筋として近いものやベースとしたものも取り込んでいる可能性が高い。
そのため、後年になるほどに構成要素は増えていると考えられる。
追加エピソードも含め東映版のイメージや内容からだろう描写が増えていることもその一つで、VHSなどの一般家庭への普及は概ね80年代以降ほどの話であり、それまでは映像媒体を保存、見返す手段というのはひどく限られていた。Gまでの連載当時は見返すことも難しかったろうが號までにその環境が整い漫画に多く反映されるようになっていったかもしれない。
基礎:デビルマン、東映版と漫画版の無印G
ついで重要:仮面ライダー、ガクエン退屈男╱バイオレンスジャック、マジンガーシリーズ
部分使用?:2001年宇宙の旅シリーズ(號終盤竜馬の台詞)、宇宙戦艦ヤマト(74年。テキサスはそうでは? ゲッターと同じく戦争をベースモチーフにおいた作品)、伝説巨人イデオン(80年。「ゲッターとは」の元ネタ可能性「イデとは」。人の手に負えない力)、トップをねらえ!(漫画版Gまでを主軸のひとつに数多のオマージュを含んでいた89年作品。チェンゲ4話以降の元ネタでもある。真などでのゲッター艦隊のイメージに宇宙怪獣の群れ等がチェンゲを経由して取り込まれた可能性もある)、「幼年期の終わり」もあらすじが気になる
……石川先生の脳内はいったいどうなっていたのか……ともあれ、こういった関連する作品の要素で再構成していったのだろうとは推測できる。
また、これらの他に74~91年までのデビルマンやゲッターロボに関連するダイナミック作品も含まれている可能性は存在する。
*石川先生が取り込んでいたものは基本的に「執筆作品(対象)と何らかの関係や共通項がある」ものに限られ、尚且つ「意味がある」使い方をしている。イメージの塊とでも言うような作品構成を持っていることもあり、イメージの補強に繋がるものはあっても読解の邪魔となる使い方はしていなかったと思われる(おそらく今川監督のチェンゲも同じ作り方をしている)

「ゲッターロボ號」は「マジンガー」を製作していた方が東映側の企画、プロデューサーであった。
これも関係したのか、王道復古的なスーパーロボットものを目指した際にマジンガーも取り込んだのかはわからないが、ゲッター線は使用されず、合金の方に近未来技術の主軸があったり、原案の時点からマジンガーの要素を濃く併せ持っていた。
ランドウとラセツやヤシャも原案の段階からドクターヘルとあしゅら男爵などがベースにあろう。
気になることには號とほぼ同年連載開始であったらしいマジン・サーガ(未読なのでネット情報でのものになるが)の敵が「生体機械獣」となり、メタルビーストと同じ漢字での名付けになっていること、どうもデビルマンやゲッターの要素を持っているらしいことがある。
このマジン・サーガとゲッター號での二作品でゲッター(反転デビルマン)とデビルマンとマジンガー(デビルマンと同じで元が魔王ダンテ)が先生方の中で明確に繋がったのではなかろうか。
この作品は「火星」を舞台ともしており、漫画版號ラストを考えれば尚更石川先生がその内容を汲んでいた可能性が残る。
(また、この一連の流れに似た複雑な成立をしてゲッターロボとマジンガーシリーズの両方の要素を併せ持っていた作品が「グレンダイザー」である可能性が存在する。この時点から両シリーズには要素が混在する素地があったのかもしれない)

漫画版號に話を戻そう。
石川先生にとって「ゲッターロボ」とは「三つの心」を核とした「もうひとつのデビルマン」であったのだろう。
そのため、リョウは一時姿を消し、隼人を出した。
百鬼帝国がスライドした存在、ランドウ=デーモン
隼人╱明が率いる理性を持つ存在の集団=デビルマン軍団
同じ人類であるにも関わらず、差別する人々=悪魔狩りを行う人類
アーマゲドン編の翻案として進めようとしたのであろう。

