見出し画像

ダイナミック漫画作品読む上で誤解してた言葉とか知識メモ~協調性と同調性の違い、ダーウィンの進化論など誤解の多い基礎知識編

ダイナミックプロ漫画作品とその感想などを読むに辺り、自分で調べ直して役に立った言葉や考え方のまとめなどのメモ。
案外と知っているようで知らない言葉や根本的な取り違えなどが多く、思い込みというのは良くないものだなぁと自戒込みで。
(実はきちんと作品を読みさえすれば、論理的思考でもって丁寧に追えば、これらの言葉の殆どはそれを知らずとも概要は頭に入るようになっている。言葉というのは先に概念やそのものがありそこに区別するための名前をつけるもので、名前が先にある訳ではない。その言葉の意味、本来先にあるはずの概念やそのものを履き違えた読み方は誤読にすぎないとはこの説明で理解できないだろうか)


ずっと根っこにありそうな知識

理性とは

理性
物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。それだけが人間を人間たらしめ、動物から分かつところのものであり、ここに「人間は理性的動物である」という人間に関する古典的定義が成立する。

理性ーコトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ) 「理性」の意味・解説

ここにおける「人間に関する古典的定義」も非常に重要。
明確になったのはデビルマンからだが、基本的に永井先生や石川先生の作品はこれを基本的な部分に置いていると思われる。

根本的な取り違えや勘違いが起きやすい言葉

個人主義

自己の利益の追求、自分さえ良ければいい=利己主義、自己中心性、エゴイズム(個人主義のうちに包括されるものではあるらしいが、これはダイナミック作品では特に他者への攻撃性まで含んだ場合、悪の理屈で肯定されない=主軸ではない)
⭕️自分のみならず他者の権利や尊厳をも重要視する(重要視されて軸になってるのはこっち)

日本では、夏目漱石(そうせき)に『私の個人主義』(1915)という講演がある。彼はこの講演で、イギリス留学中に「自己本位」の思想に達したと語り、個性の発展を図る個人主義を説くが、しかし「自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない」とする。

個人主義―コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ) 「個人主義」の意味・解説

対義語としては「全体主義」「集団主義」となる。
どうも「利己主義は個人主義とは異なる」という説もあるらしく、なんだか調べるほど複雑だが、ダイナミック作品の読解において必要なところは概ね先の一行でまとまる。
自分の権利や尊厳は尊重しろと主張するが、他人の権利や尊厳は尊重しないとなると「筋が通らない」=男らしくないだろうとも思う。

余談になるが「真の意味での利己主義」となると、「他人はどうでもいい=なにもされていない他人に攻撃や支配などもしないはず」となる。
これを丁寧に描いているのが05年の「ガン×ソード」のヴァン。
他者への攻撃性や支配欲というのは本質的には「他人はどうでもいい」ではなく「他人や環境を自分の思い通りにしたい」という利己主義等とも厳密には異なるものではないかとも考えられる。

アナキズム

無秩序状態を望む。テロリスト、過激派など
⭕️あらゆる権威や支配を否定して個人の自由を追求する

このアナーキズムは個人主義的無政府主義、社会的無政府主義の二つの異なった分類があるらしい。
その思想から常に反体制とは縁が深く、テロリストとか過激派とかのイメージも付随しているが、本来は「秩序のない状態を望む」思想ではないという話はこの辺の記事にもある。

これもなんとも複雑なようだが、ダイナミック作品読むだけなら先の一文での理解で大丈夫だろう。
「あらゆる権威や支配を否定して個人の自由を追求する」ことをアナキズムというなら、確かに竜馬とその血筋などは間違いなく「アナキスト」である。しかし反社会的でもなんでもない。(因みに枠に収まってくれるのは隼人の方)

ゲッターロボにおいて、ネット上に誤解釈が多々見られるもの、並びに未監修派生作品での取り違えなどが疑われる言葉や考え方

ダーウィンの進化論

優勝劣敗と弱肉強食
⭕️多様性を前提にした自然淘汰での適者生存

この誤解である「優勝劣敗と弱肉強食」に関しては、現在では科学的根拠に乏しくイデオロギーと理解されている社会進化論との取り違えが疑われる
この思想はダーウィンの進化論とは全く異なるもので、優生学をはじめとする差別的思想や植民地支配の根拠などともなったため批判されている。元来のゲッターロボにおいても敵の持つ主張や理屈にこれをベースに生まれた思想が強く見え、主人公側が「進化論」と「協調性」、敵側が「社会進化論」と「同調性」の戦いと取ることもできる。

