教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第18章 廃藩置県(下)①
1.支配階層の抵抗
【解説】
言い訳をすると、多忙になったということもあるのだが、入力に使用していたMACが古すぎてOSのバージョンアップができなくなり、画像のチェックができなくなってしまったことで、編集がしにくくなったということが、長らくこのプロジェクトを進められなかった最大の理由だった。種本があるのだから。本当はとっくに脱稿していなければならなかったのだが、拙速はダメだ。仕事の合間を見て、コツコツやっていこうと思う。この本に出会うことで、本業の授業でも沖縄史を語れるようになったのは、筆者にとっては重要なことだし、自分自身でももう少し、美化されていない本当の沖縄史を学びたいと思う。
さて、廃藩置県前の、愚か者どもの抵抗の続きである。下級士族であった明治政府の役人が、自らの地位を脅かすかもしれない四民平等を断行したことは「武士の集団自殺」(モーリス・パンゲ)と言われるが、それにしても頑固党の醜さはこちらが赤面しそうだ。勿論、人間は既得権を手放したくはないものだが、時代の流れには争うことはできないし、ましてや、明治初年の国際情勢を理解できるならば、琉球の支配者たちの因循姑息は話にならない。実際、同じようなことを考え、実行に移した清国、朝鮮は亡国の道を辿り、東亜で唯一日本だけが、一等国の仲間入りができた(不完全で、また、不十分なものであったとは思うが)のは、ゆえなき事ではない。
【本文】
明治8年7月、松田道之が改めて伝えた明治政府の命令のうち、藩王の上京、清との関係を断ち切ること、制度を改めることについて、支配階層は強硬に反対しました。
政府は藩王を上京させて廃藩置県を断行し、封建政治を改めて、他の県と同じ制度にしようとしています。政庁の役人及び貴族の中には、天下の形勢に通じた人物もいないわけではなかったのですが、頑固党の誤りをただし、彼らを説き伏せる力と勇気のある人はいませんでした。
王の侍講(教師)であった津波古政正は、日本に加え、欧米、清の実情もよく知っており、世の中の進んで行く方向もはっきりと理解していた人です。しかし、一般の人は、この人の意見には全く耳を傾けなかったといわれます。
尚泰王が、摂政、三司官よりも正しい判断を下し、大きな過ちを起こさせなかったのは、王自身も賢明な人ではありましたが、津波古の感化、助言が少くなかったと考えられます。
政庁の役人及び貴族たちは、開化党と頑固党のふたつに分かれています。
開化党は明治政府の命令にも耳を傾け、改革を行いながら、現状をつづけたいという考えの人たちです。政庁の役人、一般の士族、地方の村役人階級に開化党が多かったといわれます。頑固党は、首里、久米村にいた、政庁の役人でない貴族・士族が多かったのです。
しかし、開化党も頑固党も、結局のところ、何とかして自分たちが沖縄の支配者であり続けたいとの考えは同じです。彼らは明治30年ごろまで、この考えを捨てられませんでした。
頑固党の意見はまったく利己的なものでした。彼らは次のようなことをいっています。
「我々は家柄が良いので、代々領地をいただいてきたが、日本のようになると、ただ学識ある者だけが官吏になり、我々の家は衰え、我々の子孫は飢え死にする外はない」、だから「政府の命令を聞くことはできない」というのです。良い家柄とは、王の近親やその子孫、あるいは三司官の子孫など、360戸ぐらいでした。今なら、笑い話にしかならない愚論ですが、その時代には共鳴者が多くいました。
清国との交際をやめるのは、「数百年来の信義に反するから不道徳だ」と主張しました。これももっともらしく聞こえるので共鳴者が少くありませんでした。
「清国との交際」というのは、進貢と冊封の二つです。進貢は清国の属国のようにみせかけて、政庁及び役人の懐が潤う有利な貿易をすることで、一般の人々には何の関係のないことです。貿易の利益は主に薩摩藩のものでした。しかし、王も、進貢船に乗って行った役人も、それぞれ大きい利益があったのです。
冊封は、王の一代に一度やる儀式で、属国の形式をととのえるのに必要なものです。
沖縄が日本になると、外交は外務省と外交官がやり、貿易は国民が自由にやることになるから、頑固党は反対したのです。
頑固党の連中は、こんなことになるのは、さきに東京で、藩王の称号をお受けして来た伊江朝直、宜湾朝保らの責任だと非難し、尚泰に彼らを罰するようにと要求しました。
大正5年に、伊波普猷と真境名安興が出版した『琉球の五偉人』で、琉球の五偉人の一人に選ばれている宜湾朝保は、頑固党の非難攻撃の的となって隠棲し、明治9年8月、室韋のうちに世を去りました。
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