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隠された東映版「ゲッターロボ」の話筋考察~早すぎた「少年愛」の萌芽

この記事は前回投稿したチェンゲの考察メモに繋がるというよりも、これに気付いたためにその後の漫画版などへの解読、そこからのチェンゲの考察に繋がっていった中核のひとつの話である。
調べるにつれて、私は疑問に思っていたことがあった。何故どの媒体においても原典の関係者が登場人物の関係性に触れなかったのか、どうして一定の話になると奥歯に物が挟まったような物言いになり核となる部分への言及がされないのか。
それもこれも根底にあったものが現在でもセンシティブな話であり、関係者は口をつぐむより他になかったのかもしれない。
しかしそれはそれとして、いちファンが事実関係を提示し、考察という未確定情報で提示する分にはなんの問題も……無いよね? 50年近くが経過し、これら考察の資料も既に20年ほど前のものとなる。ここで提示しておかなければただでさえ好き勝手に捏造されているダイナミック作品の事であるので事実関係の資料すらネット上には残らないのではないかという危惧も私には存在する。
よって、気づいた際のメモを元に、私がどのような過程を辿ってその話筋の読解に行き着いたのかを記載しようと思う。


【東映版「ゲッターロボ」表の話筋簡易まとめ】

「ゲッターロボ」の基本、核は「三つの心」である。
「後のないシビアな戦場で、共に死ぬことをも覚悟した三人の若者たちが、ひとつの変形合体ロボットで戦う」
事を軸に、侵略への抵抗という「戦争」の中での人間ドラマや、自立した女性たるミチルをも含めての性差にとらわれない個性の描写、その反発と協和などを一貫して描き、正しい意味での「個人主義」=自分と他者を尊重する事、そして「協調性」=全員が主体性をもって譲り合い調和する事を描き続けた。
その最後は放映都合などで変更となり、隼人のミチルへの純粋な愛情という形で愛するものや世界のために彼らは命がけで戦い続けていた事を示し、戦争である以上味方も死ぬと武蔵同様に隼人の犠牲で描き、しかし大団円で終わらせるために生存させて終幕としたのではなかろうか。

【1974年という時代背景】

本題に入る前に、少々長くなるが記載しておきたいことがある。この考察に至るまでに私が調べていた時代背景について。本格的に研究しているわけではないため、ネット上の情報からのものになるが、これら時代背景に目を通しているかいないかで本題に対する印象は異なるのではないかと考えるためである。

今から50年ほど前。1945年に第二次世界大戦が終わり、30年程。
戦中に少年期を過ごした人達は40代以上となり、ちょうど働き盛りである。
ダイナミック側のスタッフの多くは戦後の生まれであったが、企画から携わった東映版のスタッフの多くはこの世代であった。
「ゲッターロボ」の表向きの対象年齢は10才前後(小学校3、4年生:DVDBOXブックレット勝田Pインタビューより)。その御両親も終戦前に生まれた方は多かっただろう。
「戦争」というものがまだ色濃く、人々の記憶に残っている時代であっただろう。2023年の今から30年前なら90年代になる。こう書けばその時間感覚を理解できる方も多くなるかもしれない。

さて、ゲッターロボの企画がまとまったのは1973年末であったとは様々な媒体に言及があるが、永井豪先生の「激マン! デビルマン編 1巻」の記述も参考に1970年頃からの出来事で目についたものを記載する。

1970年8月:鶴田浩二の「同期の桜」がヒット。今軍歌の代表曲としてよく知られるこの曲が一般にも広く知られるようになったのはこの後であったという

1972年
1月:グアムで元日本兵横井さんが保護され話題となる
2月:札幌で冬季オリンピック開催。スキージャンプで日本人三選手が金銀銅を取得
2月末:連合赤軍によるあさま山荘事件
4月:米軍が北ベトナムへの全面爆撃再開
5月:沖縄返還
6月:「デビルマン」連載開始
この年には「ポーの一族」の連載も開始されている。(ただし単行本は74年になる)