北海道大学オープンコースウェア ゼロから始める「科学力」養成講座2 第26章 自然選択と生命の進化

制限資料として二次利用が認められていないので、リンクを貼るのみに留めるが、これの最初にある「ダーウィン以前の理論」に一文でダーウィンの進化論とはどういうものだったかがまとめられている。

ゲッターロボという作品において、この誤解の有無はかなり大きい。
そもそもダーウィンの進化論は多様性を前提に環境変化による自然淘汰での適者生存の話である。
(生物学では「自然選択」という言葉が適切であるようだ。強弱といった価値基準の話でないこともリンク先のWikipediaに記載がある)

弱肉強食による優勝劣敗とは、この結果の枝葉の部分を起点にしたトーナメントのような解釈となってしまい、真逆の単一先鋭化の理論となってしまう。
種の生存という視点においては「弱肉強食」とは負け理論でもある。それを肯定してしまうと女子供老人から死ぬことになり繁栄が不可能になる。人類は多様性を確保することで現在の繁栄を得た種である)

ダーウィンの進化論とは、生物として優れていたから生き残った種が進化したのでは無く、多種多様に進化/変化した中から環境に適応した個体が生き残ったという話である。
基本的な理解として、「進化」とは「進歩」ではなく「変化」であることは重要となる。
我々を含めた全ての生命は、数多のバリエーションの中から結果として生き延びたサバイバー達であり、それは横並びの存在である。
この為、そもそも生き残っているから強いとか、進化を重ねるだけ向上しているという話でも無いし、意図して行えるわけでもない。
我々はミジンコみたいな環境では生きていけるはずもなく、ミジンコもまたそうであり、同じようにその環境においての生き残りであるだけである。いくらミジンコと同列と納得がいかなかろうがそういう理屈なのだ。

この理論では「進化の果て」とは基本的に存在しないはずでもある。
環境変化が起きないための維持停滞はあろうが、進化とは結局結果論であって、環境の変化がある限り進化先の個体は誕生するだろう。
そこで終わるというなら種の滅亡ではなかろうか。

このダーウィンの進化論の原理原則(ダーウィニズム:進化に目的や方向性はないと考える)と「ナチズム」は対立するとWikipediaでは挙げられているのだが、具体的にどのような考え方がダーウィンの進化論とは相容れないのか分かりやすいためこちらも引用する。

ナチズムの主張は進化論とは全く相容れない。
・人為的に他民族を絶滅し、固定化する→分化、多様性や変異の否定
・優等人種であるアーリア人と劣等人種であるユダヤ人の生殖では前者の形質が後者に劣ってしまう→適者生存の否定
・進化の原動力は意志→適応や順応などの否定

Wikipedia「進化論」

反体制

左派、反社会的
⭕️政治体制や社会体制に反することや立場

反体制というと左派ばかり上がりがちだが、単純な誤りである。
「体制に反すること」であるため、その思想が左だろうが右だろうが中道だろうがなんだろうが、その定義さえ満たせばそうなる。
学生運動も左派の他に右派の活動もあり、事件も存在しているのだが、あまりにも連合赤軍や山岳ベース事件の印象が強いためか、いまだにその気風を残す人に左派が目立つためかなんなのか、こちらは取り沙汰される事が少ないようだ。

なお、反体制というのはあくまでも「政治体制や社会体制のなんらかに反対する=政治主張を持つ」ため、OVA「新ゲッターロボ」における隼人が反体制というのも単純に誤りである。テロリストも政治主張が無ければそう言わない。公式から言葉を盛大に間違えて使用するのは如何なものか。あれは無目的な大量無差別殺人犯とかである。
かたや漫画版の隼人は、ではなんだったのかといえば、新隼人とは逆の思想と主義主張を持った正しくテロリスト未遂である(しかしながら未遂に終わっていることは重要であるし、現実世界に陰惨な事件が連続している以上、界隈に多く見られるように侮蔑のレッテルとして気軽に使い嘲笑って無責任に消費することも個人的には眉を顰める)が、読む限りは左派でもあり右派でもあり、かつどちらでもない。