隼人の再登場時には、竜馬との同一人物性の示唆として顔の傷が持たせられたのではないかと考えているが、同時に「飛鳥了」の外見特徴の「美少年、両性」と共に「三泥虎の助」の外見を取り込み、長髪の女性紛いの美形に黒スーツともなった。(虎の助は顔の半分が焼けただれた、身堂竜馬と同じ顔)(両性は無性に反転していた可能性もあると思う)
竜馬との立ち位置を入れ換えての信一エピソードで「身を呈して庇われる」のも三泥虎の助由来ではないだろうか。

また隼人の戦闘服モチーフ、ひいては漫画版の構成要素に「仮面ライダー」がある可能性を最初の方に記載したが、
隼人に早乙女博士、竜馬に敷島博士の構図→両博士が漫画版仮面ライダーにおける執事、「じいや」であった立花藤兵衛
であったとするならば、號になってこの立花が橘に漢字を変えて博士の名前になったのではないか。
隼人が司令塔になる→遠く離れた「一文字」に通信で会話、指示を出すのは動けない本郷
最前線で直接戦うのは難しい身体→本郷が新しい身体を得る前の状態
竜馬にもある身体中の傷跡=改造跡
こうであるならば、「一文字號」の名字は「一文字隼人」に根本があり、分割されたひとつの名前と漫画版仮面ライダーの設定から一文字號=神隼人=流竜馬の構図ともなる。

そして竜馬≒號、隼人≒翔、武蔵≒凱と示唆して、再び「三人のデビルマン」での再スタートを切る。

「核」と間違うほどの自爆メカの爆発╱神の力とランドウ╱デーモンの宣戦布告
国╱人類に背いてゲッターロボ╱デビルマンが離脱
差別╱悪魔狩りを行う人類と血みどろで殴りあって対等に認めあい、連合国軍に移る(理性がある世界なので人類とゲッターチーム╱デビルマンは和解に到達した)
そして、翔が「愛するもの」を見つけて離脱し、號が失恋する
シュワルツは最終的に「生存する漫画版美樹」であったかもしれない。
號が失恋することは、飛鳥了の反転である流竜馬の血族が持つ愛情は最終的に「性愛や恋愛を超越した理性の結晶たる真の愛」であるために、恋愛から切り離す処置とも考えられる。

日本へ戻ると南風渓が出てくるが、デビルマン軍団かサタンの側近の誰かであったかもしれない。
隼人の婚約者、山咲は「死亡する牧村美樹」であろう。
同じ「不動明」の核を持つ魂の親子状態ながら、ここで明確になったように隼人と翔で反対となる構成が取られ始める。

正直に言うとこの筋での號チーム部分の読解はこの程度しか進んでいない。
チェンゲ4話以降の展開を妄想する際には非常に重要となってくると思うのだが、デビルマンではなく、マジンガーからプロットを拾っている可能性も存在し、どうにも……。

「完結させる」となった時に、リョウが再登場するのはこの流れなら必然であった。
(再登場の際、妙に強かったのは無印Gの時と同じく80年代の神谷明さんの代表作のイメージもあったかもしれない。特に北斗辺り)

そしておそらくこれに伴い、石川先生はゲッター線を「神の力」として、ラストまでを再構築した。
ゲッター線は絶対悪である、という認識がここで固まり始めたのだろう。
*デビルマンにおける「神の力」は核をイメージしていたという永井先生のインタビューが公開されている。最初からゲッター線は「神の力」であった可能性も高い
 デビルマンをモチーフ元に戻し、そこからゲッターロボの原案を再構成していると考えると理解しやすい設定も多い

永井作品の「デビルマン」や「魔王ダンテ」における「神」もそうであるが、石川作品においても「神」やそれに類いするものは「弱者に心を寄せることができない超越存在」に近く、そこに理性やそれに基づく倫理観やモラル、善性があるわけではない。
そのために他の生物を道具か自分の拡張パーツ程度にしか考えられず、ゲッターロボにおいては進化というキーワード、MIROKUや魔空八犬伝で描いていた石川作品全体に存在する世界観背景とも結び付き「進化するという目的だけをもったエネルギー総体」となる。
進化する、というのはデーモンで言えば「弱者を食い、取り込んで強くなり、生き延びる」ことである。
結果として「進化という目的を持った全体主義の権化」「本能だけで他者を取り込み続ける絶対悪」として確立したのではないだろうか。