1973年:加賀乙彦「帰らざる夏」が谷崎潤一郎賞を受賞

「デビルマン」が完結し、単行本が出たのもこの年となる。

日本には第二次世界大戦が終わるまで「念友」という概念と一種のシステムが男子学生間に存在していた。女学生間には「エス」という言葉で似通った同性愛的なものが存在し、「同期の桜」に使用された歌詞の元はその「エス」の少女の詞であったともいう。
曲がつき、航空隊のために付け足されたという歌詞も含めて、そこに男子間の念友のニュアンスを感じとることは不可能ではない。
「帰らざる夏」は第二次世界大戦中の念友関係にあった少年達を描いたものであったという。
日本における男色文化には、文明開化、明治維新と共にキリスト教的な倫理観とモラルも流入、一度(わずか数年、それも形骸化していたとはいえ)違法とされ衰退したものが学生寮の存在などを経て大正昭和の戦前に復活している背景が存在する。戦後、アメリカ統治下に置かれた際に再びその価値観は強まったのかもしれないし、同時に学制改革により男女共学となり機会的同性愛の減少があったのだろう。学生間の念友については急激に衰退したが、表現の自由などの確立もあり三島由紀夫などに代表される作家も出現、同性愛文化自体は発展した。

1960年から70年にかけては漫画版ゲッターロボにも描写が見られる、学生運動の全盛期でもあった。
安保闘争(60年安保、70年安保)と呼ばれる日米新安全保障条約に関連した反政府、反米運動。

1968年~1970年の全共闘運動大学紛争

これらの大きな流れの中には以下のような運動も含まれていた。

1960年代に全共闘運動が活発になると多くの女子学生も参加した。しかし参加した女性らは人間の解放を謳う運動でありながら女性を隷属的に扱う男性に疑問を投げかける。1970年に田中美津の記した『便所からの解放』により日本でウーマンリブ運動が始まり、世界的な第2波フェミニズムの潮流に乗る[314]

Wikipedia-日本の女性史

1960年~70年代は上記を含む世界的なカウンタカルチャー(サブカルチャーの一部)の流れが存在した。ジョン・レノンとオノ・ヨーコを筆頭に「反戦」が有名なところであろう。ヒッピーやドラッグ、ニューエイジ思想のイメージも強いだろうが、この際の主張にはフェミニズム、自由恋愛、マイノリティの尊重と受容といったものも含まれた。
1960年代から70年代にかけて、日本でも広まったゲイ解放運動もその一つである。

これらは、あくまで私がネットの海をさ迷い知りえた事でしかない。その出典について自分で再調査したわけでもなく(ネット上の情報は信憑性に疑問が残る)、これらに対して思うことはあっても語るほどの言葉は持ち得ない。私は自国における50年前の歴史すらも知らなすぎる。

そう痛感しながらゲッターロボの考察を行ううちに、幾つかのことに気付いた。

【裏の話筋に至る情報】

・竜馬と隼人は初期設定を入れ換えて成立している
・東映版は脚本家が異なっていても竜馬→隼人のなんだかよくわからない大きな感情は共通している
(私は一話冒頭から竜馬が一方的に意識しているような描写を筆頭に、何故か隼人ならできると本人以上に信じて疑わないサッカー回╱12話や、Gに入ってからは度々妙に距離が近いことも気になっていたし、29話ではハヤトの姉に輸血をかって出るが「おい、頼むから、水臭いこと言わないでくれよな」という台詞にはお前はハヤトのなんなんだと思っていた)
・漫画版では石川先生も竜馬≒隼人と取れる描写をしている(入れ替わりやちぐはぐ、二人の顔の傷が似るなど)
以上から、恐らく竜馬と隼人の間は特別であるというのは原典関係者共通認識であったのだろうと私は判断した。

そして、フォロワーさんがDVDBOX(03年に発売されたもの)を購入し、特典ブックレットより以下の記載を発見する。

*これらを含む絶版資料の画像はこちらにまとめています*

また、私は初見から、東映版「ゲッターロボ」は少々変わった特徴を持っていると感じていた。
主要人物、特に竜馬と隼人から異性への恋愛感情を感じないのである。武蔵や弁慶には明確にミチルや異性への恋愛感情が描かれているにも関わらず。
家族への愛情や守るべきものへの慈愛、親愛や友愛は描写されても、明確な恋愛とは描かれない。ミチルを誰とくっつけるのかも最後の最後まで迷っているような様子があった。
それでいて、竜馬と隼人の友情と一口に括るには分厚いものを全編通して各所で挟まれるものだから「ブロマンスか? いや、この時代にそんな言葉はないはず」と首を傾げていた。