*余談だが「テロリスト」とは政治目的のために暴力も行使する主義者、暴力主義のことをいうのであって、単に政治主張のために行動してたらテロリストなんてこともない。流石に「デモはテロ」なんて言葉を見たときには目を疑ったので一応記載するが。自分にとって都合の悪いものへのレッテルとして気軽に使われすぎだろう。

ここまでの説明にわかるように反体制とは思想のスタンスの話でしかなく、=反社会的(社会の秩序や道徳から著しく逸脱している様子)などと短絡的に結び付けることも誤りである。
例えば、男尊女卑が体制であった時代なら女性の尊重は反体制となるが、女性の尊重が常識となった世界に置ける反体制とは男尊女卑となる。
またこの場合、どちらにせよ反体制的ではあっても反社会的とはならないだろう。
また、この問題では反体制側だが別問題では体制側となるなども往々にして起こる。

反社会的というのは社会その物への反発であるため、そこにある中身が変わろうが関係無く社会の全部に反発する。そのため、社会通念と関係が無く独立した「倫理」「道徳」への反発も引き起こしがちなのであろう。
それは端的に言えば「悪」というのだが。

(相対主義的な)正義の対義語

正義⇔悪
⭕️正義⇔不義、善⇔悪

*正義には「普遍的正義」を唱える側もある(人道にかなっていて正しいこととかの意味は多分こっち)のだが、特にこの日本という国の歴史、第二次世界大戦においてを考えれば「正義も立ち位置やその時代の法や規範で変わるものであり、絶対的な基準足りえない」と考える人間は、特にその記憶が色濃く残る70年代などには多かったのではないかと思うため、ここでは「相対的正義」で考えている。

正義とは文字通り見れば「義が正しい」という意味であり、極端に簡単に言えば筋が通っているかの話である。
この対義語は「不義」となる。
では悪の対義語は何かと言えば善となる。
言っていることの筋は本人なりの理屈としては通っている(正義)が、行いは許されざる悪行である(悪)という事は起こりうる。
ウロ戦争におけるロシアなどは良い例で、彼らには彼らなりに筋のある理屈(正義)があるが、それで成していることは悪行というより他ない。
これからもわかるように、相対的正義とは、なんらかの絶対的な基準を持つものでは無い。

*純粋な語義ではない見方として、最初の個人主義と利己主義やエゴイズムの違いに述べたが「相手は尊重しないが自分だけ尊重しろ」というのは筋が通っていない(不義)。そしてこれは(少なくともダイナミック作品においては)悪の理屈である。
これに対して「自分を尊重して欲しかったら他人を尊重してから言え」「筋を通せ」とぶん殴るのが「正義」と仮定するなら、「悪」の対として「正義」も上がるだろう。

倫理や道徳、人道に反し、他者を害するとか不利益を生じさせる事を悪(人道・法律などに反すること。不道徳・反道徳的なこと。)と言い、代表的な物が殺人などとなる。
正義があるからと言って、悪が悪で無くなる訳では無い。
明確な、打倒すべき「悪」というものは確かに存在するのである。自らがその「悪」を成してでも。

侵略戦争における論説

喧嘩両成敗、どっちも悪い
⭕️侵略戦争ふっかけた方が悪い

一方的な侵略戦争において、どっちも悪いというのはナンセンスである。
先の相対的正義についての説明が理解できれば納得も早かろうが、如何なる理由があろうと侵略した側が悪いのである。(同じ理屈でテロも許されるはずありません)
侵略戦争(吹っ掛けた側)と防衛戦争(吹っ掛けられた側の抵抗)を混同してはならない。
防衛戦争を強いられている側にまで悪いというのはおかしな話でしかない。

例えば恐竜帝国ならば、彼らには彼らの「元々地上は自分たちのものだった」「適応できなくなり地下へ潜った間に人類が繁栄したが、自分たちこそが地上の支配者である」理屈はあるが、それを持ってして人類が悪いと言うのはおかしな話であろう。お前らが勝手に言って押し付けているだけじゃんか。
まして殲滅していいものと判断しての一方的な侵略戦争という暴挙の理由にはならない。

