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アジアと日本の歴史⑩ 大東亜会議~アジア初の国際会議

 昭和18(1943)年11月8日、東京で大東亜会議が開かれました。教科書などでは「敗色が濃くなってきた日本が、大東亜共栄圏の結束を誇示するため、傀儡政権の代表を集めた『茶番劇』に過ぎない」という評価が下されています。
 しかし、実際はアジアの第一級の政治家が参会し、日本と共に彼らの意気軒昂なところを内外に鮮明にした歴史的な会議だったのです。
 出席者は、東条英機首相兼陸相、バー・モウ(ビルマ首相)、張景恵(満州国国務総理)、汪兆銘(中華民国国民政府行政院長)、ワンワイタヤコーン殿下(タイ首相代理)、ホセ・パシアノ・ラウレル(フィリピン大統領)、スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班) というそうそうたる面々です。
 この連載でも何人か紹介しましたが、まじめに歴史を繙けば、彼らが日本の「傀儡」に甘んじていたような人物ではないということはすぐにわかります。特に、今日でもインドにおいて、ガンディーやネールと同じような尊敬を受けているチャンドラ・ボースの炎のような人生を少しでも知っているならば、彼がこの会議を大いに評価したという一事をもって、決して教科書が言うように軽薄なものではないことがわかります。現在のインドのナレンドラ・モディ首相も、ボーズを尊敬していると公言しています。
 さて、開催当時、既にアメリカ軍の反撃が激しくなり、日に日に劣勢に陥っていたわが国と東条首相にとって、確かにこれは、デモンストレーションとしての意味もありました。実は、重光葵外相は、わが国の敗戦を予期し、連合国にとっては非常に痛い、「アジア諸国の植民地からの解放」という戦争目的を明確にしておく必要性を説き、それがこの大東亜会議となって結実したというわけです。
 だからといって大東亜会議は、わが国だけの利益を追求したものではありませんでした。出席した各国代表たちにとっても、大東亜会議は非常に意義ある会議となったのです。それは、大東亜会議が多くの人々が未だ植民地支配に喘いでいたアジアにおける、アジア人による、アジア人のための初めての国際会議だったからです。
 採択された『大東亜共同宣言』には、大東亜安定の確保と共存共栄、自主独立の尊重と親善、伝統と文化の尊重、互恵に基づく経済発展、人種差別の撤廃と世界各国との友好が謳われています。もちろん、戦局不利の中で、日本軍の軍政が、この宣言通りに行われなかったところもありました。しかしその精神は、アジア解放のために戦うという日本軍の信念をさらに強固なも
のとしました。また重光が考えていたように、戦後のアジアの中で、わが国が各国との間に友好的な関係を継続することができたことを見ても、決して無駄なものではなかったといえるでしょう。
 そして大東亜会議の精神は、今日ASEANに生き続けているのです。
 日本の敗戦後、アジア諸国は植民地支配から次々と脱却し、独立を勝ち取りました。それは決してわが国の力によるものではありません。しかし、大東亜戦争を通じて、彼らを間接的に援助したわが国の働きも、忘れられることはありません。アジアの歴史を直視せず、自らの存在を忘れているのは、実は日本人だけなのです。

連載第42 回/平成11 年2月2日掲載

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