これらにより、私は「竜馬と隼人は特別な関係性の二人であるという設定が原案時点の根底にあり、東映版においてはゲッターの軸のひとつが第二次世界大戦と少年兵だったことと戦中に少年期だったスタッフも多いことから、念友に近い概念として解釈されたのではなかろうか」と考えたのである。
(後にこれから連鎖した漫画版考察を経てもっと直接的な裏設定があったのだろうと辿り着くがそれは別記事に記載する)

【元シナリオを含めた東映版「ゲッターロボ」裏の話筋】

〖無印〗
実は最初から竜馬は隼人のことを無自覚的に「愛して」いた。
そのため一話冒頭から隼人を意識している描写が存在するし、隼人への信頼はほぼ最初から妙に厚いし、大幅変更された9話ラドラ回で隼人に顔がそっくりだというだけで攻撃できなくなり、勝利した後には連れ帰ろうとし、ラドラが死んだあとには何故か「いい友達になれただろうに」とまで思う。
10話なども「武蔵はミチルさんを意識して、カッコつけようとしていた」前提で展開し、何故か竜馬に武蔵が突っかかってるが、その竜馬が意識して張り切っていた相手は隼人である(実は竜馬と武蔵は似た者同士であった)と読み取れる内容であったりする。
隼人は亡き母親が「愛するもの」であり、その戦いの動機であった
これは一話に明確で、ミチルに母の面影を重ね、助けたいと思ったことがゲッターロボに乗るきっかけである。その為に序盤死ななかった際に「母さんのところへいけなかった」などと言ったりするし、39話さおり回でも余命が短い女性(病で亡くなった母と被っていた可能性がある)を生かせるならと自分の命を差し出そうとする。
(同時にこれらの描写からは、「隼人にとって最愛の母には代理など存在せず、そのため自らが彼岸に近づこうとしていた」傾向も読み取れる)
元々仲が悪いわけでもなかった三人でゲッターロボに搭乗し、運命的に繋がりのある竜馬と隼人の仲はより親密になっていったがお互い殆ど無自覚だった。
その上、実はお互いの「たった一人愛するもの」は違っている。
「友」とは使うので竜馬は隼人を愛するものというよりはかけがえのない戦友とでも思っていただろう。しかし隼人の愛するものは母親のままであった。
無印終盤47話、ミチルのことが好きだという自覚のある武蔵は、彼女との未来を考えるし、彼女が婚約しているのではないか(振られた)と思い「戦意を喪失する」
自分はミチルといることが楽しかったから早乙女研究所にいるのではないか、そう考えた武蔵は竜馬に問を投げ掛ける。

「早乙女研究所にいるのはなんのためだ?」「人類と宇宙の平和のため、そうかい?」
「ああ、そうだが?」
「それだけか? 本当にそれだけか!?」

少なくとも、武蔵から見れば「竜馬╱隼人が早乙女研究所にいる理由」は「隼人╱竜馬と一緒にいられるから」だった。そのため

「お前ら、なにもわかっちゃいないんだ」

という二人ともを指す台詞となって表れた。
そういう意味であったのなら、この会話の前に地震で病室にいるミチルがイケメンに庇われる一方、ブリッジで体勢を崩した竜馬と隼人が支え合うという描写が入ったのも納得はする。彼らは(無自覚的に)相思相愛であるという意図的な描写だったと。

〖G〗
そうして双方無自覚なまま、相思相愛であるとは示唆されてGに突入した。
脚本家はこの前提があったがために、4話で仲良くボールを追いかけ肩を並べて帰宅するのを筆頭に、全編通して竜馬と隼人の距離が近くなった。
胡蝶鬼の話など女性を気にしているような描写のある回も存在はするが、この回でも二人は胡蝶に恋愛的な興味は持っていなかったと取れる演出がされている。(弁慶に胡蝶を気にしてるんじゃないかと言われて二人とも最初に怪訝な顔をするなど)
ここで重要なのはここまでずっと、特に竜馬が「無自覚」なこと。

無印終盤47話での武蔵の問が回収されるはずだったのが大幅変更されたG最終話の元々の展開となる。(ロマンアルバムには元々のシナリオのラスト2頁が掲載されており、ブックレットの内容とも一致する)
「東京には一千万の人がいる。おれたちにそんなたくさんの人を救う力があるんだろうか」そう竜馬に弱音を吐き