その理屈に頷き侵略された側も悪いというのは、単に侵略者の擁護であり、力による現状変更と支配、勝てば官軍やら弱肉強食を後押しするものである。
真に戦争を止めさせたいならば、この場合に最初に言うべきは侵略者に殺すな、戦争をやめろと言うことである。
侵略戦争というものは仕掛けた側にやめる気がない限りは抵抗するより他になく、テーブルに着く気がそもそも無い為に交渉にすらならないとはこの二年ほどの現実を見ればわかるのではなかろうか。
防衛戦争を強いられている側に侵略者の暴挙を止めないまま武器を下ろせと言うのは、大人しく蹂躙されろ、支配されろと同義である。

協調性

他人に自分を合わせること(同調性╱主体性に欠ける)
⭕️違うもの同士が譲り合い妥協点を探して調和すること(双方に主体性がある)

よく聞く言葉ではあるが、どうも履き違えている人も多く、協調性のつもりで同調性のことを話しているとかよくある。

「同調圧力」という言葉はあっても「協調圧力」という言葉は何故無いのかといえば、「同調」は時として一方的に相手に求める事になるからである。
ゲッターロボでは「協調性、チームワーク」を強調されるが、これは誰かに一方的に合わせろという話ではなく、主体性は持ったまま相互に譲り合う気持ちをもって協力しようという話である。
この為、本来は1号機乗りを親分とした手下や子分のような関係性(上下関係。命令、支配関係。黄門さまと助さん格さんでもいいが)ではなく、三人ともが対等で横並びのはずである。(これは東映版の資料などにも触れられている)

*「リーダー」といった「役職」とはあくまでも適材適所の考え方による役割分担で着いた位置などを示すものであって、支配構造における「身分」を示すものではない。
このため、「リーダー=えらい」「親分」とか権力勾配を持って見ることがそもそも勘違いである。

どうも川越ゲッターをはじめとするダイナミックプロ未監修の派生作品はこの履き違えを起こしている可能性が高い。
「協調」ではなく「同調」であるために
主体性のある一人に合わせればいい→一人だけが強ければ「同調圧力」で容易に成せる(なので一人だけが特別とか言い出す)≒他者の主体性は邪魔→他人のこととかどうでもいいから「利己主義」「弱肉強食」の肯定等に繋がる
といっそ綺麗に文脈が繋がるのだが、原典との食い違いや各種設定との齟齬を無視しすぎだし、そもそも辞書を引かなかったのかとはとても聞きたい。

この流れが理解できれば、「支配」とは「自分への同調を強制すること」に近いとも理解できるだろう。他者の主体性、権利、尊厳など無視して「自分に合わせろ」と一方的に押し付けるから支配になるのである。
「侵略」や「相手の同意を取らずしての一方的な同化」も同様である。

ゲッターロボの定義

ゲッター線を動力源とする
⭕️「三つの心」を持つ

この記事に引用した原案者の言葉からして「三つの心」の方がゲッター線より余程重要とはわかるだろうし、「三つの心」の定義などはこの記事にまとめたので省略。
誤解釈だとプラズマエネルギーを動力源とするゲッターロボ號の存在に整合性が取れず、その時点で疑った方がいいだろうとも思う。
ついでにいうとダイナミックプロ公式の監修が入っている「ゲッターロボ飛焔」も最初はプラズマエネルギーだけで駆動しており、後にゲッター炉が動いて両詰みの機体となる。「ゲッター線を動力源とする」ことがダイナミックプロの公式見解であるなら始めに稼働させるのはゲッター炉になるはずで、こういった描写にはならないだろう。

だがしかし、どうも未監修の派生作品、川越ゲッターはこの誤解釈を使っているのか、アニメ版アークでいきなり出てきた元ネタもよくわからんゲッターの曼陀羅っぽい奴にもゲッターロボ號は存在していないという話がある。
「三つの心」も4回やって4回ともまともに揃っておらず、おかしいというより他にない。
なんとも「三つの心をゲッターロボの定義から外した」か「三つの心の定義が原典とは異なっている」疑いが強く、正直どうなってるのかわからない。
取りあえずなんかここから全然わかってないかわざとやってない可能性が川越ゲッターにはあるというか、この記事の誤解釈とか履き違えほぼ網羅してる可能性がある。

