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ダイナミック作品における「リョウ(竜馬)の法則」と「ゲッターロボの血脈」

さて、二回に渡り東映版と漫画版の話筋を考察した。

ここまでの時点で「ゲッターロボはリョウ(竜馬)が友を愛した」物語であるというひとつの結論が見えた私は違和感に首を傾げた。
デビルマンとガクエン退屈男(正確にはバイオレンスジャック)に同じ設定を持つ人物がいることを思い出したのである。しかも、愛称か漢字が同じで。
*この記事には様々な石川作品や永井作品のネタバレ、しかも核心部分が含まれる


【最初の違和感の裏付け】

ゲッターの企画は73年末、大急ぎで膨らませたものだとは各所のインタビューから読み取れる。漫画版デビルマンの連載が終了、単行本が発売されたのは同年であった。漫画版デビルマンは後年追加エピソードや続編も描かれていったが、私が読んだ限りの最初の本編だけであれば、最後までの内容を踏まえて冒頭を説明するなら
「飛鳥了(リョウ)が無自覚に友を愛していたがために、同じ地獄に引きずり込む」
というように読めた。

流竜馬と神隼人は初期設定における「流竜乃進」と「犬神隼人」の性格などを綺麗に入れ換えて成立したキャラクターである。

これに伴い、「リュウ」であった愛称は「リョウ」となった。
……この時に、同じ愛称である事からデビルマン「飛鳥了」(リョウ)の成分が混入した可能性はないだろうか。
隼人に「明」の要素はないだろうと思っていたのだが、名前の元ネタに疑っているキャラクターの名前にウルフガイシリーズの「犬神明(神明)」というものがある。
設定を膨らませている最中にこれらが繋がり、裏設定として「リョウは友を愛している」とされなかっただろうか。

「リョウが無自覚に友を愛していたがために、同じ地獄に引きずり込む」
東映版、漫画版共に、隼人をゲッターに乗せたのは竜馬(リョウ)である。
DVDBOXブックレットの初期設定では三人はミチルに好意を持って早乙女家に入り浸り、ゲッターとも最初から関わりがある設定であったらしいことも気になる。学年誌などはこの設定で、私はどうして原典となる二作品の導入はこれでなかったのか不思議だった。

また、初期の竜馬のモミアゲと目が飛鳥了に似ていて、校舎での隼人はお顔が一定していない。良く見れば隼人の特徴的な前髪もこの時点では明確に描かれていない場面があり、サバトでの明の表情に似ているものもある。
ギリギリで入れ替わりが起きたという状況証拠は複数ある。そのために一定しなかった可能性もあるが、竜馬だけの時には「リョウ」の、隼人だけの時には「明」の記号を持たせ、二人が揃ってからはその記号を入れ換えることで彼らのモチーフと関係性を示唆していた可能性もあるだろう。
最終的には了の外見は隼人へ、竜馬は明の外見で描かれるようになったのではないだろうか。
(この隼人に移行された記号表現は美形記号として石川作品全体で通して使用されている)
(基本的に竜馬記号→重力という理に逆うような髪の毛、もみ上げ。太くギザギザな眉。隼人記号→理に逆らわない髪の毛、もみ上げ。細い眉。言えば外はねと内巻きの傾向)

「エンマさま」というデビルマン冒頭を思い起こさせる言葉を竜馬と隼人が作中使っていたことも頭に残っていた。
デビルマンならサバトへの扉を開けた時、ゲッターならクラゲに突入する時の台詞が「地獄への案内人はリョウ」と読める。

飛鳥了の愛情は一方通行であった(明は了に深い友情は持っていたが、ミキを愛していた)こと、東映版では隼人のたった一人愛するものは亡き母かミチルと示されていること、漫画版においても隼人には婚約者がいたことから、「リョウの向けた愛情は一方通行であった」という共通項がある可能性もある。(隼人側からも確かに友情やそれ以上のものは描写されており、相思相愛でもあるが釣り合っていない可能性があるというか。竜馬からの重さが頭ひとつ抜けているというか)

これらに気付き意識して漫画版を読んで見ると
・そもそも恐竜帝国の元ネタがデーモンである可能性が高い
・飛鳥了→流竜馬、不動明→神隼人でのオマージュが散見される
・というか、漫画版ゲッターロボ自体が一種反転させた「デビルマンの再構成」ではないか
と見えてきた。この「もうひとつのデビルマン」としてのゲッターロボについては別途記事を書くつもりである。