*本来「進化」とは「進歩ではない」。
どうもゲッター線からは、本来のダーウィンの進化論が多様性を前提に「適者生存」の結果として現在の種族があるという考え方だと思うが、これを「優勝劣敗」に誤読してしまったような違和感がある。
MIROKUにおける「進化」や「神」とゲッターロボサーガにおける「進化」や「神」は本当に同じようなものであっただろうか。
優勝劣敗に誤読した進化とは名ばかりの単一先鋭化の末に滅亡してしまうルートがエンペラーではなかっただろうか。

こうであるならば、漫画版真でリョウがなぜ未来の様子を見て怯えたかのような姿を見せたのかも理解ができるかもしれない。
理性を失ったリョウ(のコピー╱アークでの武蔵クローンも1≒3と考えればおそらく同じ文脈にある)が他者を蹂躙し虐殺する。
漫画版デビルマンの最後である。すべてが滅び、死に絶え、リョウ一人だけが残される世界。リョウにそっくりな軍勢がその後ろにはあった。そしてあの世界ごとがおそらく消えた。
エンペラーも同じであろう。
サタン:元はデーモンが神に滅ぼされることに抗い堕天した神の一族。しかし結局同じことを人類にした
エンペラー:元は人類を守ろうという強い意思だった(アニメ版アークブックレット参照)が、歪んで進化した結果、同じことを他種族にしている
理性を失った末の先祖返りである。
「力がすべて」の先には一番強い一人しか残らない。食いあい、自滅し、一番強い一人だけが残る。そして、その最後の一人もまた、それより強いものにより滅ぼされるだろう未来。
もちろん、そこには愛したものも残らない。やもすれば守りたかった愛したものすら、一方的に殺し食い尽くしてしまったのかもしれない結末。
「理性=愛を知らない╱忘れた」ゲッター線の進化の果てはこの時点で「すべてを食って自分ただ一人になること」漫画版デビルマンのラストシーンである。

早乙女博士の台詞にある「愛するもの」を中心とする一連の話も、その未来を見たことで
人類を守るべきなのか考える明→美樹がいたと気づく流れ の翻案であったかもしれない。

さて、號に戻って話を進める。
真ゲッターロボの蝙蝠羽のウイングなどもデビルマン由来ではないか
真ゲッター搭乗後、同化されかける時の全員の顔がモザイク状のイメージ→ジンメンの可能性はないか? 「殺さずに食った」もゲッター線に通じる
その際の「白い闇」という言葉はデビルマンにおいて神の力に突入したパイロットの台詞と同じフレーズである

漫画版號はアーマゲドン編の再構成として展開した。
しかし、ゲッターロボは人類に理性がある世界のため、再構成には使用していない要素があった。
アーマゲドン編に入る切り替えポイントとも解釈可能な「核ミサイル」である。
デビルマン中盤、デーモンの謀略により世界は混乱に陥る。
そして「核ミサイル」が発射され、これが「神の力」によって「消失」。
そこから連続するように悪魔狩りが始まり、人類はここで決定的に理性を失い自滅の道を駆けていく。
漫画版號の終盤、リョウが再登場すると共に恐竜帝国が再び姿を見せ、何度目ともわからぬ「三つ巴」となる。
そして「ミサイル」を「真ゲッター」が取り込んで「消す」。
ゲッターロボは反転デビルマン「人類に理性があった世界」の話であったため、ここで食い止めて人類の理性は失われずに終了としたのではないだろうか。

そして逆転の結果
愛した明も世界も滅びリョウただ一人だけが残る↔愛したものと世界を守りリョウ達(神の一族と神の力)が地上より消える
を持って物語は終息した。

流竜馬に限って見れば
飛鳥了は「俺と一緒に戦ってくれ」と明を同じ地獄に引きずり込んだがその内実、「無自覚に友を愛していたがゆえに、自分と生きてほしかった(自分本意)」のだが
流竜馬は「俺と一緒に戦ってくれ」と隼人を同じ地獄に引きずり込んだがその内実、「(無自覚に)友を愛していたがゆえに、ただ相手に生きてほしかった(相手本意)
とも読み取れる。