瞳の表現

ハイライトが無い、グルグル目は狂気
⭕️通常ハイライトはある、グルグル目は極限状態

石川作品における瞳のハイライトは、十中八九「理性の灯火」表現である。(ついでに東映ゲッターの瞳にそっくり)
このため、通常主人公側の登場人物はどれほど瞳が小さくなろうと極力入れようとしている節がある。なぜか漫画版でも無いのがデフォルトだと思う方もいるようだが単に勘違い。

所謂グルグル目というのはこのデフォルトがある前提の上で、理性あるからこその激怒により紙一重になっているだとか、精神的にも追い詰められた極限状態を示す。狂気と言えばそうかもしれないがとても重く、そう簡単に使っては意味が変わってしまう類いのものである。
「違いがあるからこそ強調される」手法のひとつになるので、前提でデフォルトを知っていないと効果は十全に発揮されない。
triggerの今石監督×中島脚本作品などは割と意味合いもそのまま記号として使用しているので、あのイメージの方が近い。

では石川作品で完全に理性を失っている瞳、狂気の目はどのようなものかというと、OVA「新ゲッターロボ」で書き下ろされたDVDパッケージの竜馬(逆転存在)を、漫画版の彼と見比べてみるといい。
わかりにくいが目が釣り上がり、焦点があっていないようで、極端に虹彩が小さく、ハイライトがほぼない。「鬼」をはじめとする「悪」の瞳に近いことも冊数読めば気づくだろう。
石川先生はおそらく意図的に瞳の描き方を変えている。

個性の理解や把握

カテゴライズする(分類)、テンプレにはめる(規格化)
⭕️そのものを見る。複雑なものは複雑なものとする

実はゲッターロボという作品が生まれた74年には現在私たちが知るようなロボットものや三人組におけるテンプレートや王道などまともに存在してはいない。
(スーパーロボットの元祖たるマジンガーすら72年始まり、チームもので代表的なガッチャマンも72年、ゴレンジャーからの戦隊モノは75年開始)
むしろ、人物の三原色分け、人物像、関係性などはゲッターロボがその後の多くの作品の基礎となる
面白かったし使いやすかったから、複雑でわかりにくい部分を整理し、単純化や誇張してテンプレートが作られた。ならば元はもっと複雑でなければおかしいだろう。故に、今現在のテンプレートに無検討に当てはめることはまず誤りである。

カテゴライズというのはある特徴で持って既存のカテゴリーに当て嵌めること=分類である。
しかし、ただ分類しただけでは理解にはなり得ない。
冷蔵庫の野菜室には野菜が入っているが、それは野菜という分類なだけで、キャベツなのかレタスなのかピーマンなのか人参なのかはそのものを見なければわからない。
個性の理解とは、それそのものを見る事にあり、分類しただけでは理解したつもりにしかならないのである。
ましてテンプレート(型)にはめるとは、規格を統一化するという、むしろ個性を消す行いである。
それゆえ、これを理解しているクリエイターはテンプレートは使いながらも個性=違いを出す事に力を注ぐ。
……なんでもかんでもヤクザの鉄砲玉解釈して当て嵌めるなど、普通やらないと思うのだが……。

「比較する」とは「優劣をつける事ではない」
「比較」というのはそのものの違いを見るために行う事であって、それを優劣を着けることと勘違いするのは何らかの限定的な価値基準を前提にしているために起こる。
例えば運動ができるとか勉強ができるとか他人と比較しての単なる事実の話だが、それを「運動ができるからすごい」、「勉強ができるからえらい」とすると比較の話ではなく、外部のなんらかの基準による他者評価、優劣の話になってしまう。
「何ができるかできないか得手不得手はあるか」が、比較からのその存在の持つ事実や特徴=個性であって、
「通信簿」という他者評価、優劣は別の話と言えばわかりやすいだろうか。
この理解が浅いために他者との比較を忌避し、皆横並びで同じであることを優劣をつけないことと勘違いしている場合が多い。他者と比較をしないことには自分など理解できるはずもないのだが。