また、ガクエン退屈男での身堂「竜馬」は門土に深い愛情を向けていたとはあまり思えなかったのが、バイオレンスジャックの展開において「友を愛していた」という設定を持つことになる。
このバイオレンスジャックの展開、調べたところ74年以降の疑いがある。
飛鳥了→流竜馬で「竜馬(リョウ)は友を愛していた」となった設定が、同じ名前という繋がりで更に身堂竜馬に影響してしまった可能性はないか。
(「後の門土は竜馬が作り出した理想の姿だった」も「流竜馬の写し身、半身が愛する友」からの影響がないか)
これであるならばその設定が追加された後の漫画版號で、隼人の髪が伸び、黒スーツ(黒は明の色なので元から使われていたが)であったのも「三泥虎の助」の外見を取り込んだからではなかろうか。

【「リョウ(竜馬)の法則」成立の時系列推測】

ガクエン退屈男:1970年2/17号~9/22号
魔王ダンテ:1971年~(掲載誌休刊)

デビルマン:1972年25号~1973年27号
マジンガーZ:1972年~1974年

バイオレンスジャック(週刊マガジン):1973年~1974年(東京滅亡、関東スラム街、黄金都市)

ゲッターロボ~G:1974年~1976年
(石川先生が入ったのは73年末、4月開始)
魔獣戦線:1975年~1976年

グレートマジンガー:1974年~1975年
バイオレンスジャック(月刊マガジン):1977年~1978年(門土編、鬼相撲、地獄の風、疾風ドラゴン)
バイオレンスジャック(週刊ゴラク):1983年~1990年(スラムキング以降)

真・魔王ダンテ:1994年(作画は風我明)

デビルマンVSゲッターロボ:2010年
魔王ダンテVSゲッターロボG:2011年~2012年

さて、何故そうなってしまったかの推測には1970年まで遡る。

この年、石川先生はダイナミックプロから一度離れるのだがその直前まで連載し、主要アシスタントとして関わった作品のひとつが「ガクエン退屈男」であった。
この作品における石川先生の比重は高かったようで、石川先生の離脱に伴い連載は終了とされたらしい。

「ガクエン退屈男(70年)」は当時全盛期であった学生運動を背景に、武力と暴力でもって抑圧する権力者と、それに反抗すると言う大義名分を掲げて好き勝手に暴れたいだけの大衆を真っ向から痛烈に批判した「最初から最後まで理性の無い世界」の物語である。
(これはこの後の「魔王ダンテ」に続く一種の「善悪の反転」「既存概念の破壊」でもあろう。終盤になって美醜についての話が展開されるが、理性の働きには真偽や善悪の他、美醜の判断が含まれることがあるとも踏まえて読んでみてほしい話である)
この中で、門土には「ケダモノ」という言葉が使われるが、一方の竜馬は「ニセモノ」であった。
身堂「竜馬」は三泥虎の助そっくりに作られた人造人間である、という設定が存在した。

石川先生が離れ、永井先生の初めての連載ストーリー漫画となった「魔王ダンテ(71年)」では「善悪の反転」を描き、道半ばで打ちきりとなったが、神と現人類こそが悪であったという結末までの中に、既に「強大な力を制御するのは人間の意思である」「理不尽に一方的に弱者を蹂躙するものへの怒り」という描写がみられる。
この最終的に神と人類に反旗を翻した主人公の名前は宇津木椋(リョウ)。

この「魔王ダンテ」をベースのひとつとして描かれたのが「デビルマン(72年)」である。
(これに関しては永井先生が当時を思い出して描かれた「激マン! デビルマン編」でもデビルマンが連載するまでの経緯で触れられている)
おそらく同時に連載していた「マジンガーZ」もこの流れにあった。(「強大な力を制御するのは人間の意思である」他、頭脳=パイロットであり、ロボットが拡張された巨大な身体であることなど)
「デビルマン」の中では主人公不動明と、その親友であり神に反旗を翻した魔王サタンである飛鳥了(リョウ)が描かれた。
飛鳥了は両性を持つために不動明を愛してしまった。彼をデビルマンにしたのは、この物語の全ては、明を愛してしまったことが始まりだったと後半になって読み取れるようになる。
(永井先生にすらも予定外だったのだろう)飛鳥了の愛ゆえに始まった物語は「途中から理性が失われた世界」となり、「世界は滅び、愛した明が死に、リョウ一人しか残らなかった」。
力がすべての世界は一番強いものしか残らない。そしてその最後に残った一人もまたさらに強いもの(神)によって滅ぼされるだろう、そう暗示して本は閉じる。