先に述べたように、ゲッター線は「神の力」であり、「進化という目的のために合理的判断を行い続ける」ありとあらゆる個の存在を有無を言わさず同化して一方的に取り込む「全体主義の権化」である。
(取り込まれたもの達は「個」を失うために画一的な言動に近くなる)
(これを前提とすればタイールの出自や言動も理解しやすいだろう。元々デビルマンの時点から戦争をベースイメージにおいていた作品で「全体主義の権化」となればそこにあったイメージは言わずとも想像できようし、ならば「ゲッターの化身」であるタイールはその価値観を是として教育された戦中の子供の戯画でもないだろうか)

人類の滅びを回避するためにはその力を使うことしかなかった。飛鳥了=神の一族の血族、流竜馬や一文字號は愛するものと世界を守るため、その先に何があるのかを知るため、自ら乗ることを選び、愛するものを地上に残して飛んだ。
他者を尊重することができない存在を飲み込み、理性あるものは残して。
そして、その人の手にあってはいけない力は火星と言う場所で眠りについた。
宇宙に「種子」を飛ばし、いつか「素晴らしいもの」を見ると。
それは、人類がそれまでの「理性」で実らせた、そして彼らの「真の愛」の結晶である「希望」だったのかもしれない。

また、竜馬は真ゲッターと天にあり、弁慶はドラゴンと地にあり、隼人は地上にあって宇宙の万物を示す「天地人」解釈もあるのではないかと、以前の考察記事に記載したが、それは同時にこの記事の文脈でいうなら
天に眠った「神の力」(竜馬血筋は神の一族)と、地に潜った(=デーモン族。弁慶も本能に近い部分担当)「悪魔の力」は双方ゲッター線、地上にあって共に生きるのは元より人間の隼人とその人間が生み出した「人間の力」であるプラズマエネルギーという見方もできるだろう。
プラズマエネルギーが「人間の力」のメタファーであったなら、理性あるサーガ世界でのゲッターロボは號の進化系「ゲッター線だけに頼らない機体」として進化し、エンペラー自体に繋がらない未来を歩むのかもしれない。
(こう考えるとダイナミックプロ公式が監修した「ゲッターロボ飛焔」はとても興味深い終わり方をしている。私にはあれこそが「サーガ世界の続き」ではなかろうかと思える)

「ゲッターロボ」はその機体自体が「三人のデビルマン」を内包し「共存する」象徴でもあった。
真ゲッターや真ドラゴンが別形態の一部だけを出して使うというのも、先に述べた魔獣戦線の慎一さんと理屈は同じで、完全に同一の身体で人格は共存状態にある可能性がある。同時に最終的な望ましい形はそれであったと石川先生は考えていた可能性も存在する。
(結局すべてはひとつのエネルギーへ帰るということが絶対的な世界のシステムであるなら、そのなかで「個」が共存するという形がベストっていう考え方かなあと)(永井先生のデビルマンVSゲッターロボにもこの考え方であるらしい全員の人格を残しての融合描写が存在する)

いつか、理性ある人類が、すべての生命が、共に並びながら火星へ到達できた時。
ゲッター線(神の力、神の一族や神)もが共存を学べた時。
その時こそ人類はあのラストシーンを回避して「素晴らしいもの」を目にすることができるのかもしれない。

こうして、「ゲッターロボサーガ」は未来への希望を残して幕を下ろした。
無印での終幕と同じく、二重の意味できっちりと完結しており、これをもって「ゲッターロボサーガは完結している」と石川先生は仰られていたのではないかと推測される。

【ゲッターロボの根底にある思想とその後】

複数記事に渡り長々と考察を続けてきたのだが、ここまでの内容であったのならば、「ゲッターロボ」と言わず石川作品全体に共通する思想のようなものも見えるだろう。

すべての生命は他者を食い強くなって生存する「本能」を持っており、他者を思うという「理性」を持って本能を制御╱抵抗しなければ、やがて自滅する存在である。

簡単にまとめるならばこうであろうか。デビルマンから脈々と受け継がれた、ひとつの思想。この文脈で殆どの作品も読めるだろうとも思う。
ゆえに、ゲッター世界ならば「理性」を軽んじ失えばゲッペラー一直線であり世界も遅かれ早かれ滅ぶ。これはもう確定事項と言っても良いだろう。
「本能」によって食い合う「運命」に抗うためには、「理性」が必要なのである。