「おれは、たった一人、愛する人のために戦っているだけなんだ!」

と、隼人が告げる。ここで初めて竜馬と隼人の愛するものは異なっていたと判明する。
そのまま、ミチルに母の形見の十字架を託して単身隼人は敵に向かい、行方不明となる。
竜馬は隼人「一人すら」救えなかった自分の無力に虚脱状態となり、弁慶に殴られてすら立ち直れない。
それまで数多の惨劇、命が奪われる様を目前にしながら、劇場版では武蔵が死んだ時すらも戦い、強靭な精神力でへこたれることがなかった竜馬が何故この時だけ立ち直れなかったのか。
ここに至り、ようやく竜馬は自分の「たった一人、愛する人」は隼人だったことを自覚したからではないか。言ってしまえば振られた事からの戦意喪失という武蔵の状態も被っている。
竜馬が早乙女研究所にいるのは、隼人がいたからだった。
として、武蔵からの問が回収される。
なおこの二つのシナリオを書いた脚本家は同一人物のため、ロングパスで回収したくなったとしても理解できよう。

「ライガー号でわたしもあなたのところへいくわ!」
そう言ってミチルがライガー号で出撃するのを目の当たりにし、自分を取り戻した竜馬もまた出撃する。
隼人が守りたかった女性(竜馬から見れば隼人の愛するものはミチルだったかもしれない)を死なせるわけにはいかないと思ったのか、自分も後を追おうと思ったのか、その辺りが理由になりそうではある。

決戦の末、実は生きていた隼人を救出する。
なお意識不明の間に射殺される女性にミチルを思い出して暴れ、敵を全滅させるとあるので隼人の愛するものはミチル解釈は可能。
角を植え付けられたことにより「心を失った」隼人を治療するも戻らない。
竜馬は隼人を無理矢理ライガー号に乗せて飛ぶ。
(これらはおそらく漫画版での竜馬の記憶喪失の入れ替わり、並びに竜馬と隼人の出会いの繰り返しになる。「運命だと思って覚悟するんだ!!」という漫画版の竜馬の台詞が神谷声で聞こえそうである)
ゲットマシンが急降下するなか、ようやく隼人は意識╱心を取り戻す。
弁慶「これでまた三人一緒だぜ!」
ミチルも見守るなか、大空に「三つの心」が再び揃ったゲッタードラゴンが飛び去っていく。

……という話筋の解釈で綺麗に収まるのではなかろうか。
先に記述した私が疑問に思っていた複数のことも、裏に流れていたのがこの話筋であったのなら、私は納得してしまう。
本来製作側が想定していたのは「竜馬が無自覚的にも一途に隼人を愛し続ける話であり、その最後には自覚と共に一度失い、再び取り戻すという終幕を考えていた」一種の純愛ラブストーリーであり、これであるならば確かに竜馬はこの物語の主人公であったのだと。

イメージとしては西城秀樹を狙った部分もあったんです。

「ゲッターロボ大全」30P 小松原一男氏INTERVIEW

これは竜馬のことを指した言葉であっただろう。
1972年にデビューした西城秀樹は男性的なセクシーさを押し出し、情熱的な歌詞と激しいロック調の曲で人気を博した。
73年には「情熱の嵐」「ちぎれた愛」といった曲でオリコン入りしている。
「愛する君のためなら命を懸ける」といった雰囲気の曲が多い事から、彼のイメージを竜馬に取り込もうとしたのではなかろうか。
(ゲッターロボG放映終了の76年に「ジャガー」という曲が発表されているが歌詞に驚いてしまった。全くの偶然であろうが面白いものである)

なお、無印47話での武蔵との会話などは実際に放映された+最終話は大幅変更されたので、よしんば本当にこのつもりであったならG以降は竜馬と隼人は無自覚な男子高校生カップルのまま終了したことになる。
正直に言うとここまででも生粋の腐女子のはずの私すら相当に狼狽えた。お前の都合の良い妄想ではないのかと言われても仕方がないと思う。
けれど至って真剣に原典に関連する資料を地道に集めて読み込んだ結果、大真面目にこの考察を出すしかなくなってしまったということはご理解いただきたい。