ゲッターに限らずめっちゃ色々関係あるけど長くなる話

以下は先の個性の話にも通じ、確かに知ってると読解しやすくなるだろうがちょい難しい、難しいから長い。
色々雑多に読んできた上で石川作品はこっちの考え方じゃね? みたいな、永井先生や星先生の作品含めてダイナミック漫画140冊くらいは読んだので考えたことの一旦のまとめ込み、話半分くらいでよろみたいな。
しかし普通に現代社会を生きる上でも割と大きい、悩んでる人が多いっぽいことの話だし、ゲッターロボに限らず初代ガンダムとかシンエヴァとかこの辺の考え方知ってるかないかで根本的な読解から変わってしまうような話。

他者理解、他者の肯定

「自分と同じ」を探して同調する(他者の自己への同一化)
⭕️「自分と違う」を肯定する

そもそも他者を肯定する、存在を肯定するとは、単に相手になんでもかんでも頷き同調して全肯定しなければ成立しないというものでは無い。
それでは単なる服従であり、自らなった相手の奴隷である。
正しい相互理解や他者肯定というのは
「あなたと私は違うよね。まあいいんじゃない」
の方である。
「みんな違ってみんな良い」では無く「みんな違ってどうでもいい」こそが多様性の受容だとX上で見たが、私もそう思う。

多様性とは自分に都合の良いものだけで構成されはしない。むしろ自分に不都合なものにこそ寛容を示す事が多様性の肯定となる。
多様性のある場というのは澄んでなどいるはずがない。むしろ猥雑として綺麗も汚いも全てが混沌としたカオスであろう。意見や思想の一致を他人に強要するとは、多様性の排除に近いのである。

*この話をすると「多様性を認めない事(不寛容)にも寛容であるべきではないのか」等と出がちだが、これに関しては既に「寛容のパラドックス」という言葉と議論がなされている。
『寛容な社会を維持するためには、寛容な社会は不寛容に不寛容であらねばならない』
しかしこれも認めるべきではない不寛容の基準をどこに置くべきかなどの点で考え続けねばならない問題でもあろう。

その人間は自分とは異なる存在だと認識し、良いも悪いも好ましい好ましくないも引っ括めて「そういう存在」と認める事を存在の肯定という。
これは自己肯定でも同じように言える。
そして本来、同意や拒否、好悪、善し悪しと言ったものはこの後にあるべきものである。
この辺りは乳幼児における自他認識の区別段階を参考にして貰えるとおそらくなんとなくの把握はしやすい。

自分と他人を違うと切り離し、他人の違いを理解して、他人を認識する。自我発達のプロセスにはそう言った部分が含まれている。
誰も彼もが「自己を切り離す」事で他人を認識してきたのである。肯定するとは認識があってこその話でもある。
このため、自己への同一化プロセスは一種の退行現象であるとも言えるだろう。それが悪い訳では無いが。
生物は集団主義的な行動を取りやすい、という研究もあるそうだが、そうであるならそれは尚更に「本能」の区分の話であろう。

「争わないのは良い事」は真であるが、「同じであるのは良い事」は偽であるとでもいうか。
意見の擦り合わせの結果そうなれば理想的である(協調)という話であって、最初から異論を排除して同一化する(同調の強制)のは違うというか。(ゾーニングとか住み分けとかは本来この理想的思考の延長にあるのが望ましいはずでもある)

拒否や異論、批判をしたから存在否定という訳では無い。
あなたがそこにいる事とあなたに同意するかしないかは全く別の話である。
批判されたこと、同意を得られなかったことを自己を否定されたと感じる人も多いようだが、食べ物の好き嫌いレベルの話に落とせばそこを同一視して自己存在の否定や肯定に結び付けることは飛躍にも過ぎよう。私は好きだがあなたは食べられない、嫌いなだけの話に、食べられないなんて私を否定してるとか私を嫌いなんだとか言わないだろう。
これは他者への自我の拡大、自己の同一化が前提にあると起こりやすい反応である。相手は自分と同じである無自覚の願望、自我の拡大願望(これらは同一化願望という本能とも言えるかもしれない)があるからそこに壁があると知った時に安易に自分への拒絶とすりかわる。
この同一化の先が好きな対象になるとそれへの批判や何かに耐えられなくなる。作品でも人物でも良いが、推しへの批判に過剰な反応を取ってしまうという裏には、そういった心理が度々隠れている。