という前提で漫画版アークを見ると、なかなか絶望的な結論が見えてくる。
石川先生には「アーク」は「ゲッターロボ」(デビルマンの再構成)ではあっても「ゲッターロボサーガ」ではなかったのではないかと私は思うし、もしかすると、あれはひとつのIFであったのかもしれない。
希望を残して終わった號の後の、滅ぶ世界へ続く物語。「三つの心は揃わない」ゲッターロボ。
なぜ、石川先生はそんな物語を描いたのだろうか。何故「チェンゲ」をベースのひとつにしたのか。拓馬の母親は、拓馬は「誰」だったのか。あの世界の「人類」は。
あの世界を滅ぼすのは、一体誰だろうか。

長くなってもしまったし、アークについては思うことも多々あるため、今はここまでとしたい。

【最後に】

東映版ゲッターロボでキャラクターデザインを担当した小松原氏は、デビルマンを担当していたこともあり、後年の漫画版準拠のデビルマンOVAでもキャラクターデザインや作画監督を担当された。
そしてこの流れでCBキャラワールドというダイナミックプロが直接関わっていたのだろうOVAも製作された。
実はここで、飛鳥了に薄緑、不動明に青みがかった黒というゲッターの二人によく似た色指定がされている。
また、こちらは作画監督が古橋氏となるが、魔獣戦線では慎一に薄緑が使われている(襟巻きは白い)。
これらも裏付けのひとつになるのではないか、と思うのだが、同時にそれをわかっていたならば、どうしてこの20年以上、ゲッターロボに限らずダイナミック作品はその本質をねじ曲げられ続け、理性を重要視しないがために何を何回やっても微妙な出来になり続けたのだろうか。
(正直に言うと結論が浅いところでまとまっているか、そもそもが理性の話であることを軽視されているために微妙な齟齬が細々と起きて散漫としており、原作の筋道が通って美しい物語構成には及ばないと個人的には思っている)

漫画版を「神╱本能╱運命に抗い抵抗する物語」とするならば、OVAをはじめとする「本能を肯定した」「理性を軽視した」と取れる作品は「神╱本能╱運命に屈服する╱した物語」となってしまう。
(チェンゲとネオゲはまだ修正が可能そうでもあるしギリギリ前者にいれてもいいかとは思うが、新ゲッターとその二次創作状態のZ以降のスパロボや公式監修が入っていないデヴォゲなどは作中どう言おうが全て後者であろう)
石川作品の根底には「理性」が無いものは食いあって自滅し、最後の一人の絶対悪になるという価値観が流れている。
私にはどういう構造から見ても漫画版や東映版をはじめとする「三つの心」が揃い「理性」を主軸に運命、本能に抗い続けたあの作品群と、あれら一連の作品群は同じ物だとは考えにくい。
なんというか、派生はあくまで二次創作といえばわかるだろうか。同じ名前がついてるからと言って内容がまるで違うものを同じだとは言わないだろう。別にそれはそれでいいけど、嫌いじゃないけど「それはそれ、これはこれ」だろう。
アンチ作品ばかり作り、それこそが「ゲッターロボ」だと広めたいように見え、しかもそれで騙されている人間が大量にいるような現状に気分はよろしくない。

ネット辞典などの記載に「OVA新ゲッターロボが一番原作に近い」とあったためにOVA視聴後も「それならただの自業自得の話でしかなし、協調性が必要になる根本設定にそれだけで理屈が噛み合わなくなる利己主義突っ込んでくる完成度の低さでもある。しょせん子供だましだろうし、読まなくても良いだろう」と正直侮っていて、漫画版を読んだあとにそれら編集者や明確な誤情報を流していた大衆に騙されたと感じ、OVA(特に新ゲッター)にも「ここまでタイトルと内容が噛み合っていないのは不当ではないのか。ぶっちゃけ詐欺ではないのか」と感じて、怒りを原動力にここまで辿り着いてしまった訳だが、私に現状できることはこうして自分の主張や考察などを情報の海に流すことだけである。