さて、この話筋であったのならと後から気付いた自分でも妄言極まっているとしか思えない話もついでに記載しよう。

そもそも私が東映ゲッターの台詞を書き出し始めたのは、なんだか無印33話「だけ」よくわからなかったからだった。

この話の中で、隼人の自信過剰、独断専行による研究所の設備破壊をきっかけに口論となり、隼人が突っかかる形で「どちらが強いか」「どちらがリーダーか」を巡って、作中唯一殴りあいの喧嘩(川だったかに引きずり込んだり結構殺意も高め)をする。

「今のパンチは、すごくきいたぜ、リョウ」
「お前のパンチだって重くて、こたえたぜ、ハヤト」
「だがよ、勝負はまだ終わりじゃないぜ」
(通信が入る)「来たな、メカザウルス! ハヤト、勝負はお預けだ、急げ!」

敵の襲撃で喧嘩はあっさり中断となり、三人で出撃。そして敵を倒してのエンディング。(なお以下の文章の二行目「その必要はないぜ」からはロマンアルバム掲載シナリオラスト2Pより書き出している。台詞も実映像とほぼ合致。…の多さに驚くが本当にこう書いてある)

「なあ、ハヤト。俺とお前の、例の勝負の事なんだが」
「…その必要は無いぜリョウ―」
「(いぶかしく)…?」
「勝負はとうの昔についてるよ… お前は立派なリーダーだ」
「…?!」
「―つまらん意地を張ったことが、恥ずかしいよ」
「…ハヤト …おれだって―(とつまり)…ありがとう」
「よせよリョウ… 俺の方がよっぽど… 涙脆いんだからな…」

どうして?? え、なんで?? 和解の理由どこ??
と初回も二回目も軽く困惑し、書き出してもやはりわからず「実は最初から竜馬をリーダーと認めてはいたけど隼人が意地をはっていたってまあそういう話なんだろうわからん」と置いていたこの話。

元シナリオまで遡れば、ラストシーン前にハヤトがリョウを認める台詞が存在し、それがブリッジとなっていると判明した(DVDBOXブックレット)のだが「なぜ消したし」というのはさておき。

竜馬と隼人は言えば(無自覚ながら)同性カップルであるという前提では
「どっちが旦那かはっきりさせようじゃないか」
という何重かの意味で男のプライドがかかっていた話であった可能性はないだろうか?
この話は半世紀前なので男女╱夫婦の役割的な固定観念は存在している時代である。念友というシステムもそうで男役と女役は基本的に年齢で決まったらしい。竜馬と隼人は同い年なのでこれがはっきりしてなかったと。
フォロワーさんに話したところ「この前に事故的になんかがあって、雌雄を決する必要性に迫られたのでは」という仮説まで出てきたがそれだと更に真剣さとかの説得力が高くなる。
ともあれ「お互い伴侶(生涯の親友くらいの自覚だろうが)なのは変わりないが、どちらがリーダー≒旦那でどちらがサポート≒女房役か(野球のバッテリーのピッチャーとキャッチャーとか、お笑いのボケとツッコミでも良いけど)かで揉めて、殺意高めの喧嘩までして、もういいよって隼人が折れた」話ではなかっただろうかと。
どうして資料片手に真面目に書いてるのに腐女子の妄言にしか読めないのか。

ところで、この話といい漫画版無印での校舎といい號での再会時の殴り合いといい、実は彼らの勝負は一度も決着がついた試しがない。
これも「彼らは対等である」がために「決着をつけることで優劣を示してしまうことを忌避した」が故の描写ではなかっただろうか。
リーダーやサポーターというのはあくまでもその人物の個性に応じた適材適所、役割の分担であって、そこに優劣があるわけではない。(確かにリーダーというのは多くの権限を持つことになるが、それは責任が増えるということでもある。ゲッターチームのリーダーともなれば、人類という種族をもかけた生存闘争における火消しで言うなら纒のような存在となろう。他人の死の責任をも負って生きることは万人にできる訳ではない)
ここで竜馬がリーダーであると明確にすると同時に、しかし彼らに優劣がある訳ではなく、あくまでも対等なのだと描いていたのではないかとも思うのである。