デビルマンは72年から73年にかけて連載された。
この73年、ダイナミックプロには既に「ゲッターロボ」の企画が持ち上がっていた。
石川先生が永井先生に呼ばれこの企画に参加するのは73年末のことであり、その時には既に初期案や主要スタッフは揃っていた様子がゲッターロボ大全のインタビューなどに言及がある。

永井先生は最初から「バイオレンスジャック(73年~)」をスターシステムを取り入れた作品にするつもりだったのではないだろうか。
既に存在していた、しかし企画段階にある「ゲッターロボ」初期案における「流竜之進」を翻案し、この主人公に据えた可能性がある。
これについては上記リンクの入れ替わり考察記事にまとめている。

そして73年末、石川先生が合流し、翌年4月から放映となる「ゲッターロボ」の企画の詰めが行われた。

そして、ここのどのタイミングかで「サッカー選手で描けないから、空手にしていいか」という打診が石川先生から行われた。この事は大全のインタビューなど複数媒体に記載がある。
時期としてはこの前後に竜馬と隼人の設定も入れ替わったのではなかろうか。
元々恐竜帝国はデーモンをベースとして設定が考えられていた。
そして、この入れ替わりを機に最初に書いた連鎖が起こり主要人物の二人にも色濃く「デビルマン」の要素が混入した。

もしくは、実は最初から「反転デビルマン」として飛鳥了を主人公に、不動明をその友人に据える形でイメージしていたものを、性格を入れ換え表面上は元の形(不動明が主人公で飛鳥了がその親友)に近く戻ってしまった。そのため、流竜馬に「飛鳥了」の一番重要な核であった「友を愛している」という設定も追加されたか。

流竜馬→飛鳥了の核+不動明の性格╱思考と外見特徴
神隼人→不動明の核+飛鳥了の性格╱思考と外見特徴
(おそらく飛鳥了が所持していた両性と美少年設定は外見特徴と共に隼人に行った。後年隼人が三泥虎の助も取り込んでの女性紛いの美形になっていくのはそのためであろうし、けして人物像が女性的ではなかった事もあり設定が反転して無性に近くなったのでもないだろうか。流竜馬は自認識が完全に男性のまま、友を愛する設定ともなり、これが恋愛感情ではない愛情に繋がったかもしれない)
*不動明の核は以下の台詞にあったのではないだろうか。

「デーモンの意識をおさえる強い意思」「善良で純粋な心を持ち!」「正義を愛する若者」

電子書籍デビルマン 1巻 128~129頁

経緯はともあれ、結果的にこのようになった。同時に名前が変わったことで
「ガクエン退屈男」の身堂「竜馬」=三泥虎の助も混入した。
身堂竜馬→流竜馬「竜」=「虎」神隼人←三泥虎の助
という構図もここで生まれた。

ガクエン退屈男は「最初から理性が存在しなかった世界」である。
デビルマンは「途中から理性が失われた世界」である。
ならば、「最初から最後まで理性がある世界」は?
これが「ゲッターロボ」となったのではないだろうか。
「理性、その極致である真の愛情を持ったリョウ」の物語として。

話は永井先生に戻る。
「バイオレンスジャック」は続いていた。しかしこれら諸事情で完成した「流竜馬」の要素の中に重要でありながら「逞馬竜」に入れられない要素が生まれてしまった。
「リョウ(竜馬)は友を愛している」という設定である。
そこで永井先生はもう一人の「竜馬」、身堂竜馬にこの設定を持たせることとした。
そしてその愛する対象を早乙女門土とした。こうしてバイオレンスジャックにおける名コンビが生まれた。
ただし、彼らは「真の愛」を知らない(原作となる「ガクエン退屈男」でも「愛されることを当然とし、欲するだけ欲して真の意味では誰も愛さなかったから愛されなかった」と竜馬と三泥との過去などから解釈できる)。これが終盤における悲劇的な展開に繋がったのではなかろうか。