自らの主観を起点に、例えば「自分は相手が好きだから全て丸呑みして相手を肯定しなければならない、相手は悪くないはずだ」などと相手を規定することも自分を押し付けているにすぎない。
この勘違いをしていると、明確に悪いことをしているものにすら自分は好感があるからというだけで「この人は悪くない」などと言い出しやすい。
そうでは無い。
その人間はそのようなことをする人間である、これを受容することがこの場合における他者理解や存在肯定のスタート地点である。
そして、その言動に対しての善悪を自分のこうあって欲しいだとか、悪くないはずだ等という思い込みで軽んじてはならない。この思考の人間は同時に度々自分の支持するものや擁護したいものの都合の悪い部分は棚上げしてしまうが、それは筋が通らない二枚舌だしダブスタである。
同じようなことは「嫌いなものがする良いこと」でも起きる。
誰がやろうが悪いものは悪いし良いものは良いのであって、善悪や倫理観の基準を自分の都合でコロコロと変えることは信頼に悖る行いである

……血界戦線のザップパイセンとその描写が好例で、誰も彼も彼の悪行を批難し擁護せず、度々罰が与えられているが、いることは前提にし、ある種の信頼関係も築いている。客観的に見れば彼のアイデンティティはクズ野郎にあって、悪くないなどと言ってはそのアイデンティティの否定である。人間としてはクズ野郎だが皆それはそういうものとして存在は肯定されている。
ゲッターロボであれば漫画版序盤の武蔵である。(なんか3号機乗りが唯一の良心みたいな言説も見るが、原典においては3号機乗りが一番人間としては未成熟であるし、反転ゲッターとなる新ゲッターでは「新弁慶はまとも(何がとは言ってない)(我が家見解:倫理観とかがあるって話じゃなく、生存本能がまともに機能してるってだけじゃん?)」だけであってそんなことどこにも描いてないんだが根拠はなんなのかいつも不思議である)
死ぬ覚悟もないままにただかっこいいからというだけで乗りたがり、能力不足を理由に断られたが、この時の竜馬や隼人などは単に能力不足や覚悟が無いことを指摘して帰れるものなら帰った方がいいと言うだけである。
それは武蔵はそういう人間だと理解した上で、彼に取って良かろう選択を示しているのであって拒絶や存在否定ではない。
その後、嘘をつき暴力を振るって無理やり乗ったことがわかると明確に叱責や怒りが飛んでいるが、これも存在否定などではない。

どうも川越ゲッターはこの辺がきちんとできておらず、特に新ゲッターに顕著だが明確に悪いものを悪いと言えていない=悪行の棚上げをしている。(大は殺人から小は女性へのセクハラなど他者の尊厳や権利の軽視は悪いことである)
悪いことを大したことでは無いと適当に流し、なんなら擁護して、それが他者理解や肯定だと思ってでもいるかもしれないが、それはここまでに述べたように(少なくとも石川作品においては)誤りである。
また意見の相違があった時にすぐに暴力を持ち出して物理的にねじ伏せようとする事も相互理解には程遠い。それは他者への一方的な支配欲の表れである。
本当に他人のことがどうでもいいのならば、自分になにもしていない他者への攻撃や支配、強制などはしないはずでもある。
どうしてそこで攻撃性として転化するのかといえば「他人や環境を自分の思う通りにしたい」というのがその本質であるだろう。
(原典においての敵は「向こうが先に人類を害し、悪をなしている」し「話して通じる相手ではない」。虐殺をなす相手は妥協する気などなく、話し合う気など頭にはさらさらないから一方的に虐殺するのである)

逆に、漫画版真において「根本的に違う」「だから面白い」と隼人に言った竜馬などは、相互に自分たちは違う存在だと認め、その上で無闇な否定や同調はなく、お互いの相違はそのままに、あるがままに面白いという好感情に繋がっているという一種理想的な相互理解、存在肯定の描写である。

自己への同一化と寄り添うことの違い

ここまでは、言ってしまえば「自分と同じ」ばかり探していては「違う」という当たり前すぎることに耐え切れなくなるくらいメンタルよわよわになるし、それは他人をわかってるつもりになってるだけかもよ、知らんけど。という話だが、