思い返せばこの33話までは「竜馬が隼人を意識している」「隼人が竜馬に突っかかる」描写が複数存在した。
実は最初から「竜馬はずっと隼人を見ていた」のではなかろうか。
その視線と意識を隼人は自分へのライバル心かなにかと思って反発をして勝敗に拘っていた(隼人が突っかかるのは基本的に相手から絡まれたときばかりで、人物像からして自分から喧嘩を売りにいくようなタイプでもない)。
けれど竜馬は自覚がないままの愛情の表れとして隼人を見ていたから何度も隼人を信じて丸投げしたりこの話もそうだが勝敗自体を放棄した(先述した10話などは竜馬は隼人を意識して格好つけたがっていたという読み方もできる)。
それを繰り返した結果、隼人がそこにろくな対抗心など存在しなかった竜馬の好意を理解し受け入れたのがこの話であった、という読み方もできるかもしれない。

この話のタイトルは「果てしなき大空に誓う」。
誓ってるのが友情にしてはなんだかよくわからない話だな、と思ってはいたが……まさか、本人達は誓ってないけど脚本家の脳内では……? とすら頭をよぎったが真相は謎のままである。

因みにこの脚本も田村先生の仕業である。(武蔵の問いがあった無印47話やG最終話脚本もこの方)
「大体この人が元凶か」と思いきや、実は大幅変更された9話ラドラ回(ゲッターは4月始まりで放映日が5月末なので脚本を書いたのは開始以前であろう)は雪室先生という方だし、無印でメイン脚本家であった上原先生も田村先生の独断暴走だったとして知らなかったわけがなかろうし、なんなら34話ユンケ回ではリョウに催眠をかけていたユンケに対しての隼人の台詞に「どうせこんなことだと思ったぜ、この女狐め!」と書いていて、個人的には(浮気現場みたいな状況と台詞だな。いやまあこれは私が腐ってるからだろう)などと感じていた。
ついでにマジンガー側の方が書いた脚本のはずなのになんだか隼人(ゲッター2)の扱いが変だった劇場版1作目(この時作画監督は小松原氏だった)とかも思い出すにどうにもこれは最初から
「竜馬と隼人はある種のカップル」「ゲッターのヒロインは隼人」
みたいな認識があって、劇場版にも少なくとも小松原氏が反映しなかっただろうか? という疑いが消えない。

同時に、竜馬にしろ隼人にしろ、彼らの「愛情」には極端に「欲」の描写がない。
半ば無自覚に、ただひたむきに誰かを愛したのが彼らであるなら、それは性愛や恋愛感情の伴わない、家族愛や友愛の延長線上にあって見返りを求めない「与える愛」であったのではないかと思うのである。

【終わりに】

現代では主に「ボーイズラブ」と呼称される、男性同士の恋愛や性愛を描いた作品群のジャンルの草分けとなるのは少女漫画における「少年愛」作品であるという。
これらは70年代から「耽美系」「JUNE」「やおい」などの呼称を通り確立していった。
その代表作「ポーの一族」が72年開始、単行本1巻は74年6月。「トーマの心臓」がゲッターロボと同年74年開始。
「風と木の歌」は76年開始、雑誌「JUNE」は78年の創刊。
明確なものではないが、同性愛的なニュアンスを含んでいたとも聞くドラマ「傷だらけの天使」すら74年10月始まり(ゲッターは4月始まりなので先行する)。
娯楽におけるジャンルとして「少年愛」や「耽美系」といった言葉すら明確に確立されてもいない黎明期であったのではなかろうか。
一般的には偏見も多く、メディアにおいては同性愛者=オカマやオネエと言った「女性的」なものだというイメージが強く、マジョリティであるはずの普通の男性の同性愛者は一般には可視化されていなかった時代でもあった。
そんな中でミチルを自分達の生活のなかに存在する自立した女性と描いたのと同じように、すぐ隣にいるような「ごく普通の少年がただひたむきに同性を愛した」という題材と真剣に向き合い描こうとし、しかし、この時代に放映するにはあまりにも前衛的すぎたがために様々な配慮などから放映のあの形になったのではないだろうか。

そこには時代背景も存在していただろうし、なによりも同じダイナミックと東映の作品である72年「デビルマン」の特に漫画版からの影響も強かったのではなかろうか。

以上が私の考察した「東映版の裏の話筋」である。

この後に「ならば漫画版真での早乙女博士の台詞」と気付いてしまったことが契機となり、そもそもの話で
流竜馬の核は漫画版デビルマンの飛鳥了であり、「リョウは友を愛している」という設定を持っていたのではないか
という考察に行き着くのだがそれは漫画版の考察と共に別記事に書こうと考えている。


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