こうして「ゲッターロボ」をブリッジとしてダイナミック作品複数にまたがって「リョウ(竜馬)」という名前を持つ人物に「リョウ(竜馬)は友を愛している」(おそらくこれには「その愛した友とは何らかの形で半ば同一人物である」も含まれた)という設定が付加されることとなり、後年にまで継続したのではないだろうか。

そうなると気になるのは「はじまりのリョウ」である「魔王ダンテ」の「宇津木椋」であっただろう。
こちらも後年のリメイク作品「真・魔王ダンテ」でBLっぽい要素が付加されていたらしいと情報提供があった。
調べてみるとリョウの名前こそ変更されているものの、「ダンテと同じ容貌を持つ神の子」が存在している。もしかしたらそういった形で本筋からは異なる別作品内に取り込まれていたのかもしれない。

また、私には気になっていることがある。
石川先生の没後、永井先生がゲッターロボとデビルマン、魔王ダンテとのVS作品を描かれている。
デビルマンはゲッターロボのベースとなった作品である。
魔王ダンテの方では「リョウの入れ替わり」という話が展開されているとも目にした。
これらは、永井先生から読者へのヒントではなかっただろうか。

この考察はあくまで一個人の推測、仮説にすぎない。我がことながら好き勝手言ってるだけである。50年にも及ぶあまりに膨大な関連作品や資料を全て自分で読んだわけではなく信憑性も薄く、こうして筋道立てて説明することだけで現状は手一杯で、これに説得力を持たせるためには膨大な永井作品と石川作品からまずはリョウ(竜馬)という名前を持つ人物がこの4人以外に存在したのかどうかから調べる必要がある。
確証もないままにあまり好き勝手言うのは私の望むところではないし、これらの根になるのは土足で踏み込んでいい話でもないのではないかとも感じる。
そのため、明確な誤情報の指摘などがあればそれは訂正をしたいし、情報があれば個人的に考察をしてみたいとは思うが、チェンゲの考察にもここまでで十分であろうし、この全体での関係性についてはこれ以上きちんとまとめることは無いだろう。
この記事自体の信憑性なども含めて、読んだ方々に自分で考えていただきたいと思う。

この設定がダイナミック作品全体に存在しているのならば、絶対に動かしてはいけなかったのだろう核も見えてくる。
何せたったひとつの愛称からここまでその核は変わらず広がってしまったのだ。
飛鳥了から「友を愛している」という設定はオミットしてはいけなかった のではないだろうか。
流竜馬はこれをオミットしても「ゲッターロボの核は三つの心である」ので、こちらが揃っていれば「ゲッターロボ」足りうる(のだが、しかしなぜかこれすら公式監修が入らないとまともに描けていない)だろうし、身堂竜馬もこの設定が追加されたのは「バイオレンスジャック」以降の話なので「ガクエン退屈男」の軸でやればいい。
しかし、飛鳥了のこの設定は「デビルマン」という作品の動機から最終的な結論にまで繋がる設定である。
これをオミットするくらいならば「リョウ(飛鳥了)」の名前などつけるべきではないというくらいの重要設定ではないだろうか。

また、この「名前」が設定に深く関与したであろう推測からは、「名前とは個を定義するものである」という考え方からすればダイナミック作品全体が「外見ではなく、その本質」を重要視したのではないかとも考えられる。
少なくとも永井先生と石川先生は文章で考えるタイプだったというか。
正直、両先生はデザインや彩色がいつどの作品においてもどうも一定しない。「言いたいことが伝わるのが優先」タイプであったらしく、石川先生などは髪型や髪色までも示唆のために頻繁に変えて描いている。
外見はあくまでも両先生方にとっては「記号」でしかなかったのかもしれない。

【その後のゲッターロボの血脈について】

ガクエン退屈男、魔王ダンテ、マジンガーZ、デビルマン、バイオレンスジャック、そしてゲッターロボ。
イメージの連鎖を繰り返し、石川先生の元で完成した「ゲッターロボ」はアニメと同時進行であった事もあるだろう石川先生の代表作となった。
そして、石川先生はこの「ゲッターロボ」で成立した記号、並びに人物の核と関係性を後年まで使い続けた。
わかりやすいところだと「魔界転生」や「柳生十兵衛死す」の主人公「柳生十兵衛」は大体竜馬の転生体のようなものと思っていいだろう。外見や性格が相当似ている。(流竜馬の血筋は時代物の主人公に多く、現代に生きるには向いていない人物と石川先生は考えられていたかもしれない)