さてでは同一化では無く、他者と「気持ちを分け合う」とはどういうことか。
そんな難しい話ではなく、相手は相手として寄り添えばいい。

あなたと私は違うから
どれだけあなたの身になって考えようと、あなたの感情を理解し切れることなどはありえない。
けれど、今あなたが喜んでいる、怒っている、悲しんでいる、楽しんでいるのはわかるから、私もそれに寄り添いましょう。分けてくれるのならば分かち合いましょう。
そんな話である。単純に。

つらつら書いて来たがこれを書いている私含めて人間とは弱く、違うとわかればわかるほど、自分は「個」であると認識するほど孤独と隔絶を感じるものだ。
相手を知れば知るほど「違う」とわかるのはなかなかにつらい部分があるもので、この辺の感覚は(不勉強なためざっくりしたあらすじと逆シャアくらいしか知らないが)初代ガンダムのニュータイプなんかがよく表れていたのではと思う。
逆シャアを見た限り、彼等は相手の思考を理解出来る能力を持ってさえ和解できなかったというよりも、それ故にますます難しかったのかもしれない。同じにはなり得ないと突き付けられ続けたのが彼らだったかもしれない。
(そう考えればシャアは絶対的な庇護者、かつて自分と同一であった存在ともいえる父や母の概念を求め続けたとも言えるかもなとか思わなくはないが、まあそういった事は専門知識のある方にお任せする)
だから、他人の思考などわからない方がある種気楽に生きていけるとも言え、衝突せずに済む部分は明確にせずなあなあにすることも悪くはない。
……わかっちゃいるがなかなかできないので私はこうなのだが……だって嘘つかれるの腹立つじゃん……私にはそれは悪だよ……。

同時に自分と他人を切り離すことを苦手な人も存在していて、それは人間の生育過程上必ず通る道であるし、そこからどの程度の分離や別離を経てどのような自己を確立するかも千差万別である。
それもそれ自体はただそうというだけであるし、他者にどれだけ自己を寄り添わせられるのかというのは共感能力に直結する部分でもあって、そういう意味では長所ともなりうる。
共感性とは他者への同調性を言う。しかしこれも自他を切り離した上でないと、他者に同調しているつもりで自分の主観だけで他者もこうであると規定する履き違いを起こしかねない)

因みに自他分離できない(他者は自分ではない=世界は自分の思うようにはならないし、他人にも自分と同じように自我があり意思があり権利や尊厳があるという理解の薄さ)ままに
「他者に同調を強制する」=支配、同化
(他者の権利や尊厳を無視しての攻撃性にも通じ、悪い意味での自己中心性ともなる。自己愛、ナルシシズムの一種)
「他者に主体性を投げて同調する」=依存

となり、どちらも「言うことを聞かなかったお前たちが悪い」「自分に責任はない」と自己責任が付随せず他責的になりがちである。
こう考えるならば「自他分離」がまず重要ではないかとは思う。誰もが誰もの道具でも手足でもなんでもない、自分と対等であり違う、権利や尊厳を尊重しなければならない一個人という理解が何においても重要なのかもしれない。
「協調性」には自他分離できてないと辿り着けるはずもないのだし。

何事もバランスは重要であるし、自己や他者に害を及ぼした時に問題となるのであって二元論的にそれが絶対的に悪いという訳では無いだろうのは気にとめたいところだ。
全肯定と全否定しかない世界は楽ではあろうが私は真っ平ごめんであるし。

あなたの悲しみも私の怒りも何もかも、私やあなただけの物であって、同じにはなるはずもない「個」を持つ私たちは「寄り添う」事が最大限の努力であり、それを「分かちあう」のが精一杯だし、そうできることの方が少ない。
「三つの心が揃う」とはこういった他者理解や他者の肯定の上で、三人ともが「一緒に死んでもいい」とすら思うという、実に奇跡じみたものを捉えた言葉ではなかっただろうか。

他者を思い、尊重しようとする。
その心こそをダイナミックプロ漫画作品は「理性」とし、他者やその他者が寄り添う社会、ひいては世界への愛情を描き続けもしたのだろう。

案外、現代社会に必要なのは、半世紀も前からあの根底に流れていた、正しく「自分と他人を尊重する」という、ただそれだけなのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?