どうも現在の界隈は漫画版作中から読み取れる事実、新ゲッター作中から読み取れる「脚本構成が漫画版と手天童子の反転構成である」ことすらも隠蔽して「新ゲッターロボが一番原作に近い」と言いたいらしく、根本的なモラルが問われる事態となっている。
ここに考察を続けてきた話であったのなら尚更、アンチゲッターロボであったことは認めて切り分けなければどういった思想の支持や肯定に繋がるのかはわかろうに。知らないのならば、騙されていたならば仕方がないが、理解していて隠蔽しようとしているならば尚更に質が悪い。
ニセモノであることに耐えきれず本物を殺そうとする身堂竜馬をここで再現してどうしようというのだろう。新ゲッターとその支持者は「心のつめたい三泥竜馬」の戯画であろうか。
知名度に比較してどうにもマイナーであるのはここにもひとつの原因があろう。
後から原作を読みその内容を知れば自分が今まで何を言ってきたのか、新ゲッターを切り分けず無条件に暴力や狂気、選ばれた存在を肯定すればなんの肯定になるのかに気付けば、元のゲッターロボの文脈を考えれば選民思想はおろか戦争の肯定にも繋がるような作品の支持や擁護集団とは距離を置きたくなるのは想像に難くない。
自分の都合のためにわかっていて事実を隠蔽し、捏造して嘘の布教をしているというならその時点でその人間のモラルは低く(その行為は陰謀論者や反ワクチン派がデマを流すことと違いはない)その言葉は信用に値しないだろう。
新ゲッター解釈から入ってはしゃいでいたものの漫画版を読了後に、フェードアウトする人間がこの2年ほどだけでも散見されたのはここにも理由があると感じる。

真っ当に「ゲッターロボ」と石川作品、ひいてはOVAの布教に勤めたいのならば事実すら隠蔽するなど努力の方向性を間違えているとしか私には思えない。

最初にすべきは特に「新ゲッターロボ」からの派生作品と、原典は全く違うと切り離して、きちんと内容を理解していると提示し、それはそれで好きだと訴えることであろう。
特に新ゲッターが好きであるならば尚更原作とは切り離す必要があるのに自ら「これが原作に一番近いのだ」などと主張しては「自分は選民思想とか暴力=戦争とか大好きです!」とでも言いたいのかとなってしまう。そんな存在は滅ぶと原作者から言われているのにそれにも気づいていないのかとなってしまう。
……本当にそういう思想であるなら仕方がないのかもしれないが私はお近づきにはなりたくない。川越監督と新竜馬をゲッペラーにした未来人類の群れを作るのは好きにすれば良いが、互いのためにも石川ゲッターを巻き込んでくれるな(同一視するな)と私は言いたい。
(同時にチェンゲの三話までを取り上げるなら今川監督の意図も尊重してあげてほしい。あんまり好き勝手言われ過ぎていて可哀想に感じている)
自分達、ひいては界隈のモラルを疑問視されずに健全な推し活をしたいならばそれは前提ではないかと私は考えている。

もし、この一連の記事に目を通してくださる方がいたなら、あの美しかった作品を嘲笑し蔑むような言動に胸を痛め怒っていた人間がいたことだけでも知っていただけないだろうか。

石川賢先生は非常に穏やかな性格であったと様々な書籍から読み取れる。個人の生命や権利を尊重し、それを蹂躙するものへの怒りと闘争を描き続けたのが先生である。他人を思う心をこそ人間の理性と考え、弱者に寄り添おうとした作品を描き続けた方である。

作者が何も言っていないからと言って、皆がそう言っているからと言って、作品に描かれたものと真逆の事を好き勝手に言いふらして回り、嘲笑するような真似に作者への尊敬はあるだろうか。
本当にその作品を愛していると言えるだろうか。
それは石川先生が抗い続けた「悪」の姿になってはいないだろうか。

私はただ、真実はなにか自分で考えて話してほしいと思っている。
それは石川先生が描き続けたことのひとつでもあるのだから。
そう願いながら、ここで一旦筆をおこうと思う。


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