そして竜馬と隼人の関係性とゲッターロボを素地に翻案して違う作品を作ってもいたのだろう。

そのひとつがゲッターロボ連載開始翌年に始まった「魔獣戦線(75~76年)」。
デーモンは十三使徒、新人類として再構成され、それと人間の間となる「魔獣」がデビルマンであっただろう。
「流竜馬は神隼人を愛している」「この二人は正反対の半ば同一人物である」この設定を翻案し
流竜馬→赤い竜→黙示録の獣╱新約聖書におけるサタン
飛鳥了=サタンをベースとしているなら最初から意識されていただろう過程を辿って「慎一」となり、
神隼人→神→聖母マリア
と、性別を変えて「真理阿」となった。
そして三人目が「富三郎」。
これの裏付けとしては慎一の宿す動物が鷹・ライオン・クマとゲットマシンの名前を想起させるもの、「三人」を強調される天涯のおじいちゃんの台詞などがある。
慎一の服装の顔に巻かれた布や指先までの包帯、「獣」という言葉から慎一のモデルは「記憶喪失時の流竜馬」であり、「記憶=理性╱愛を失った竜馬╱慎一が隼人╱真理阿と出会いそれを取り戻す話」という解釈もできよう。

*余談になるのだが自分用のメモとして。
グレンダイザーのグレース・マリア・フリードの元ネタはこの真理阿ではなかっただろうか。
初登場が76年9月、この回の脚本家はゲッターも手掛けた田村氏であり、名前、「おじいちゃん」、予知能力といった共通項が存在する。またパイロットスーツとバイクは隼人からであったかもしれない。
そもそもグレンダイザーという作品自体にアニメ製作主要スタッフが同じであったゲッターロボの影響が強い可能性も高い。

普通に自分で描く分には隼人位置は女性の方が描きやすかったのかもしれない。
しかし同時に、隼人位置を女性変換すると「半ば同一人物→かつて同じ╱ひとつだった女性」「主人公がこの対象に抱くのは恋愛感情ではない」という点から宿命╱運命的な繋がりを持つ相手というよりは「母親」によってしまうのかもしれない。
なんにせよ結果、隼人とは似ていない人物像となったが元にした本質の部分は同じであろう。
(また、この核は同じはずなのに似ていない理由として、彼らの元となる不動明の描写から「彼らがデビルマンとなるには『死(の恐怖)』をスイッチとする」と解釈するならば、死を目前にする前の彼らはデビルマンとなる前の元来の性格ということになり、魔獣戦線本編での真理阿の性格などはそれを前提にしたものだったのではなかろうかという仮説を持っている。
真説で真理阿の人物像が隼人や後述の禍の楓などに近く変化していればこれの裏付けとならないだろうかなどと考えているが、未入手であるため憶測の域を出ない)

この真理阿に強く出ている「隼人の本質を持つ人物を女性変換すると変質してしまう」というのは、竜馬血筋は他作品に多く見かけるのに、隼人顔はいても立ち位置や人物像が似通った人物があまり見当たらない要因でもあっただろう。
真理阿の系譜ならば多く、魔界転生のお品、魔空八犬伝の伏姫など実質的に主人公と同じ存在である女性が該当する。
隼人顔は石川作品における知的美形の記号の塊であり、それだけならよく使われるが、先の核となる設定の他「味方側」「男性」「最後までいないといけない」といった要素を全て満たすような人物を「描く必要のある」物語を石川先生は描かなかったので、必然的に見かけないのではないか。
(隼人の「外見だけ」を持つ人物は竜馬血筋を裏切り、憎悪対象となり、最後には死にがちであるのも本来の逆の特徴であり少々気になる)

そして、この「魔獣戦線」の続編を求められて石川先生が描いたのが「5000光年の虎(81年~82年)」となる。
ここでは主人公の「虎」は「竜の息子」とある。お顔立ちとその一文からして、流竜馬の系譜であることをそうして示している。彼らの系譜は「命や権利を踏みにじられることに怒りをもって抗う」などの共通した特徴を持つ。
(先に隼人の記号が「虎」であった可能性を書いたが、竜馬と隼人は半ば同一人物であるため彼らの記号要素は混合や入れ換えで使用することも多かったことを踏まえればここに「虎」を使うことも不思議ではない)

「虎」があるのならば「竜」もあるべきである。
これが「虚無戦史MIROKU(88年~90年)」ではないだろうか。
ベースにしたものはゲッターロボよりも山田風太郎先生の作品の方が強いと思うが。

「5000光年の虎」から始まり、後に「虚無戦記」と纏められる作品群は、結局描いていることがゲッターロボと同じであることに気づいた読者はどれ程いるのだろうか。恐らく石川先生はゲッターロボの再構成として魔獣戦線を描き、更に再構成として「5000光年の虎」をそしてそれ以外のSF的な作品を描き、この三つの筋は「似通った内容を持つ」「別個で成立した」物語となった。

こうして石川先生の代表作である「ゲッターロボ」「魔獣戦線」「虚無戦記」が出揃う
この三つの世界はゲッターロボを起点に生まれたパラレル世界であったのではなかろうか。
そして、99年から刊行された双葉社コミックスでの編集作業を経て、最終的には「デビルマン」の「神」を
意思を持つ生命エネルギーの総体「ゲッター線」→ゲッターロボ
キリスト教的な「神」→魔獣戦線
仏教的な「仏」→虚無戦記
と解釈してまとめられた三つの世界ではなかっただろうか。

もしこうであったなら虚無戦記の「虚無」とは「なにもない」「空虚」「無意味」の意味ではなく

③ (何もないの意から) はてしなく広がる大空。空中。虚空(こくう)。
④ 中国で、老子の説いた説。天地万物の本体は認識を超えた形状のないものであるとする、有無相対を超越した境地。

精選版 日本国語大辞典 「虚無」の意味

これら特に④の「天地万物の本体」を指した言葉であったかもしれない。

この三つのパラレルワールドとでも言うべき世界達は、(私は未読なので断片的情報からの推測にすぎないが)後年の「真説・魔獣戦線(02年~04年)」によって、「この三つの世界の先にあるものは同じ(時天空)」として、更に大きな枠組みで纏められることとなったのだろう。
なので、虚無戦記とゲッターロボ世界は同じではないというゲッターロボ大全での石川先生の言葉はその通りだし、どれかの読解に際しても基本的に他のものは全く必要がないということになる。
(オマージュ作品であるデモンベインを知っているなら各世界がループのないクラインの壺と思えば近いだろう。違う言い方をするなら「大いなる意思」という創造主による壺毒である。しかし、目的は手段を正当化するわけではなく、命を道具として扱うことは許されない。悪は悪でしかない。そのため、大枠で見たところで「踏みにじられたものたちの闘争」の物語となるのではないか)

また、ゲッターロボ號の終盤におけるゲッター線と人類の関係性を翻案したものが「フリーダーバグ(98年~99年)」(そのため、アークにおいて逆輸入されたと考えられる)

おそらく「バトルホーク(76年~77年)」も原型はゲッターロボの三人。
この作品では次女に思いを寄せる敵という、後の號の翔とシュワルツの原型のような存在も描かれている。

反転ゲッターロボ號が「極道兵器(96年~99年)」。
岩鬼はお顔を見る限りベースが號であるがその内面は反転しており、「鬼」という悪を表す名前を持ち、その目の描き方は理性がない状態が多く、あるのは稀である。
この岩鬼に「地獄を見せる」のが「赤」尾「虎」彦でこれが隼人、岩鬼が思いを寄せるなよ子は翔の翻案であろう、名前に三がつく手下を信じて命をかける際には正気の目をしている辺りにここは譲れなかったんだなと微笑ましくもなった。
病院で襲撃を受けるなどのシチュエーションも漫画版號の展開の逆転だろう。
そしてそうであるなら岩鬼は「理性の無いケダモノ」であるがために、最終的に周囲全て食って唯一の存在に至るゲッペラー相当存在であろうことも容易く想像はつく。

魔獣戦線の翻案が「禍(00年)」。
禍と楓の関係性が慎一と真理阿に通じる。
なお、「流竜馬」の血筋でもゲッターロボと魔獣戦線が強い存在はなぜか巨体になる傾向がある。
記憶喪失の竜馬≒慎一が持つ「明確な理性を後から獲得する」文脈は武蔵が持つものともなる。そのため、三号機乗りの存在が薄かったりいない場合(漫画版號の再登場時の竜馬も該当する)に、ゴリラ(猿╱大雪山での台詞)か熊(ベアー号)で武蔵の記号を取り込んで巨体と化していたかもしれない。

ゲッターロボアーク(01年~03年)と真説・魔獣戦線(02年~04年)の二作品についてはチェンゲ(98年~99年)や魔獣戦線OVA(90年)がベースのひとつと思われる。

と、まあ、意識して読んでみればやたらに翻案というかゲッターロボとその直系である魔獣戦線を要素のひとつにして再構成しているものが多いのである。(そしてその二作品は元がデビルマンでもある)(他にも幻魔大戦とか山田風太郎作品とか西遊記とか諸々が各作品ごとに入り交じっている)
一度設定や話筋、シーンを文字情報に落として、描かれた記号などを見れば、何をベースにしているのかはわかりやすくなるかと思う。
この翻案、再構成が多いというのは石川先生が多作であった由縁のひとつかもしれない。別作品として通用するレベルで再構成した自作のパラレル二次創作と言えばわかりやすいだろうか。
その二次創作のさらに二次創作などの形でも続けていたのだから始点と終点を見れば全く別物にもなるであろう。
しかし複数作品で微妙な同一性を感じたり、奇妙な統一感を覚えた方が私以外にもいるのならそれはこれらに起因していると思われる。
石川作品にはなにを書いても最終的に同じような結末になる、デビルマンから逃れられていないなどという評価も見受けられるが、そもそもにして最初からデビルマンやゲッターロボを翻案したものを描いていたのだから必然でもあろう。
(作家としての石川先生が空恐ろしいのはそうして描いたものが全て独立した別作品としてきちんと成立するほどの構成力や発想を持っておられたことでもあろう。脳内にあるそういったイメージを人物の表情やポーズ付け、コマ割、台詞などの漫画という媒体が持つ構成要素全て使って示唆し続けることもだが)
石川先生はなにを描き続けていたのか、というひとつの答えもここにある気がしてならない。

最後に、私がとても気になっている恐らくは「竜馬と隼人の直系」であった二人が存在する作品の話をしよう。
前述の通り、神隼人の存在は真理阿となってその核、魂を受け継がれていった。そのため、彼の外見を持っていても、その魂まで揃って受け継がれる存在は非常に少なかった。

しかし、珍しいことに、外見が明らかに竜馬と隼人の系譜であり、少なくともセット運用を前提とされていただろう人物達が出ている作品があるのだ。
それが「戦国忍法秘録 五右衛門(06年)」
五右衛門→やること目茶苦茶なゴリラだが、お顔や性格は明らかに竜馬血筋
半蔵→外見と性格が隼人血筋
石川先生の逝去により絶筆となってしまった作品である。

この二人をセット運用前提で描いていたのだろう。五右衛門と半蔵は本人達が知っているかいないかは別として特殊な関係性にあるという示唆が作中に存在している。
半蔵は五右衛門と二人で行動し始めると一人称と口調が変わっているようだし、ぱっと読んだだけでは気付かないが、五右衛門は半蔵を大事に思っているような描写もある。
扉絵で五右衛門の背中にアークが描かれていたり、気に入らないものは「喰っちまう」気に入ったものは「懐にいれる」傾向があるのも気になる。
まあ漫画版の竜馬と隼人が好きなら読んで損はしないだろう。
作者様ご本人執筆竜馬と隼人の時代劇パロ感覚で読める作品がなんと電子書籍440円(ただし絶筆)(あと竜馬位置の五右衛門が半蔵と頭ひとつ分くらい違う巨漢)。

もしも石川先生が本当にそのつもりであったのなら、この物語の最後はどうなっていただろうか。分類するなれば恐らく虚無戦記の軸に入っていただろう、しかしその主人公達は大元のゲッターロボの血が色濃い作品。
「時天空」という大枠を見せた後の作品でもある。石川作品世界の全てを包括して全容を見せてくれていたのかもしれない。
などと妄想は広がる一方ではあるが、そんなことは華麗にぶん投げてなにも考えずに読んでも気軽に楽しめる血みどろ活劇なので、この記事を読んだ方には是非お読みいただきたい。

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